第38話 誓いを交わす

 焦げ茶色の壁掛け時計が、小さな小さなチクタク音を響かせて午後10時を告げた頃。


 タイリクオオカミ主催のギロギロ一挙読み聞かせの会は、ここでようやくのお開きとなった。

 この時刻ともなると、ロッジ中の照明がひとりでに光を弱めてしまうらしく、玄関口である中央ホールもその例外ではなかった。薄暗い中ではせっかくの漫画も見せにくく、また、支配人のアリツカゲラが寝る時間でもあるためか、読み聞かせの会は意外にもあっさり終了した。


 そうして今、ヒグマとキンシコウ、孝太の三人は、宿泊部屋を目指して暗い廊下を進んでいた。

 紅色の床材が延々と続く廊下は、小円形のシーリングライトの発するぼやけた光に彩られ、なかなかに不気味な雰囲気を漂わせている。

 歩くたびに小さくギシ、ギシ、と嫌な音が鳴り響き、ヒグマとキンシコウのけもの耳もあっちゃこっちゃと常に向きを変え続けていた。


 そんな折、前を歩くキンシコウがおもむろに呟いた。


「……氷って、あんな使い方があるんですね。考えたこともありませんでした」


 唐突に出された話題は、先ほどまで読み聞かせが行われていた『ホラー探偵ギロギロ』の、とあるエピソードから来るものだった。


 『証なき犯行』と題されたそのお話は、雪山の麓の山荘───架空の施設らしいが、明らかにロッジがモデルだろう───で起きた宿泊客の怪死事件を、たまたま休暇に訪れた主人公ギロギロが推理、解決していく、という内容だ。

 しかし、そのエピソードは他のお話とは毛色が違った。犯行に用いられた凶器が、いつまで経ってもさっぱり見つからないのだ。

 『証なき犯行』は、常に冴えた閃きを見せていたギロギロが明確に焦り、苦悩する姿を初めて見せた回であった。

 とはいえ、最終的には事件当時に山荘の管理人がとっていた謎の行動を元に、ギロギロは凶器がつららであることを突き止め、事件を解決に導いたのだった。


「溶けたら証拠は残らない、か。なるほどなぁ……」


 キンシコウの隣で肩を並べて歩くヒグマは、噛みしめるように言った。どうやら、氷の凶器はこの二人にかなり強い印象を残したようだ。

 せわしなく動くけもの耳とは裏腹に、彼女たちの意識は今や完全に漫画の世界へと向けられている。


「言われてみれば当たり前のことなんだが、そこから凶器としてつららを使う、っていう発想はさすがに出てこないな……」


 言外にて氷のトリックを称賛するヒグマは、正に『目からウロコ』の言葉がぴったりな感心具合だ。

 そこに、それまで静観を貫いていた孝太がぼそっと横槍を挟む。


「……皆さんの武器もつららみたいなものですよね。出したり消したり自由ですし、むしろ氷より便利かも」


 二対のけもの耳が、横を向いた形でピタリとその動きを止めた。同時に、前の二人の歩みまでもが止まる。


「た…たしかに…………お前、天才か?」


 ゆっくり振り返ったヒグマの目は大きく見開かれ、その表情は驚きに満ちていて。

 それを目にして思わず吹き出してしまった孝太は、赤くなったヒグマに熊手を突き付けられる羽目になった。

 ギロギロのホラー要素が霞むような凄みに圧され、孝太はその場で平謝りする他なかった。





 そんな廊下でのいざこざから五分も経たない内に、真っ暗な『ささやか』内にて、孝太はシングルベッドに横たわっていた。

 威嚇と謝罪が飛び交った時点で互いの宿泊部屋は目前となっていたようで、いち早くその事実に気付いたキンシコウは、ほとんどヒグマを引っぱる形で『ふわふわ』へと退散していった。

 もう何度目の助け舟を出してもらったのだろうか。出会ってから丸一日も経っていないのに、既にキンシコウにはお世話になりっぱなしだった。

 一難去って、深く大きなため息をついた孝太は、そのまま暗闇に目を閉じる。



 ……寝よう。



 このパークに落ちて来て以来、夜には寝る以外の選択肢がほとんど存在していない。

 依存していたと言い切れるインターネットも、それを介する機器もなく、図らずも持ち込むこととなったゲーム機も、雪山を去る時に置いてきた。

 名残惜しくないといえば嘘になるが、あれは自分にとって、ある種の決別に等しい行為でもあった。


 何も残せるものがない男の、せめてもの置き土産。

 あの娘たちを危険すぎる戦いに巻き込んだことへの、戒めの意。


 どこまでも自分本位の考えでしかなく、当の彼女たちからすれば、触れづらい物と化しているやもしれないが。



 ……ダメだ。横たわると暗い考えばかり浮かんできてしまう。



 よくない兆候だ。こうなってしまうと、思考の軌道修正が急務となる。

 負のスパイラルに囚われないよう、別のことを考えるべきだ。


 明日になったら、タイリクオオカミとアリツカゲラに謎のメモのことを尋ねよう。何かしらが判明しようとしまいと、一応の収穫にはなるのだ。

 長居をする気もないので、他に気になったことがあれば明日の内に聴いておいた方が良いだろう。

 おそらくハンターの二人とも別れることとなるだろうから、早々にお礼も言っておかなくては。



 ────そう。



 横になったら、やるべきこと、したいことを考えろ。

 後悔を繰り返すのは己に毒なのだから、あれこれ過去は思い返すのは最小限に抑えるのがいい。



 ────薬なんて、とっくに抜けているのだから。





 ふと、コンコン、という軽い音が闇に響いた。


「……?」


 パチリと目を開き、孝太は静かに身体を起こす。音の出所は、部屋と廊下を隔てるそこの扉のようだ。

 孝太は闇に慣れた瞳を凝らして、床と扉の隙間から覗く淡い光を捉えた。

 見ると、その光の帯には人ひとり分の影が出来ている。であれば、今のはノックの音で間違いなさそうだ。

 こんなタイミングでやってくるとは、扉の向こう側の人物はいったい誰だろうか。孝太がそう考えていると、先に尋ね人の方から声がかかった。


「起きているんだろう? コータ君。ちょっと話があるんだが、入ってもいいかな?」


 宵闇の訪問者は、タイリクオオカミだった。





「……デッサン、ですか?」


 予想外の話が舞い込んできて、孝太は起き抜けから早々に困惑することとなった。

 脇にスケッチブックを抱えたタイリクオオカミは、机に寄りかかりながら話す。


「うん、どうしてもモデルが欲しくってね。……その様子だと、デッサンとは何なのかを説明するべきかな?」


「や、デッサンの意味は分かります。そうじゃなくて、今この時間にやるんですか? …ってことです」


 照明の眩しさに目を細めつつ、孝太は己が発言の意図を正しく伝えた。

 デッサンとは、人や物体を目の前に据えて、その対象を鉛筆などで正確に描き表す、描画の訓練のことだったと記憶している。

 かつて美術の授業で習い、実践させられた覚えがある。


「それは……その、読み聞かせに熱が入ってしまってね。あんなに長くやる予定ではなかったんだよ」


 アハハ…と困った風に笑い、タイリクオオカミは頬をかいた。

 現実にその仕草をする者は初めて見たが、やはり漫画家ともなると、記号的な表現ですら板についてしまうのだろうか。


「えぇと……まぁ、別にいいんですけども」


 もごもごと言い淀んだ孝太は、承諾の意を示しつつも、


「身体は貧相だし、猫背だったりもしますけど、そんなのがモデルでいいんですか?」


 と再三の確認を促した。

 孝太からすれば、モデルとしてはヒグマやキンシコウの方がずっと適しているように思えたのだった。彼女たちなら体型も姿勢も申し分ないだろう。

 そんな孝太の問いかけに、タイリクオオカミは身を乗り出しながら反論をする。


「いやいやいや! それもこれも引っくるめて、そんな君だからこそ! いいんじゃあないか!」


「そ、そう…ですか……」


 急に声のトーンが、音量が上がり、孝太は勢いに気圧される。そのまま彼女は、目を輝かせて語り出した。


「いいかい? 何においてもまず君は、このパークにおいて大変貴重な『ヒト』という種族であり、更に素晴らしいことにオスでもあるんだ…!」


 早口になったタイリクオオカミは、困惑する孝太へと詰め寄ると、大仰な身ぶり手振りでもって力説を続ける。


「まさに君は生ける化石! 絶滅危惧種! いや、人間国ほ─────ぅ? や、何か違うかな…………うん、まぁともかく!」 


 勝手に盛り上がって勝手に疑問を抱く彼女は、いきなりガシッ!と孝太の肩を掴んで言った。


「ヒトのオスのデッサンなんて、今回を逃したら金輪際できないかもしれない…! 故に是非!! 描かせて頂けないだろうか!? 頼む!!」


 興奮気味にまくしたてるせいで、タイリクオオカミの口調はどこかおかしくなっていた。

 あまりの熱量に、孝太はぐわっ…と眩暈がしそうな感覚すら覚えた。ただ聞いているだけなのに、えらく疲れてきた。

 そして、返事が返ってこないことに業を煮やしたのか、タイリクオオカミはついにダメ押しのひと言をぶつける。


「む……そうだ…! もし描かせてくれるなら、代わりに君の頼みをひとつ、何でも聞こうじゃないか!!」


「えぇ!?」


 ただただ圧されていただけなのに、大変な交換条件が提示されてしまった。

 モデルの対価としては破格の権利である。頼み事次第とはいえ、明らかに釣り合っていないし、字面が色々よろしくない。


「そ、そこまではしなくていいです!! 普通にやりますよ! モデルくらい!」


「おおっ、ホントかい!? 言ってみるものだね…!」


 流されるままの承諾を受けて、タイリクオオカミは心底嬉しそうに微笑んだ。

 勢いに呑まれたのは確かだったが、実際そこまでして頼み込むようなことは、現状では何一つとしてなかった。また、自分はここで小粋なジョークを飛ばせるほどノリのいい人間でもない。


「しかし……ん、そうだ…! 今回のことは借しをひとつ、いわゆる『ツケ』ってことにしておくのはどうだい?」


「ツケ……ですか?」


 少し落ち着きを取り戻した様子のタイリクオオカミは、たじたじな孝太を鑑みてか、急遽代替案を提示してきた。

 ツケ。それは代価の後払いを指す言葉だ。今回の場合は約束の先送り、という形だろうか。

 それにしても、彼女の言い回しの多くはフレンズらしからぬ表現で溢れている。いったい、どれほどの勉強をしたのだろう?


 と、タイリクオオカミは突如姿勢を改め、まっすぐに孝太の目を射抜くと、


「────たとえ一ヶ月後、一年後であろうと、君からの頼みがあったなら、必ずそれを果たさんことをここに誓おう」


 努めて厳かに、そう宣言した。

 先ほどまでのおちゃらけた雰囲気から一変して、気付けば彼女はとても真面目な顔をしていた。肌がざわつくようなその急変に、孝太はひたすら戸惑った。


「フフ、そんなに驚かなくったっていいじゃないか。カッコつけてみただけさ……とある作品の真似事だよ。気高き一匹狼の誓約、とかなんとかいってね」


「は、はぁ……」


 おどけた仕草で誤魔化してはいるが、今さっきの彼女の力強い眼差しには、言い知れぬ何かが宿っているように思えた。

 この食えないけものの真意は、自分にはとても計り知れない。


「ま、それはさておき…………早速デッサンを始めよう! ささ、こっちにどうぞ」


「あっ、は、はい!」


 再び態度を急変させ、タイリクオオカミは机から木の椅子をそそくさと引っ張り出した。真面目な空気はどこへやら、早くも彼女は表情を軟化させ、いつの間にか右手で鉛筆なんか回している。

 あわてて孝太は椅子へと移り、入れ替わりで彼女がベッドに腰掛けた。


「……それで、普通に座ってればいいんですか? 何かポーズとか……」


「あぁ、そうそう! 言い忘れてたよ。とりあえず─────」


 直後、孝太は思わず己の耳を疑った。

 そして、破格の誓約の理由を今まさに理解したのだった。


「一通り、服を脱いでくれないかい?」


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