第39話 モデルをこなす
静まりかえったロッジの一室に、シャッ、シャッ、シャッ、と細やかな音が走る。
「……ふぅむ。違う世界、違う世界ね……」
己の言葉を噛み砕くよう、タイリクオオカミは繰り返した。ベッドに腰掛ける彼女の視線は、常に孝太の顔とスケッチブックをいったり来たりしている。
「君の話は実に興味深いな。この……オスの人体と同じか、それ以上にね」
そう言って、タイリクオオカミはくるりとスケッチブックを返した。
紙面には、椅子に座って考え込むような格好の男が、鉛筆の荒い黒線でもって描かれている。その表情はやたらと硬く、さながら写りの悪い証明写真を貼り付けたかのようだった。
だが、それは当然の事といえた。
部屋の中央でポーズを取り続けているその男は、半裸の、下着姿だったのだから。
「も……もういいですか…?」
じっとりとした視線に耐えかねて、孝太は弱々しく尋ねた。
それを受け、タイリクオオカミは嫌らしい笑みを隠すことなく首を振る。
早く終わってくれ─────……!
世にも珍しき『ヒトのオスのデッサン実習』は、既に開始から一時間ほどが経過していた。
モデル役を引き受けた孝太は、タイリクオオカミの魅力的(?)な提案と引き換えに、しぶしぶ服を脱ぐことを承諾したのだった。
当初の彼女の所望はなんとヌードモデル───初めて会ったその日にいきなり頼むことだろうか?───であり、さすがの孝太もそこまでの要求は呑めなかった。
その結果、ひねり出された折衷案こそが、グレーのタンクトップと群青色のトランクスのみ、という現状である。
これまでの人生において、孝太はトランクスを穿いていたことに今ほどありがたみを感じたことはなかった。
そうしてポーズを変えること早三度目。
デッサンの合間にもタイリクオオカミはひたすら口を動かしていて、気付けば孝太は身の上話を引き出されていた。
「─────それでヒグマたちと、か。運が良かったねぇ」
「……ですね。下手したら野垂れ死んでましたから」
ここへ至るまでの経緯を大まかに話し終え、孝太はひと息ついた。
と、少しポーズがズレ始めていたらしく、タイリクオオカミに指摘されてもぞもぞと体勢を戻す。
はじめは緊張で首筋がガチガチになってしまっていたのだが、長々と話していたら大分気楽にやれるようになっていた。あんまり固まっていたものだから、きっと彼女も気を使ってくれたのだろう。たぶん。
「……ふむふむ、なるほどね」
話の総まとめのひと言を、タイリクオオカミはぼそりと呟いた。その間にも、彼女の右手はせかせかと鉛筆を走らせている。
そして数秒の後、しばらくスケッチブックに釘付けになっていたオッドアイをこちらへ向けると、
「ところで、話は変わるんだが……ヒトの世には本が、漫画が山ほどあるらしいって博士に聞いたんだけど、実際のところどうなんだい?」
そう、切り出した。
そこそこ急な舵取りだったが、漫画家の彼女らしい関心の向け方に孝太はひとり納得した。
「本……は、そうですね。それはもう、色んな種類のものが数えきれないくらい沢山ありますよ。もちろん、漫画もいっぱい」
つい最近まで過ごしていた世界へと思考を巡らせ、孝太は「最近は電子書籍ってのも増えて、紙の本に留まらないですし」なんて呑気に補足する。
おそらくここ、ジャパリパークの蔵書はそれほど多くはないだろう。故に彼女は、その事実にどれほどの羨望の眼差しを向けてくるだろうか──────補足を終えてからそこまで考えが至り、孝太は押し寄せてくるであろう好奇心へと身構えたのだが……
「おぉ、やっぱりね……! ちなみにどういう漫画があるのか、ご教授願いたいのだけれど……出来るだけ詳しく…!」
意外にも、タイリクオオカミの反応はそれほど大きいものではなかった。思わず孝太は拍子抜けしてしまったが、それはともかくとして、自身の漫画の知識へとすぐさまアクセスする。
「どういう……ですか。うーんと……その、いっぱいありすぎて何から言えばいいのか……」
「じゃあ、そうだ。有名な作品から教えてくれないかい? ────あっ! ツケ、増やした方がいいかい?」
知識を出し渋っているとでも思われたのか、彼女は軽々しく己が身を売り出そうとする。頼みをなんでも、という安くない代償をこうもあっさり支払おうとするのは正直感心できない。
孝太はあわててその提案を取り下げさせると、彼女の想像力が豊かであることを信じて話し出した。
「古い作品に鉄腕…………いや、『火の鳥』っていう漫画があるんですけど────」
デッサン中に話題が逸れてから、更に一時間以上は経っただろうか。
『火の鳥』を皮切りに、『ドラゴンボール』やら『名探偵コナン』やら、孝太はフレンズでも比較的想像がつきやすそうな作品を選んで、内容をわかりやすく伝えるべく努めた。はじめは案外落ち着いていたタイリクオオカミも、ひとつ、ふたつと語るにつれて徐々に目を光らせていった。
時にはモンタージュ写真でも作らせるかの如く、孝太は彼女の筆を介してキャラクターや物体のビジュアルも説明しようと試みた。もっとも、まともに絵も描いたこともないような表現力では、ただただ焼け石に水であったが。
そうやって、孝太があれやこれやと有名作品を連ねていると、不意にタイリクオオカミが言った。
「フフ……ずいぶんと色々な漫画を知ってるんだね、君は。もしかすると、いわゆるオタクってやつだったりするのかな?」
何故だかイタズラっぽい笑みを浮かべた彼女は、鉛筆の消しゴム部分で孝太の肩を突っついた。
下着姿であることをすっかり忘れていた孝太は、なんとも表しにくい、硬くてぶにっとしたその感触にハッとした。と同時に、答えにも窮した。
「え、やっ、それは……そう、なんですけど、今のヒトの社会じゃあ、漫画はみんな読んでますし……」
ほとんど無意識の内に、言い訳めいた言葉が口をついて出る。
それはオタクであることを否定したくて飛び出たわけではなく、どこまでも自信の持てない気質が故に表出したものだった。
すなわち、オタクと自称できるほどの見識がはたして己にあるのか? という、まず抱く必要のなさそうな畏れから来るもの。
孝太のそんな微妙極まりない反応に、タイリクオオカミも少し戸惑ったようだった。
せっかくの流れを淀ませまいと、孝太はすかさず軌道修正を図る。
「……まぁ、その! 色々読んだことはありますけど、漫画そのものについてはそんなに知識もないですし……大したことはないんですよ、はは……」
少しばかり不自然な笑いが、狭い室内に染み渡る。自嘲気味な孝太の言葉に、そんなことはないさ、とタイリクオオカミは優しく返事をした。
「そんなこといったら、私なんて図書館にある数冊分でしか漫画ってものを知らないよ」
「えっ…!?」
思わぬ事実に、孝太は驚いた。
元より図書館に漫画が置いてあるイメージはなかったが、このパークにたったの数冊しか漫画がないというのはさすがに予想していなかった。なぜなら、彼女の描いた『ホラー探偵ギロギロ』はとてもしっかりとした出来であったからだ。
漫画の作り方の指南書でも置かれていたのかと聞いてみたが、そんなものは知らない、とのことだった。その上、図書館に置いてあるのはなんと、『漫画で学ぶ歴史』などといった学習本の一種であるらしい。
たったそれだけを糧に漫画の制作へとこぎ着けるだなんて、それこそ天才の所業といえるのではないだろうか。
「ふふ……褒められるのも悪い気はしないけど、そんな天才ってほどのことじゃないさ」
タイリクオオカミは、しばしご無沙汰であったスケッチブックに目を落として言う。
柄にもなく照れているように思えた。否、照れていると断言できた。
表情に変化はなくとも、ベッドに投げ出されていた彼女の尻尾が、わずかに左右へいったり来たりしているのが見てとれたからだ。血を分けたイエイヌらと根っこが同じであるが故なのか、せっかくのニヒルな笑みが台無しであった。
「でも、やっぱりすごいことですよ……! よく探偵ものなんて難しそうなやつを描けましたね……僕なんてまず、アイディアが浮かびませんよ」
孝太が更なら賞賛を投げかけると、タイリクオオカミの尻尾の振りが少し速くなった。食えないけもの、といった風にしか認識していなかったが、これはなんともわかりやすい。
と、尻尾ばかり見ていたことに気付かれたのか、彼女はぴたりと尾の動きを止めると、そのことにはまるで触れることもなく立ち上がり、
「ギロギロのアイディアは……そう、いきなり降ってきたのさ。ある日突然、天からね」
特に何があるわけでもない天井を見つめ、タイリクオオカミは今日一番のキザっぽさでもって言い切った。
そのあんまりにカッコつけた振る舞いに、孝太は苦笑する他なかった。
「むぅ…………」
渾身の決めポーズを笑われたのが少々気に食わなかったようで、タイリクオオカミは軽く眉をひそめた。
が、ふと何かを思いついたのか、即座に不機嫌さを取っ払うと、彼女は急に孝太の目の前へと迫る。
「……? なん、ですか……?」
「いやぁ、ね。もう遅いし、そろそろ最後のデッサンに入ろうと思ってさ」
その言葉とは裏腹に、彼女は鉛筆とスケッチブックをベッドの上へと放り出した。
椅子に座ったままの孝太に、立ちはだかるタイリクオオカミの身体が影を作る。なんとなく良からぬ予感がして、孝太は咄嗟に身体を90度ひねった。
しかし、彼女の右手が孝太のむき出しの左肩をガシリと掴む。想像以上の力に抑えられ、孝太は身をひねることも、椅子から逃れることも出来なくなってしまった。
「あ、あの……これは─────」
なんのつもりですか?
そう口にするよりも早く、タイリクオオカミの左手が孝太のタンクトップの裾を掴んだ。
「っ!? ちょっ……」
その左手首を、孝太は反射的に右手で掴む。細くて色白な彼女の手は、その印象に反して堅牢で、びくともしない。
先の戦いにて歪んでしまった手だから、というわけでもなさそうだった。
両の手から握力以上の圧を感じさせながらも、タイリクオオカミは眼前でニッコリと微笑んだ。
「最後だから、描かせてくれないかい? 余すことなく、ね…!」
それはお願いという体の実力行使だった。
言うが早いか否か、彼女は右手をすばやく肩から離すと、孝太のトランクスに手を掛ける。
「ぅわっ!? や、止めてくださいっ! まっ────」
「すまない! しかしこれも漫画の、ひいては読者のためなんだっ! フレンズ助けだと思ってひとつッ!!」
突如、『ささやか』にて互いの両手による攻防戦が勃発した。
単純な力の差では明らかにタイリクオオカミが勝っているのだが、そこは孝太も必死である。肩の抑えがなくなったため、孝太は身体を徐々に横へとひねることで狼の魔の手を掻い潜ろうとしていた。
狭い室内に、揺れる椅子の音と振動が響く。
「う、ぐっ……!!」
頼むからもってくれ……!
下着の生地っ……!!
そんな、一生に一度願うかどうかもわからない珍妙な祈りを、孝太は胸の内で捧げた。
その祈りが、届いたのだろうか。
バンッ!と勢いよく扉が開かれると、肩を怒らせたヒグマがずんずんと突っこんできた。
「おいコラッ! いい加減うるさいぞッ! もう夜中─────」
怒声と共に乱入してきたヒグマは、目の前の光景を見ると一転、絶句する。
無理もなかった。彼女から2メートルも離れていないところに、半裸のヒトのオスと、それを組み伏せるかのように迫るメスのオオカミがいたのだから。
「………………な…………」
「…………っ…!」
「……………………やぁ、ヒグマ」
三者三様だった。
正確には、二者はほぼ同様に凍りつき、ひとりは驚きつつも大した変化がなかった。
そうして更に、廊下からは四人目までもが現れる。
「何して─────……!?」
眠そうな顔でとぼとぼやってきたキンシコウは、杖代わりにしていた如意棒───にしか見えない彼女の武器───をパタリと倒してしまう。パクパクと口を動かす彼女は、一瞬にして目が覚めたようだった。
「お、君も来たのか。……うん、丁度いい。ちょいと加勢してくれないかい?」
やってきた二人が固まったのを気にも留めず、タイリクオオカミはあっけらかんと言い放った。
「加勢……って、な、な、何をっ……!」
呼びかけられ、停止状態が解かれたヒグマは大きく後ずさった。真っ赤な顔と、ぶわっと毛量を増したかのような黒髪を見る限り、彼女は何か誤解しているようにも思える。
もはや一周回って落ち着きすら感じている孝太は、場違い感のある冷静な分析をしていた。
一方、ヒグマの後ろで唖然としているキンシコウは、
「…………お、お邪魔…しました……」
とだけ絞り出すと、焦点の定まらない目をしたまま、ススス…とスライドして廊下へと消えていった。彼女が離れていったからか、廊下に残された如意棒はフッ…と霧散する。便利なものだ。
「ダメそうか…………ま、仕方ない。ともかく、今の内にっ!!」
援軍に期待できないと判断すると、タイリクオオカミは隙だらけの孝太目掛けて牙を剥く。
しかし、彼女の手が孝太のトランクスをずり下ろすことはなかった。
「んっ?」
狼の魔手が、空を切る。
ヒグマが椅子ごと孝太をひょいと持ち上げたためだった。天井が一気に近付き、孝太は椅子にしがみつく。
「か、変わったフレンズだとは思っていたが…まさか…………だとはッ…!」
わなわなと打ち震えるヒグマの言葉は肉体同様に震えていて、肝心な箇所は歯抜けになっていた。幸い、椅子は静かに下ろされ、そこに掴まるヒトも無事に床へと足をつけることが出来た。孝太は安堵のため息をつく。
対するオオカミは、そんなヒグマの様相に遅まきながら危機感を覚えたようだった。立ち位置的にも逃げ場のない彼女は、一縷の望みにかけて得意の口を動かす。
「ちょ、ちょっと、君は何か勘違いをしてるんじゃないか? 私は漫画の資料────」
決死の弁明が始まりかけたその矢先、問答無用といわんばかりの黒き一撃がタイリクオオカミの下顎を捉えた。
インナーに覆われた腕が思い切り真上に振り上げられると、欲にまみれた悪しきオオカミは、美しい軌道を描きながら後方のベッドへと沈み込んでいく。
今日の行いのすべてが今、一日の終わりに綺麗に跳ね返ったのだろう。正に因果応報。
こうして見事、悪は成敗された。
乱れかけた深夜のロッジに、ついに静寂という名の平和が訪れたのだった。
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