第40話 探り合う


 チュンチュン、チュン。


 そう遠くない距離から、小鳥のさえずりが聴こえてくる。それは彼らなりの朝の挨拶なのだろうか。隣人に「おはよう」と返すかの如く、さらに数羽の鳴き声が木々を飛び交う。

 森に爽やかな朝の訪れを告げる、気持ちのいいモーニングコールだった。


「丁度いい水場はここぐらいですかね~…」


 かつてはそんな鳥たちの内の一羽だったかもしれないアリツカゲラは、目の前に並ぶ蛇口を示してそう言った。

 それは小さな倉庫脇に併設されている、横長な石造りの洗い場から生えた蛇口だった。こういう立って使うタイプの洗い場は、高校で見たっきりだろうか。ロッジの下に隠れるように作られたこの場所は、吊り橋やバルコニーの陰となっているせいか、全体的にじめっとした雰囲気を漂わせている。

 水質確認のため、孝太は一番左の丸っこい金属十字をひねる。


 キュッ!


 ……ジャーッ!


 透き通った水が下へ一直線に流れ落ちていき、すぐに右の排水溝の中へと消えていく。

 孝太は流水に手を触れ、軽くすくい上げると、そのニオイをも嗅いでみる。一応、用心するに越したことはない。

 そんな神経質なお客様を見て、アリツカゲラは「だ、大丈夫ですよ~…!」と苦笑いした。わずかに口に含んでもみたが、元いた世界でよく知る水道水となんら変わりない味がする。

 彼女の言う通り、たしかに問題はなさそうだ。


「……のようですね。じゃあここ、使わせてもらいます」




 ロッジに泊まった、次の日の早朝。

 アリツカゲラに連れられ、孝太は外の洗い場へとやって来ていた。その目的は、雪山地方から走って歩いてで身体にこびりついてしまった汗よごれを洗い流すことだった。

 風呂をすっぽかしたとき特有の嫌なベタつきと共に目覚めた孝太は、朝食で皆が集う前に身体を綺麗にしようと考え、起きてすぐロッジ内を探索していた。

 そこで孝太は自身よりも更に早起きしていたアリツカゲラと出会い、事情を説明したところ、この洗い場へと案内されたのだった。


 ロッジの小さな洗面所から持ってきた数枚のタオルを手にして、アリツカゲラは「これを使う方は初めてですね~」と何やら感心した風にうなずいている。

 支配人がタオルの用途を知らないというおかしな状況に、孝太は心の内で苦笑する。そして、温泉宿の皆はあれでかなりの文明人だったのだ、と再認識した。


「タオルもここも、ありがとうございます。助かりました」


「いえいえ~。…あ、上に朝ごはんがありますから、終わったら来てくださいね~」


 そう言ってにこやかな笑みを浮かべたアリツカゲラは、頭から伸びた翼をバッサバッサと羽ばたかせる。

 彼女は飛翔に興味津々な孝太を見下ろしながら、ではでは~、と手を振りながら上昇していった。


「あっ…」


 翼のような、しかし平常時は確かに頭髪であるそれの羽ばたきからは、かすかに虹色の粒子が振りまかれていた。フレンズ周りにおける七色の輝き、それはすなわちサンドスターのきらめきに違いない。

 武器を形作ったり、とんでもない怪力を生み出すパワーであれば、人の身で飛ぶという所業もおかしくはない……のだろうか。宙を見上げる孝太は、そんなことをぼんやりと考えていた。

 が、その思考は孝太の頭の内の50%程度のもので、残りの半分は否応なしに見えてしまっているスカートの中のことで埋まっていたのだった。

 ……白い。


「…………っ」


 無理やり首を回し、孝太は洗い場に意識を切り替える。朝っぱらから邪な考えを抱いていないで、さっさと済ませてしまおう。


 涼しげな朝の空気の中、ちょっぴり冷たい水を染み込ませたタオルで身体を拭いていると、遠い昔に乾布摩擦をさせられた記憶がおぼろげに浮かんできた。

 あれは学校行事か何かだった。教師の思い付きだったのか、はたまた健康ブームの類いだったのか、ほんの一過性のもので長続きはしなかった覚えがある。それ以来、寒空の下で身体をこするような真似はしたことがない。


 ……これまでの人生で、今が一番健康的な生活を送っているんじゃないか?


 湿った白いタオルで腕をごしごしと拭きながら、孝太はふと過去を振り返った。

 年を重ねるごとに外出が著しく減り、どこまでも不摂生な日々を繰り返す自分ばかりが思い出される。

 違う世界に落ちたことが幸か不幸か、いまだはっきりとは結論付けられないのだが、少なくとも健康面では良かったといえるだろう。

 次に夢で『彼女』に、イーシュに出会えたなら、まずはお礼を言うべきかもしれない。

 ……いや、彼女は常に自分を通して周りを見ている風だったので、出会えたら、ではなく、思い立ったらすぐに言った方が良いのでは?


「……ありがとう」


 洗い場にてひとり、そう呟いた。

 ぽつりと発せられた感謝の言葉は、すぐさま朝の大気に溶け込んでいく。妙に照れ臭くって、言ったそばから顔が熱くなってきた。

 身体の拭き取りは一時中断し、孝太は蛇口から流れる水に頭を突っ込んだ。ひんやりとした感触が全身を震わせ、思わず鳥肌が立ってしまうが、構わずぐしぐしと頭を洗い流す。


 はたして、彼女に届いただろうか。


 薄い水色の空に漂う白い雲が、その切れ目から光をこぼれ落とした。朝日が作る斜め向きの木漏れ日は、洗い場に跳ねた水滴たちをキラキラと輝かせていた。






「……これが、件のメモかい?」


 テーブルの上で広げられた小さな紙を、タイリクオオカミが鉛筆で指す。

 ヒグマとキンシコウの二人は既にメモについて知っているため、彼女らの目はどちらかというとタイリクオオカミの方へ向いていた。一方アリツカゲラは、椅子から身を乗り出すこともなく遠目にメモを見ている。

 もしやという疑惑の目と、そこまで興味をそそられない、という目だった。


「はい。ここには─────」


「ロッジへ、と書かれているね」


 文字を読み上げようとした矢先、タイリクオオカミが割り込んだ。それを聞き、ヒグマとキンシコウはむっ、と視線を彼女へ移す。

 ロッジの名が出た瞬間、アリツカゲラはぴくりと反応し、孝太とタイリクオオカミの顔を交互に見返した。


「……そうです。あぁ、これは文字といって、こうして喋っている言葉を形として表したもので─────」


 文字についてよくは知らないらしいアリツカゲラへ向けた解説も、孝太は付け加えた。

 ジャパリまんを頬張る間に頭の中で言葉選びを終えていたので、かつてない滑らかさで説明が進み、ひとまず彼女は文字について理解してくれたようだった。


「それで君は、これを書いた人物を探している……ということかい」


 孝太がひと息ついたところで、タイリクオオカミがすかさず要点を突く。さすが、話が早い。孝太はこくりと、神妙に頷いた。


「誰が、何のために書いたのか。そして実際のところ、ここに何かがあるのか…? 僕はそれを知りたくて来ました」


 ヒグマとキンシコウが、静かに互いの顔を見合わせる。アリツカゲラはオロオロと皆の表情を見比べている。

 やはりタイリクオオカミだけが余裕を持った顔をしていた。そして彼女は、フフッ…と不敵に笑うと、


「ずばり君はこの私、タイリクオオカミがこのメモを書き残したんじゃあないか? ……そう考えているね?」


 本来予想されるであろう言葉の応酬の諸々をすっ飛ばして、一直線に本題へと踏み込んだ。取り残されかけていたアリツカゲラが、えっ!という驚きの声を上げる。

 順序はともかく、ここまでは予想通りだった。これまで会ったフレンズの中で、彼女は最も賢い。故に、自身が真っ先に疑われる立場であることもしっかり理解しているのだろう。

 あとは彼女の返答次第。鬼が出るか蛇が出るか、はたまた霧を掴むようにたち消えるか、だ。


「なら……そうだな。先に結論、というか答えを示そうか」


 そう言うと、タイリクオオカミは胸ポケットから四つ折りの紙を取り出した。一瞬、メモ帳かと空目して、孝太はドキリとする。

 彼女曰く、それはスケッチブックの用紙を六等分したもので、いつ如何なる時であっても絵を描き残せるよう常にポケットに忍ばせているものらしい。実に殊勝な心掛けである。


「答え、って……」


 孝太が疑問を口に出すと、タイリクオオカミはそれにウィンクで答えた。

 まぁ、見ていてくれ。彼女の黄色い右目はそう物語っている。

 それから彼女は、取り出した紙の上でジャッ、ジャッと鉛筆を走らせた。数秒して、紙には四つの文字が書き上げられた。


「……こういうことさ」


 タイリクオオカミは紙をくるっと180度回転させ、孝太へと提示する。



  ロッジへ



 紙には、黒鉛による独特なかすれ具合を宿した線がその形を成している。文そのものは、孝太が持ってきたメモ用紙のそれと同一の意味を示すものだ。

 しかし─────


「その…………結構、違いますね」


「恥ずかしながら、文字を書く練習はあまりやってなくってね……そんなに意外だったかい?」


 そう。

 同じ文ではあるが、筆跡がまるで違った。


 温泉宿で見つけたメモの四文字は整った筆跡をしていて、線の一本一本にブレがない。資格が、書道が云々といったようなずば抜けて綺麗な文字ではないものの、その迷いのない線からは日頃文字を書き慣れていることがよくわかる。

 対して、タイリクオオカミの書いた四文字は……


「そんなまじまじと見ないでおくれよ。読みには結構自信あるけど、書くのは専門外なんだ」


 ははは、と笑って、彼女は自分の字を隠すように鉛筆を乗っけた。照れ隠しなのか、おちゃらけてみせているのかはわからない。

 テーブルの両脇では、ヒグマとキンシコウが「なぁ……分かるか、違い」「……あまり」と渋い顔で感想を交わしている。

 アリツカゲラは極めて率直に、「もしかしてオオカミさん、下手なんですか?」と尋ねている。普段やられっぱなしなだけに、その言葉にはちょっとしたトゲが含まれているようにも思える。


「………………」


 文字を見比べてなお、孝太には少しの疑いの心が残っていた。

 普段の筆跡を見なければ、この比較に大した意味はないのだ。タイリクオオカミが不得手を装えば、容易に煙に巻くことが出来るのだから。


 しかし、だ。


 わざわざ誘導しておいて、ここではぐらかす意味があるだろうか?

 文字を読み解ける者を選別するなら、種明かしをすることになんの躊躇があるというのだろう。

 とはいえ、どういう意図でメモを残したのかがハッキリしなければ、この疑念を抱くこと自体が徒労であるのは確かだった。


「まぁまぁ、とにかく。私はこんなメモ、書いちゃいないよ。この5B鉛筆を賭けたっていい」


 タイリクオオカミは懐から新たな鉛筆を取り出すと、顔の前でそれを立てて示す。昨夜のデッサンで使っていたものだった気がする。


「い、いえ、別にそこまで疑ってませんから……しまってください。大丈夫ですって」


 孝太は半ば反射的に、疑ってませんよ、と言っていた。勝手に飛び出た小さな嘘に呼応するように、心の内にちょっぴりの不安が生じる。


「ふぅん…………そうかい」


 彼女も彼女で、こちらの態度を見極めようとしている風に見えた。蒼と黄色のオッドアイが、探るように孝太を舐める。

 目を合わせるのが妙に恐ろしく、しかして露骨に顔をそらすことも出来ないジレンマが孝太を襲う。


「……じゃあ、ちょっと探してみますか?」


 腹の探り合いの渦中に、突如アリツカゲラが乱入してきた。テーブル上の謎の緊張感がとたんに薄れていき、孝太はホッと胸を撫で下ろす。


「探す?」


 きょとんとした顔のキンシコウが呟いた。


「はい~。ロッジへ、ってわざわざ書いた人がいるなら、さっきコータさんが言ったように何かがあるのかも……って思いまして」


 なるほど、テーブルを囲んで話し合うよりずっと建設的だ。

 アリツカゲラがかもし出すゆるい雰囲気のおかげか、気付けばオオカミの鋭い眼光も鳴りを潜めていた。

 と、急にヒグマが立ち上がり、ばつが悪そうな顔で言った。


「いいアイディアだと思うが……悪いな。私たちはそろそろ発つ頃合いだ」


 壁掛け時計を見ると、いつの間にか時刻は午前10時を回っている。

 のんびりとした食事を経てのクールタイム、からの謎のメモについての話し合いで、なかなかの時間が過ぎていたようだ。

 あらいけない、とキンシコウもあわてて腰をあげた。


「ごめんなさいね、ヒトさん。私たちはパークのパトロールのお仕事がありまして……」


 申し訳なさそうな笑みを浮かべて、彼女は軽く頭を下げた。

 そうだった。二人はハンターという大役を担うフレンズなのだ。セルリアンの脅威が依然として存在する以上、彼女らは人間一人にだけ構ってはいられないのだ。


「や、そんな謝らないでください…! こちらこそ引き留めてしまって、すいませんでした」


 孝太は急いで席を立つと、深々と頭を下げた。今更ながら、お辞儀という文化が本当にフレンズたちに根付いているのか疑問ではある。ともかく、動きと雰囲気で誠意は伝わると思いたい。


「その、本当に助かりました…! ハンターのお務め、頑張ってください」


 言い終えてから頭を少し上げると、ヒグマはすでにホールの扉へと歩き出していた。彼女は振り返ることなく左腕を肩ら辺まで上げて、じゃあな、と仕草だけで伝えている。

 キンシコウは、アリツカゲラ、タイリクオオカミ、そして孝太へと礼儀正しく会釈をしながら、早足でヒグマの脇へと連れ添った。



 別れの時だ─────そう、誰もが思ったはずだったのだが……



「……ん?」


 ガチャガチャ、ガタガタと、ヒグマがドアノブを掴んで押し引きする。

 どうしたのだろうか。まさかドアノブの回し方がわからないわけではあるまい。間近でそれを見たキンシコウも怪訝な表情をする。


「開かないんですか? ヒグマさん」


「……ああ。おかしいな、回してるのに」


 どういうわけか、ホールの出入口の木製の扉はびくともしないようだった。朝から孝太とアリツカゲラが出入りをしていたように、その扉は今だって何の異常もないように見える。

 こうなったら、とヒグマが強い力を込めようとして、駆け寄ったアリツカゲラに静止された。無理にこじ開けたりして壊されては困る、という主張に、ヒグマは頭を掻いて途方に暮れる。


「しかし……────ッ!?」


 突然、ヒグマとキンシコウが扉から飛び退いた。ヒグマに手を引かれ、アリツカゲラも強制的に引き離される。


「な……なんですかアレ……!?」


 キンシコウが警戒の視線を向けた先は、扉の上の縁部分。はじめ孝太は、彼女らが何に驚いているのか分からなかった。

 が、よくよく注視してみると、木の扉と外を隔てるわずかな隙間から、黒く蠢く液体のようなものが染みだしているのが見てとれた。


「うっ……!!」


 孝太が見ている間にも、黒く濁った汁は徐々に徐々に隙間から染みを拡大していく。その光景はとにかく気味が悪く、あたかもホラー映画のワンシーンかのようだった。


「まさか……セルリアン…!」


 タイリクオオカミのその言葉に、全員がハッと身構えた。

 そうだ。ここジャパリパークでゲル状の体を持つものなんて、セルリアンをおいて他にはない。

 そこまで考えた辺りで、扉から広がるあの黒い液体のように、孝太の心はだんだんと焦りで満たされていく。


 もう……来てしまったのか────!?


 誰もが扉へ、その向こうから迫りつつある液体へと意識を向けていて気付かなかったが、しとしと……という静かな音と共に、ロッジはいつの間にか霧雨に包まれていた。



 森の館に、黒き怪異が忍び寄る───……


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