第41話 閉じ込められる


 ゆっくりと、緩やかに。


 じりじりと、じわじわと。


 五人の前で、黒く濁ったぶよぶよの何かが扉の縁周りを覆っていく。得体のしれない存在を前にして、誰もが動けずにいた。

 たとえ無害な物だと言われても、とてもじゃないが近寄りたいとは思えない。床の紅色を暗く染め上げ始めたそいつには、そういった不気味さと、言い知れぬ不快感が確かにあった。


「ど……どうしましょう……ヒグマさん…」


 不安げな声がキンシコウの口から漏れ出る。やはりというべきか、あれはハンターにとっても未知の相手なのだ。


「こじ開けなくて正解ってことか…クソッ」


 ついさっきまでその手をかけていたドアノブが濁りに呑み込まれるのを見て、ヒグマは忌々しげに悪態をつく。しばらく扉を睨んだのち、彼女は眉間にしわを寄せると小さく舌打ちをした。


「チッ……どんな奴が外にいるのか、確認しないことには仕掛けにくい。……窓なり他の出入口なりに回るぞ」


 言うや否や、ヒグマは駆け出した。ほとんど同時にキンシコウも走り出す。

 動物的勘の為せる業なのか、はたまたコンマ数秒の間に相方の動きを読み取ったのか? ハンターの二人は示し会わせたかのように、それぞれ逆方向へと散っていく。

 ホールから伸びる左右の廊下までは大した距離もないため、二人は瞬く間に窓へとたどり着いた。


 が、しかし─────


「……なっ!?」


 取り残された三人の左手側から、驚きの声があがった。ヒグマの声だ。

 それを聞くと、タイリクオオカミは左の廊下へとすっ飛んでいった。


「───うっ! だ、ダメです! 窓にも黒いのが……!」


 続けて、右手側からキンシコウの大声が届く。「えっ!?」と叫んだアリツカゲラは、目を丸くして駆け出した。

 ホールにひとり取り残されてしまい、孝太はあわてた。が、迷い、混乱しながらも右へと、キンシコウの向かった方へと走り出す。


「窓に、って────…!?」


 うるさく床を踏み鳴らして向かった先で、孝太は絶句した。

 廊下の窓が、ぞわぞわと蠢く黒いものに覆われている。本来覗けるはずの森の景色は一切見えていない。窓の外側は、奇っ怪な黒によって隙間なく埋め尽くされていた。


「こ、こんなことって……」


 傍らに立ち尽くすアリツカゲラは、どんよりとした陰りの中でただただ呆然としている。

 そこで孝太はふと気付いた。

 この時間帯にあるべきものが、ない。この廊下には、日の光がもたらす明るさがないのだ。

 と、廊下の奥の暗がりからキンシコウが走ってきた。彼女の緊迫した表情は、孝太とアリツカゲラの頭に嫌な想像を浮かばせる。

 そして、二人の想像は当然といわんばかりに的中するのだった。


「……どこも塞がれています。窓も扉も、何から何まで」



 ──────────


 ──────


 ───



 ほどなくして、五人は『しっとり』へと集まった。

 扉を半分ほど開けたまま、部屋と廊下を隔てる壁に張り付くかのように、五人は息を潜めてあれこれ話し合っていた。

 おかしな話ではあるが、安全そうな場所がここぐらいしか見つからなかったのだ。


 『しっとり』は暗がりで暮らしていたフレンズのための部屋らしく、壁は自然の石壁を模していて、床には固い土が敷き詰められている。部屋と呼ばれてはいるが、洞窟の一部を切り出して扉の向こうにそのままくっ付けただけ、といった様相だ。

 そんな造りなので、当然ここには窓がない。ロッジでほぼ唯一と言っていい、外から完全に遮断された場所なのだ。不気味な黒の浸食からひとまず逃れる分には最適な部屋だった。


「ふぅ………まさかここに助けられることになるとはね」


 長々と息を吐いて、タイリクオオカミは胸を撫で下ろした。その腕には大量の紙束が抱えられている。

 彼女はここ『しっとり』に避難するにあたって、自身の部屋から大切な原稿を回収してきたのだった。連れ添ったキンシコウも、漫画の資料らしき本を数冊抱えている。

 それらを持って帰ってくるのを見て、ヒグマが大層呆れ返っていたのが記憶に新しい。


「そ、それで……どうします~…? 囲まれちゃったんですよね、私たち……」


 アリツカゲラが四人の顔をキョロキョロ見ながら尋ねる。『しっとり』へ隠れてもなお、彼女は常にオロオロしっぱなしだった。

 当たり前といえば当たり前の振る舞いではある。もはやこういった非常事態に慣れつつある孝太こそが例外なのだ。


「一匹なのか複数いるのかは分からんが、とにかく敵はロッジのほとんどを飲み込んでいる……と見ていいだろう」


 扉から廊下を見張るヒグマが、その視線を動かさぬまま答えた。しゃがんで同じ景色を覗き込む孝太も、彼女の見解に同意する。

 目の前の細長い空間は相も変わらず薄闇に閉ざされていて、今が早朝や夕方なのかと錯覚しそうな光景であった。廊下の電灯は自動化されているのだから、気を利かせて暗闇を照らしてくれても……と思うのだが、待てども待てども一向に光は灯らない。

 もしや黒の浸食は、ロッジの電気系統にまで及んでしまったのだろうか。


「闇に閉ざされし孤立無援のロッジにて……か。さながらホラーかサスペンスの導入だねぇ、メモメモ」


「はぁ……オオカミさんはこんな時でも変わりませんねー……」


 暗がりでにやりと口元を歪ませ、ひとり紙に向き合うタイリクオオカミ。

 それを横目に見て、アリツカゲラは深いため息をついた。慣れっことはいえ、今回ばかりは心底呆れているらしい。


「……ここに籠っていても、いずれはあれに出くわします。こうなったら、どこかの壁をぶち破ってでも一旦外に出た方がいいんじゃないでしょうか?」


 部屋にまで漂い始めた淀んだ空気を吹き飛ばすべく、孝太は脱出案を掲げた。何ということはない、ただの力業でしかない提案に、フレンズの四人は少し考え込む。


「………………」


 意外なことに、アリツカゲラは黙って周りの反応を待っていた。真っ先に反対されるかと思っていたのだが、この状況では支配人であっても強硬策をとらざるを得ない、ということか。


「まぁ……それしかないですよね。アリツカゲラさんには、その、申し訳ないんですけど……」


 キンシコウがおずおずと賛成した。彼女は、隣で下を向いて押し黙る支配人をちらちら覗いている。

 それを知ってか知らずか、残る二人も続けざまに意志を表明した。


「私も賛成だね。や、もう少しアレを観察したい気持ちもあるんだけどね、それだとヒグマあたりがもたなさそうでさ」


「お前は残ってもいいんだぞ? 開けた穴はその辺の木で塞いでやるから、存分に堪能していったらどうだ?」


 軽口を交えつつ、狼と熊は脱出案に賛同した(のだろう)。

 「んん?」とか「あぁ?」とか言って、二人は真っ向からメンチを切っているものの、其の実ずいぶん楽しげだ。案外、相性がいいのかもしれない。

 と、ようやくアリツカゲラが顔を上げた。賛成票が出揃ったところで、彼女は口を開く。


「……こうなってしまった以上、仕方がありませんね。外に出ましょう……壊してでも」


 ひときわ真面目な顔をして、アリツカゲラはグッと握り拳を作る。力のこもったその肩に、タイリクオオカミがポンと優しく手を置いた。

 ヒグマとキンシコウは頷き合い、それぞれ孝太へと視線を向ける。二人の────否、四人の視線を受けて、孝太は立ち上がった。



 支配人の苦渋の決断を胸に、五人は薄暗い廊下へと歩み出た。


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