第37話 漫画を知る


「まあまあアリツさん、落ち着いて。なんでも怒るっていうのは身体に悪いらしいよ?」


「え……そうなんですか? ……って、誰が怒らせてるんですか! 誰が!」


 ほんの一瞬だけ和気あいあいとしていた中央ホールは、今やアリツカゲラのぶちまけ会場と化していた。

 聞く限り、彼女の口から飛び出しているのはいずれもタイリクオオカミのイタズラ好き、ホラ吹きの面に関する不満のようだ。

 この期に及んでも、タイリクオオカミは怒涛の口撃を飄々とした態度で受け流し、涼しい顔で白いジャパリまんを食べて─────いたのだが、今しがた食べ終えた。

 口論にめっぽう弱い孝太は、できるだけ相手にはしたくないな、と対岸で独りごちた。


「あー、その……乗せられた私が言うのもなんだが、もういいんじゃないか。うん」


 ワーッと言葉を浴びせるアリツカゲラの肩に、ぽすっとヒグマが手を置く。

 それどころでなかったアリツカゲラを除いて、皆は既にジャパリまんを食べ終えていた。事実上のマンツーマンだったので、蚊帳の外の者は食べる以外に道がなかったのだ。

 ……中心人物のはずの誰かもずっとつまんでいたが。


「……う…………そ、そう…ですね……」


 緩やかに制止されて、アリツカゲラは後味の悪そうな顔をした。側頭部にある畳まれた鳥の翼めいた形の髪も、心なしかヘタったように見える。

 思い返すと、彼女はあの部分を羽ばたかせて橋に降りてきていた。であれば、にわかには信じがたいが、あれこそが翼として機能する部位なのだろう。


「えー…と、そう! それだけ色々出てくるってことは、アリツカゲラさんとタイリクオオカミさんって随分長い付き合いなんですね…!」


 流れを変えるチャンスと見るや否や、キンシコウがすかさず話題を作りに出た。彼女は動きだけでなく、気配りまでもが素早いようだ。

 関係性へと話がシフトしたことで、早速タイリクオオカミも乗ってきた。こちらはこちらで逃げ足が速い。


「まぁ、私が執筆のためにずっと居座ってるからね。ヒトの言葉で言うところの……あれだよ。居候、だね」


 居候なんて言葉を知っているのにも驚いたが、そんなことがどうでもよくなるほどに、孝太の心はとある一点へと惹き付けられた。



 ……執筆、と言ったのか?



 その直後、孝太の心の内が透けて見えたかの如く、さらりとヒグマが答えを述べた。


「さっき言いかけたが、こいつはここでマンガを描いてるんだ。……つっても、キンシコウはマンガが何か分からんか」


 小説とか風景画とかじゃなくて、まさかの漫画……!?


 孝太の心に衝撃が走る。

 反対に、キンシコウはそう言われた通りに事がわかっていない様子で、聞き覚えのない単語に首をかしげている。


「漫画……ですか!? えっ!?」


 孝太はひどく狼狽したが、同時に結構な感動もしていた。


 文字の存在の認識すら怪しい、というのがこのパークの、ひいてはフレンズの当たり前だと思っていただけに、それを一足飛びで越えた先の文化が出てくるとは全く予想していなかった。それも、フレンズが主体となっての創作だ。

 いったい、どういう因果でオオカミが漫画を描き始めることになったのだろうか?


「フフフ……そう!」


 不敵な笑みを浮かべ、タイリクオオカミがゆっくりと立ち上がる。

 頭の向きはそのままで、身体の向きだけを少し斜めに整えると、彼女は孝太とキンシコウに向かって言い放った。


「───何を隠そう、この私こそが『ホラー探偵ギロギロ』の生みの親なのさ…!」


 わざとらしく、しかして控えめに髪をかき上げ、タイリクオオカミは流し目でもってチラリとこちらを覗き見た。

 キザな演出が好みなのか、作者ともなると漫画の世界に引っ張られてしまうのか。

 いずれにせよ、これまでの所業と合わさって、孝太の目にはその動きがとても胡散臭く映った。


「……ん? もしかして……ギロギロ、知らないのかい?」


 待ち望んでいたリアクションが来なかったからか、タイリクオオカミは拍子抜けしたような顔をすると、


「うーむ……ヒトにも知られていないとは。もっと読み聞かせ……いや、本の配布かな……」


 などと急にひとりでブツブツと呟き出した。自分が知らない理由は知名度云々ではないのだが……


「あの……それで、まんがって何ですか?」


 タイミングを見計らっていたのか、キンシコウがおずおずと切り出す。漫画という概念を知らないのであれば、当然ギロギロとやらを知っているわけもない。


「おっと、そこからだったね。……よし、説明しようじゃないか。まずは────」


 フンスと鼻で息をすると、タイリクオオカミは胸ポケットからペンを取り出し、前かがみになった。

 紙がないようだが、まさかテーブルに描いて説明するつもりなのか?

 そんな孝太の予想通り、彼女はためらうことなくテーブルの中央辺りへ腕を伸ばす。


「ちょっ、オオカミさん! テーブルは原稿じゃありません!!」


 少しの間ジャパリまんを頬張っていたアリツカゲラは、居候の突然の暴挙に再び食事の手を止める羽目となった。彼女は身を乗り出すと、しっしっ!とペンを握る手をその主ごと追い払う。

 いつもこんな感じで振り回されているのであれば、ふと爆発したくなるのも理解できるというものだ。孝太はアリツカゲラに同情を禁じ得なかった。


「わかった、わかったよ。ちょっと待ってておくれ。部屋から紙を……や、原稿を持ってくるか」


 大家の怒りに触れてしまい、タイリクオオカミはスッとテーブルから離れると、そのまま廊下へ歩き去った。

 はぁ、とため息をついて座り直したアリツカゲラは、ようやくジャパリまんの最後のひと塊を放り込むことが出来た。

 最後のは少々大きめの塊だったらしく、彼女は鳥のフレンズならぬ、ハムスターのフレンズ───はたして存在しているのだろうか───のような頬になってしまっている。

 実に食べにくそうだ。


「……ヒトさんは、まんが、知ってるんですね」


 沈黙のひとときを打ち破って、キンシコウがこちらへと話を振ってきた。しばしの間、タイリクオオカミに何を聞こうか考えていた孝太は、一瞬反応が遅れる。


「あ……はい、知ってます。ギロギロってのは初めて聞きましたけど……」


 ホラー探偵、と題されるのだから、おそらく推理ものであろうことは予測できる。素人目にも大変そうな題材だ。

 いや、それ以前に、そもそもこのパークに漫画を読める者がいるのだろうか。識字率もへったくれもないような状態だと思われるのだが……


 そうして孝太が頭の中で考えを巡らせていると、タイリクオオカミがそそくさと戻ってきた。見ると、彼女は数枚の紙を手にしている。


「待たせたね。じゃあ、これを見てもらおう。……おっと、扱いには気を付けてくれよ」


 そう言いながら、タイリクオオカミはテーブルの上に三枚の紙を並べた。

 それらの紙面には、強めのデフォルメがきいた可愛らしいキャラクターたちが描かれていた。全体的に、丸っこい。

 そして、想像以上にちゃんとしたコマ割り、構図でもって、れっきとした漫画が形作られていることも即座に理解できた。


「これが……まんが、ですか……!」


 初めて見る漫画という絵の集まりを、キンシコウはしげしげと眺めている。

 同じように彼女の横から原稿を覗いていた孝太は、ふと、あることに気付いた。


「……??」


 原稿の上に、台詞らしい台詞……というより、文字が書かれていない。


 漫画には雰囲気や音を文字で現す『書き文字』という技法が大抵使われるものだが、この原稿にはそれがなかった。

 いや、正確にいえば、まるで書き文字かのように描かれ、配置された肉球マークはある。どういう意図があるのかはイマイチ分からないが、もしかするとフレンズには伝わるシンボルマーク的なものなのだろうか。

 ……もしくは、単純に無声漫画なだけかもしれない。


「さて、それじゃあ……どれが何であるかを説明しなきゃ、か。これは案外、骨が折れるかもしれないね」


 タイリクオオカミは頭をポリポリとかくと、下顎に手を当ててぼそっと言った。

 全くの初見に逐一解説をする苦労は、孝太の身にも覚えがある。長くなるかどうかはキンシコウの頭脳にかかっているのだ。


「えぇと、まずは漫画とは何か、という話なんだが─────」




 こうして、静けさを取り戻した夜のロッジにて、狼が講師を勤める『漫画を知る会』が開かれた。

 孝太の抱いていた印象通り、キンシコウは聡明な女性であり、彼女はすぐに漫画の楽しみ方を理解した。

 しかしその賢さが仇になろうとは、ヒグマも孝太も予想だにしていなかった。


 キンシコウの漫画への造詣が深まるあまり、徐々にタイリクオオカミがヒートアップしていき、中央ホールはいつしか『ギロギロ一挙読み聞かせ会場』へと変貌してしまっていた。

 既にうんざりするほど聞かされたらしいアリツカゲラを除き、獣三匹とヒト一人はそれから約二時間、ひたすらギロギロの世界を堪能することとなったのだった。


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