第47話 雨と共に
霧雨の立ち込める、しっとりとした森の中。背の高い木々の木陰で、それぞれ灰色と黒の毛皮に身を包む者たちがいた。
露をたたえる草花に腰掛ける彼らは、森に広がるどんよりとした雰囲気に溶け込もうとしているのだろうか。静かに話し込む二人の顔には、どこか陰があった。
「じゃあ、あの音は……」
「うん。みんなが戦ってるんだよ。木を使うんだ、って言ってた」
ようやく落ち着きを取り戻したらしいハシビロコウが、どこかへ思いを馳せるように言った。
音がこちらへとぶつかってこない辺り、遠方を見ながら話しているのだろう。見えないなりに孝太はそう判断した。
受け答えを繰り返して焦る気持ちをなだめ落ち着かせる過程で、孝太はハシビロコウから現状を聞き出していた。
目覚めてから何度か耳にした、遠くの方で木を切り倒すような、バキバキバキ、ドォーン…という轟音。あれは黒のセルリアンに対抗すべく、ヒグマたちが丸太や木材を武器とするための音らしい。
彼女らは周辺の戦えるフレンズに協力を要請、集結し、今まさに開戦というところだという。
「他のフレンズも……か…」
気を失っている間に優に一時間以上が経過し、あれとの戦いはかなりの大事へと発展してしまったようだ。
うなだれ、苦い表情を浮かべて、孝太は申し訳なさを噛み締める。
あれを呼び込んでおいて、自分は早々に戦線離脱とはなんたる不甲斐なさであろうか。
唯一のヒトであり、自分だけがあのセルリアンに直接触れることができるというのに、結果はあっさり返り討ちだ。
戦うたび、己の無力さを痛感する。
思い返すと、セルリアンに真っ正面からぶつかって勝てたことなど一度もなかった。それを思えば、むざむざ吊り橋の上へ身をさらしてしまった時点でこちらの負けだったのだろう。
力があるようで、まるでない。そんな自分にとれる策はやはり──────
────奇襲という選択肢、ただひとつ。
「……ハシビロコウさん。お願いがあるんですが─────」
不意に顔を上げた孝太に、「なに?」と純粋な眼差しでもって答えるハシビロコウ。その声色には、詮索だとか疑惑のような不純物は一切含まれていないように思えた。
そんな彼女にとって、自分が頼もうとしていることはきっと酷な話なのだろう。
だからだろうか、咄嗟に嘘をついてしまったのは。
「あれは……あのセルリアンは、僕じゃなければ倒せないん…です。だから……協力、していただけませんか?」
口をついて出たのは、ぎこちなくて歯切れの悪い言葉だった。
──
─────
──────────
バッサ…バッサ…バッサ……
ゆったりとした力強い羽ばたきが、大空に確かな揚力を生む。霧雨の空を翔るのは、雨雲にほのかな青みを塗り足した─────そんな色味の翼。
微弱な雨風が頬を撫で、羽ばたきの音がすぐ真上から聞こえる。身体が重力に引っ張られる感覚と、そうはさせまいと胸周りにがっしり組まれた細腕。
それら全てが合わさることで、孝太は自分が空にいるのだ、という現実を改めて実感する。見えていても怖いのだろうが、見えないというのもまた恐ろしいものだ。
「───じゃあ、ハシビロコウさんには見えたんですね」
背中からぐっ、と抱き止められる格好の孝太は、背後へと確認の言葉をかける。
「う、うん。でもどうしようもない……ってヒグマも言ってたよ…?」
対するハシビロコウは、どうにも弱々しい語気だ。運んでいるのが盲目の男─────それも線が細くて、見るからに頼りなさげとくれば無理もないか。
言葉で説明するだけでなく、前もって内なる力を見せておいた方が良かったかな……と孝太は今になって反省した。
「……とっておきの作戦がありますから、大丈夫です」
現在、孝太とハシビロコウはロッジ上空へと向かっていた。
目覚めた場所は想像よりも離れていたらしく、また、人ひとりを抱えての飛行ということもあって、未だ現場は見えてこない。…こちらはそもそも見ることは出来ないのだが。
自分を急ぎ戦いの場へ連れていくことを、ハシビロコウは快く……とはいかなかったが、何とか、しぶしぶ承諾してくれた。
押しに弱いフレンズで助かったが、無理やり言いくるめたようで後味はよろしくない。タイリクオオカミのように気の利いた言い回し……というか上手い嘘をつけないことが悔やまれる。
「セルリアンの目、か……」
今さっきハシビロコウからもたらされた新情報。
それは、ロッジの上の黒き層の、あの濁った大海の中にたったひとつ。セルリアンのひとつ目が覗いていた、という話だった。
曰く、彼女がロッジ上空にへろへろと浮かぶアリツカゲラ───と、その足にぶらさがるヒグマ───を見つけ、意識のない自分の運搬を請け負った時。
ちらとロッジに目をやったハシビロコウは、黒の中からこちらを見つめる不気味な瞳とちょうど目が合ってしまったらしい。
彼女は驚き、ヒグマとアリツカゲラにもそのことを伝えたそうだが、タイミングの問題だったのか? はたまた視力の差によるものか? 正否はともかく、二人にその目を見つけることは出来なかった。
とはいえ、その発見は無下にされることもなく受け入れられ、彼女らは「コータの言っていた弱点かもしれない」と考えたそうだ。
しかし仮に弱点だったとしても、あれに触れるだけでダメージを負うフレンズに黒の中を突き進む術はない。
二人はそう結論付け、ヒグマが苦々しくこぼした言葉こそが件の「どうしようもない」だったようだ。
「あ……ほら、見えてき─────…っ! ご、ごめんね……そろそろ着くよ…!」
不意に進行が止まり、垂れ下がるだけの両足を慣性の力が揺らした。
スキー場にて乗っていたリフトが急停止した時のような、懐かしい感覚が思い起こされる。あれと同様に大した速度は出ていなかったので、揺れはすぐにおさまった。
ついに現地へとたどり着いたらしい。咄嗟に言い直したハシビロコウの気遣いが、孝太の胸に小さく響いた。
「……はい。危なくなさそうだったらロッジの真上辺りで目を探しましょう」
「うん。行ってみるね」
スィーっと、再び身体が宙空をスライドし出したのがわかる。
と同時に、進行方向の木々の間からだろうか、幾人もの声が聞こえてくる。
「これ…………フレンズの皆さんの声…ですよね」
「そうだよ。森の中とか、ロッジの橋でも戦って……わ、す、すごい…」
ハシビロコウの目が、ロッジの吊り橋を埋め尽くす黒と、それを次々と大きな丸太で蹴散らすヒグマの雄姿を捉えた。
如何せん相手の量が多すぎるが故に牛歩と言っていい進み具合ではあったが、何度か攻撃を加えるごとにすぐ後ろを固める者と交代することで、彼女らは攻め手を休めることなく進軍している。
それはさながら、ロッジへの攻城戦といえた。ほぼ唯一の通路である吊り橋はまさに激戦区と化していて、黒と彼女らと丸太の重みでいつ崩落してもおかしくない、綱渡りの戦況らしかった。
頼む……もう少しもってくれ……!
心に、焦りが生じつつあった。戦いの雄叫びが、多くの者たちの声が、孝太の心拍数を押し上げていく。
今から決行することは直接誰かに任されたわけではない。あくまで自分が勝手な判断で行おうとしているだけだ。
そのはずなのに、心にはひどいプレッシャーがのしかかっていた。
期待や希望なんかは背負っておらず、徐々に重みを増しているのは己のちっぽけな使命感から来るものなのだ。
それがわかっていながら、どうして焦って、失敗を怖がるんだ……?
「目は……奴の目は見えますか……!?」
「待って……もう少し……!」
はやる気持ちが抑えきれずに尋ねるが、近付き始めて十秒そこらでわかるわけもなく。
ハシビロコウへ、周囲の者へ焦りを伝染させるべきではない。
落ち着くんだ……手で抑えてでも口をつぐめ。余計なことを喋るんじゃあない……!
「────あった! 見えたよ…!!」
「……ッ!」
ゴクリと、唾をひと飲みして。
頭の中で念じる。
あとは一言、二言程度でいい。
上手くいこうがいくまいが、それで終わる。
自分には到底似合わない言葉だが────
────────覚悟を、決めろ!
「……目の真上まで、お願いします」
緊張で声が震える。
この土壇場で腹痛まで込み上げてきた。過度なストレスによる胃痛かもしれない。
……どこまでも格好がつかないものだ。
「……うん」
と、その時。
突如として真後ろから知らない声がかかった。
「おまえたち、そんなところで何をしているのです…! 非戦闘員は直ちに離れろとあれほど─────」
「わぁっ!?」
急すぎる警告の声に、ハシビロコウは跳び上がって───既に空中にいるのだが───驚いた。彼女の抱える孝太も同様に驚いたため、衝撃の二重奏がロッジの空に奏でられる。
それから大慌てでバサバサバサ!と素早く方向転換し、警告の主を確認すると、ハシビロコウは一際大きなため息をついた。
「……な、なぁんだ…びっくりした……。ハカセかぁ……」
「なんだとはなんですか。こちらは善意で注意してやっているというのに……まったく」
音もなく飛来し、なにやらブツブツと悪態をついているのは『ハカセ』と呼ばれるフレンズだった。
その呼び名を聞いて、孝太はハッとする。
これまでフレンズたちが何度も口にしてきた、博士という物知りなフクロウのフレンズ。
その彼女がついに目の前に─────?
「……おや? ハ、ハシビロコウ…そいつはま、まさかっ……!?」
なにやら博士の声がわなわなと震え出した。
そいつ、というのは間違いなく自分のことを指している。目や動きが見えなくとも、そうわかった。
おそらく博士はヒトの話を伝え聞いていて、知的好奇心から自分を───────
─────ダメだ!
のんきに話していたら、考えていたら決意が鈍る……!
覚悟を決めた以上、立ち止まるな…っ!!
「ハシビロコウさん、急いで! 時間がないんですッ!」
「ぅえっ!? あ、そ…そうだよね! ごめんね…!」
再び跳び上がって、ハシビロコウが手早くUターンをするのがわかった。
一方的にまくし立てるのは正直かなり気分が悪い。悪いのだが、今も下で戦っている者たちがいる。被害が……犠牲が出てからでは遅いのだ。
「なっ……お前たち、いったい何を……!」
博士の声が後方から追いかけてくる。
と、ハシビロコウが急停止した。
「ここが真上…ですね?」
「……そう、だね」
どうにも半信半疑といった声色だ。
だがそれも当然。
自分は、嘘をついたのだから。
────すぐにばれる嘘を。
「いきます!」
孝太の宣言が空へと響き、身体を支えていたハシビロコウの腕が左右に放たれた。
「……っ!?」
二人の予想外の行動に、博士が絶句する。
すぐさま重力の手が孝太を捕らえ、ダウンコートやズボンは猛烈な風を受けたかの如くバタバタバタ!とはためき出す。
ぶっ飛んでしまいそうなほどの空気の圧が、頬や髪を容赦なく襲った。
が、落ち始めるのと同時に力を解放した孝太は、空中制御とまではいかずとも、その圧に怯むことなく頭からまっすぐ落下していく。
直下の黒の海まで、その距離およそ15メートル。
「───ば、馬鹿なことをッ!!」
「…え?」
一瞬遅れて、博士は落下する孝太を追って急降下する。一方、ハシビロコウは事の重大さをわかってはおらず、戸惑いつつも更に遅れて後を追う。
彼女はヒトに騙されていた。
「この高さからではまずいのです……!! 仮に無事だったとして、ヒトの身であれを相手に出来るとでも!?」
頭部の翼を畳み、しかしサンドスターを放出して、博士は白い流星と化す。
元より素早い飛翔を滅多にしないハシビロコウは、初動の差もあって追い付けず、せめてもの思いをひねり出す。
「ひ、ヒトはすごく身体が丈夫だってコータがっ…!!」
その震える声を背に受けて、博士は言の葉の向こう側の企みを察した。
「……かしこいというのも時に厄介なものですね…!」
───ほぼ時を同じくして。
ロッジへと進軍し続けるヒグマたちは、天からの声を耳にして、上空に浮かぶ三人に気付いた。
「あの声……コータかっ!?」
それは吊り橋上の黒の勢いを大きく削ぎ落とし、一段落ついたところだった。
たまたま後方へ回っていたヒグマは、己のけもの耳で捉えたものが信じがたく、それ故に声に出してしまった。
ハシビロコウが離れた場所に運んだはずでは……!?
いや、それより何故あんなところに…!?
「ど、どういうことですか…!?」
肩で息をしながらキンシコウが振り返る。
木製の如意棒───ビーバーのフレンズの協力によって丸太から削り出された───を杖にして、彼女は額に大きな汗を浮かべている。
また、疲労困憊なのは彼女だけでなく、タイリクオオカミも同様だった。空を見上げて、オオカミはぼそりと呟く。
「まさか……彼は特攻を仕掛けるつもりなんじゃ…」
その言葉に目ざとく反応したのは、ヒグマでもキンシコウでもなかった。
「───特攻だと!? ほほぅ……見上げた根性をしているな……! ぜひ一度会って、手合わせしてみたいものだ!」
そう言ってから「ハッハッハッ!」と豪快に笑うのは、ヒグマよりも黒───焦げ茶色に近い───の割合が多く、場の誰よりも背の高いフレンズ。
彼女はかなりの頻度で前線に立ち、その怪力で丸太をぶん回し続けていたにも関わらず、今もほとんど息が切れていない。
あったかそうな黒のカーディガンを身に纏い、さらにモサモサの黒マフラーを首に巻く彼女の名は『ヘラジカ』。
「って、んなこと言ってる場合じゃないだろ~!? ホントに特攻だったらあの高さ……助かんないんじゃないかぁ!?」
意味もなくふんぞり返るヘラジカの頭をポカっ!と叩いたのは、ふんわりとした黄金色の髪が際立つフレンズ。
見る者を圧倒するそのたてがみ然とした頭髪さえなければ、人間社会では普通の女子高生で通りそうな見てくれの女の子─────それが『ライオン』だった。
ヘラジカとライオンは互いを見かけた程度の、言ってしまえば「ほぼ他人」でしかない割には相性が良さそうだ。
どちらもこうして有事に集まってくれる辺り、正義感というか、強者としての役目を心得ているのだろう……ヒグマは彼女らをそう評していた。
と、二人のやりとりを横目に、ヒグマが天を仰いだその瞬間。
「────う、嘘だろ…!?」
ひとり、黒へと落ち行く者が空に映った。
「……くっ!」
大気との衝突を顔面から受けて、孝太はなおも落ちる。
シュゴォォォ…!という風を切る音が実際の音量以上にうるさく感じて、聴覚だけではどれほど目標に迫っているのか分かるはずもなかった。
『私の力を瞳に集中させれば、あるいは…』
目覚める直前、夢でイーシュと交わした言葉を心で反芻する。
それは可能性。
ほんの一時でも勝機が『見える』かもしれない、という淡い希望。
これまでにも視力の悪さを補うことが多々あったので、力の回し方は感覚でわかっている。
ただ「見よう」とすればいいだけ。
「……っ!!」
ぐぐっと目を見開き、歯を食いしばって孝太は集中した。
瞳孔を目一杯に広げて、レンズの焦点を合わせるあの感覚をもう一度────……!
ふと、ぼやけた視界が目の前へ急速に広がった。
それはまるで、磨りガラスのフィルターをかけた、輪郭すら曖昧な世界。
そう……もう少し……!
もう少しだけ…………!
ほんのちょっぴりでいいから……!!
光を───────!!
刹那、両の目に温かな血流が巡るかのような、不思議な感覚が孝太に走る。
『私の光をあなたに──────……!』
たしかにそう聞こえた。
…………イーシュの……声…?
「ま……間に合わないのです!!」
博士の焦りの言葉が、孝太の頭の片隅に反響する。
瞬間、世界の時間がぐにゃりと引き延ばされていくのを感じた。
この感覚は二度目だ。
初めて力を振るった時にも見ることが出来た、すべてがスロウな世界。
眼下でぞわぞわ蠢く黒の波は、あまりの動きの緩慢さに変化を知覚することさえ難しく。
黒の海の水面下に見える目は、今まさにこちらの姿を捉えようと、その視線を動かす過程にあった。
サッカーボール大のヒトの眼球のような、不気味極まりないそのシルエットは、濁ったゼリーの中に閉じ込められた果実のようで。
それらがすべて『見える』。
孝太には見えていた。
「……そこかぁーーッ!!」
降り注ぐ雨と共に。
孝太は猛烈な速度のまま、しかしゆっくりな時の流れの中、ドプンッ!!と黒に突っ込む。
弾力のある水面へ叩きつけられ、顔が、胴体が、痛みの許容値を超える。せっかく戻った視界もパチパチと白黒して、ぐらりと前後不覚に陥る。気が遠くなる。
だが、
黒に沈み込んだ孝太の腕の先には目玉があった。
指をズブリと突き立て、掴んでいた。もはやその気色悪い感触さえも喜びへと、代えがたい達成感へと変わる。
執念だった。
深く、暗い闇の底へと墜ち行く身体に眼球を手繰り寄せ。
「──────……ッ!!」
水風船を潰すような、くしゃっ…とした触感と共に、黒の目玉はあっけなく破裂した。
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