第50話 見透かされる

 手を引かれるまま、歩く。


 歩く。


 ひた歩く。



 橋を越え、空中廊下を渡り、大地に足をつけてなお、ヒグマの歩みは止まらない。


「あの……どこまで行く…んでしょうか?」


 不安と沈黙に耐えかねて、孝太が尋ねる。

 突き進む彼女のペースに合わせていたので、早くも孝太の足腰には疲労がにじみつつあった。もっと近場だと軽く考えていた、先ほどまでの自分が恨めしい。


「……そう、だな。……そこでいいか」


 尋ねられて、ようやく気付いたかのような反応。

 ヒグマはそれだけ言うと、唐突に横道へと逸れる。初めてロッジへ向かった際にも似たような獣道を通った……いや、運ばれたのだったか。

 それにしても、今のヒグマは出会った当初よりも寡黙で、なにか妙だ。



 ……そういえば、彼女やキンシコウと出会ったのはつい昨日のことだった。



 夜中に遭遇して、昼頃に事情を話して。

 ひとまずの協力を得て、ロッジに泊まることになって…………


 とても色々なことがあったのだが、それもこれもひっくるめて未だ一日ちょっと。

 ひとり温泉宿を飛び出し、自らの足で進み出してから、まだたったの二日足らずの出来事でしかなかった。


 時の流れが、ことさら遅く感じる。

 未知の体験の連続がそう思わせるのだ。唐突に雪山へと落ちた、あの目まぐるしい初日の夜にも同じことを考えていた覚えがある。


 ほんの数週間前までの、ただただ無為に生きることで過ぎ去っていった、人の世での日々。

 あれらと今が同じ時の流れの中にあるだなんて、とても信じられない。




 ────と、不意にヒグマが立ち止まり、こちらへと向き直った。


 日の当たらない木陰にて、二人きり。

 状況が違えば、もっと胸の高まるような、良い雰囲気になれるロケーションだったかもしれない。

 だがしかし、今ここに漂っているのはそんな明るい空気ではなく、



「……どうして、あんなことをした?」



 彼女の第一声は、尋問のそれであった。


「…それは…………」


 孝太は言い淀む。

 ヒグマは『あんなこと』としか言っていないが、それが示す行動はひとつしかない。

 後ろめたいのであれば、わかるはずだ。あんなこと、にはそういう含みもあったのかもしれない。


「僕が、あれを呼び込んだんです。だから、一刻も早く─────」


 倒さなくてはならなかったんです。


 そう、声にするよりも早く、


「ハシビロコウを騙して……までか?」


 耳の痛い指摘に遮られて、孝太は言葉に詰まった。


「……もしも。もしも、だ」


 より一層、力を込めた眼差しでもって、ヒグマはこちらの目を射抜く。


「もしお前が……失敗、して、あそこで死んじまったら…………ハシビロコウがどう思うか、わかるか?」


 その睨むような目付きとは裏腹に、ヒグマの語気は徐々に、徐々に弱っていって。


「……………………」


 孝太は孝太で、口をつぐむ他なかった。

 いったい、何を言えるというのだろう。


 これまでと一転、自ら押し黙った孝太へ、ヒグマは続ける。


「私が、あの時のハシビロコウだったら……この手でお前を、殺したと、そう思うかもしれない」


「そんな…! そんなこと……」


 思わなくって、いい。


 仮に失敗したとしても。

 それは結局のところ自業自得でしかなく、力不足のヒト一人が淘汰される、というだけで。

 そんな風に負い目を感じるような、大仰なことでは──────



「……そんなこと、か。そう言うんじゃないかと、薄々感じてはいたが……」


「……え」



 急に、ヒグマの目の色が変わった。

 哀れみをたたえた暗き瞳は、こちらを見ているかのようで、見ていない。

 瞳に映るヒトの姿の、その向こう側を見据えている─────そんな、遠い目だった。



「お前…………諦めているヤツだろう」



「…………っ…」



 思わず、息を呑む。


 にわかに動悸が激しくなり、目が、視界がぶれる。瞬間的な動揺は、肉体にも影響を及ぼしてしまい。

 わずかではあったが、孝太の身体はぐらりと揺れた。そしてその動きをヒグマが見逃すわけもなく。


「図星……か? だろうな」


 ズバッと、切り捨てるようにそう言った。


「………………わかり、ますか」


 胸の内からなんとか絞り出した言葉へ、ヒグマは背を向けて答える。


「……あぁ。同じようなヤツを……知っているからな」


 消え入りそうな声で、彼女は言った。

 気付けば、言葉が震えているのはお互い様となっていた。


「そいつも……生きるってことに、どこか執着がなかった……と、思う」


 もう、聞くことはできないけれど。

 弱々しく断定を避けたヒグマの言には、続く言葉が見え隠れしていた。


「やたらと周りに気を使うくせに、自分のことは二の次で…………セルリアンが出ると…真っ先に突っ込みやがる」


 天を仰ぎ、記憶をたぐり寄せるように。

 ヒグマはポツリ、ポツリと語る。


「あげく、人を庇ってあっさり食われて……それでも笑ってて……! そういうのはな、見せられる側は迷惑なんだよ……っ!」


 哀しみが声を、怒りが拳を震わせる。


 過去、彼女には別れの経験があったのだ。それもどうやら、目の前での辛い離別が。

 自分の捨て身の攻撃は、ヒグマの心の古傷をも抉ってしまったようだ。

 そのフレンズとの別れがあったから、彼女は狩人をやっているのだろうか。人一倍誰かを守ろうとしているのは、そういう悲しい経験があったから?


 孝太の内にふつふつと、ヒグマというパズルのピースになりうる考えが浮かぶ。

 が、握る拳を通して彼女の情動が伝播してくる今、そんな無粋な疑問は一瞬でかき消えてしまい──────



「…………すいま…せんでした」



 孝太の口からは、ひとつの謝罪の言葉だけがこぼれ落ちた。

 それ以外には何も出てこなかった。




 それからしばらく、沈黙が続いた。


 どうすればいいのか、何をすべきなのか?

 孝太は迷い、焦り、ぐるぐると答えの出ない思考を腹の内に渦巻かせていた。


 心から反省すべき場面であろうに、自分ときたら「他に何か言うべきことがあるのではないか?」とか、「もうしません、と固く誓うべきなのでは?」とか、そんなことばかり考えてしまう。

 今は行動するしないの是非を考えること自体、間違いであろうというのに。


 孝太はより一層、沈み込む。

 その落ち込みを知ってか知らずか、ヒグマはようやく口を開いた。


「……自分のせいでセルリアンがやってくるから、自分の手で始末する。その心掛けは、立派だ。……間違っちゃいない」


 淡々と、彼女はゆっくり振り返りながら述べる。突然何を言い出すのか、と孝太は顔を上げた。


「だがそれは、お前がひとりで済ませられるなら、の話だ」


 再びこちらへ向き直ったヒグマは、しかして孝太と目を合わせようとはせず。


「誰かと協力しなきゃ、どうにもならない。そういう時は、遠慮なく周りを頼れ」


 ばつが悪そうに目をそらすと、彼女はぶっきらぼうに───だが確かに優しさも感じられる言い方で───言った。


「……そして、周りが諦めていないなら、お前も勝手に諦めたりするな。そういうのは、最後の最後までとっておけ。……いいな?」


「……! はい……!」


 締めの問いへ、孝太は真剣に、快く答える。何の飾り気もなしに、すっ、と飛び出た返事だった。


 それを聞いて、ヒグマは「…よし」と言って歩き出す。孝太の脇を通って、その肩をトンとひと叩きした彼女は、またもやズンズン来た道を戻っていく。

 もらったひと叩きが存外重くって、踵を返すのが少し遅れてしまった孝太は、あわててヒグマの後を追うのだった。



 固く握りしめられていた彼女の拳は、いつの間にか解かれていた。


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