第15話 見つける

 ギンギツネの足音が遠ざかるのを確認した孝太は、サッと立ち上がってズボンを腰まで持ち上げた。痛む右腕を労らず、急ぎ両手でベルトの金具を留め直す。


 ひとまずこれで安心だ。


 第二の悲しい事件を起こさぬよう、今後トイレに入る時は細心の注意を払おう。決意を胸に刻んだ孝太は、さっさと手を洗うべく個室を出た。


「……?」


 洗面台へと歩き始める瞬間、孝太はチラリと個室内を横目に見て、その歩みを止めた。彼の視線は、トイレットペーパーのホルダー部分へと向いていた。

 二つ並んで設置されている、木目調のホルダーの手前側。

 側面と紙との間にある僅かな隙間から、細い紙片がちょっぴり飛び出ていた。

 孝太は、はじめはそれをトイレットペーパーの紙くずか何かかと思った。しかし、近付いてよく見てみると、それは幾重にも折り畳まれて細長くされたものだと分かった。

 俄然興味が湧いた孝太は、謎の紙片を指でつまんで引っ張り出してみた。


 折り目を正して広げると、それは手の平ほどの一枚の小さな紙だった。いくつもの横向きの罫線があり、四角く区切られた破り跡が並んでいる点から、この紙は小さいメモ帳から破り取ったものだと推測できた。

 メモの真ん中には、罫線を三行跨いで、そこそこ大きな文字が書かれていた。



  ロッジへ



 ボールペンで書かれたと思われる黒いインクの四文字は、なかなか整った筆跡だった。急いで書きなぐった感じではなく、しっかりとした物の上で落ち着いて書かれた、そんな印象を受ける。


 どうしてこんなところに、たったひと言だけのメモが隠されているのか?


 サスペンスやホラー映画の導入みたいだ、と孝太は思った。

 メモに導かれるまま山奥のロッジへと赴き、そこで惨劇に巻き込まれる───そんな定番かつ王道で、最近ではあまり見ない展開が彼の脳裏によぎった。

 そして孝太は考える。

 時期も動機も不明だが、文字を書けるフレンズがここに来て、紙片を隠したのだろうか。しかしここは男子トイレだ。とはいえ、先ほどの訪問者のように知らずして入った可能性もあるが。

 もしくはパークが閉鎖する前に───開園前だったらしいので───職員の誰かが置いていったものだろうか。

 身内同士の遊びの一環? ちょっとしたイタズラの不発弾か? そういうことも無いとは言い切れないが……。


 一番ありえそう、というか個人的に面白そうな線は、このパークに自分以外のヒトがいて、ヒントに気付いた者だけに何かを伝えようとしている、というものだ。

 ダ・ヴィンチ・コードのようなミステリー作品は嫌いじゃない。

 しかしフレンズたちの発言を思い出した孝太は、この線はないか…と肩を落とした。そう、彼女らはヒトに会ったことがないのだ。

 謎の人物が誰にも見つからずにメモを隠せたというのなら別だが、わざわざそんなことをせずともギンギツネたちに話をつければ済む。


「他にヒトを見つけたら教えてくれ」…と。


 メモから顔を上げた孝太は、隣に並ぶもう二つの個室も調べてみた。すると、どちらのペーパーホルダーにも同様のメモが挟んであった。

 筆跡も文字の位置もほぼ同じメモが三枚、孝太の手に揃った。これらが意味するところは、文字を読める誰かにどうしてもロッジへ来てほしい、という願いだった。

 おそらく女子トイレにも仕込んであるのだろう……確認する気は起きないが。

 ひとまずメモを折り畳み、ポケットへ突っ込んだ。手を洗ってから触るべきだったな、と少し後悔して、孝太はハンカチの所在を確かめた。





 ───二十分後。


 深夜に明かりが灯された浴場には、ひとり湯船に浸かる孝太がいた。さすがに包帯の巻かれた右腕は、湯の中ではなく床へと伸ばしている。

 左手に見える洗い場には、一箇所だけ鏡のないスペースが残されていて、浴場入口の引き戸もバキバキに破壊されたままだった。


 ラッキービーストが言うには、そろそろ包帯を取り替えなくてはならないので、今付けている包帯は多少濡れても構わないとのことだった。ただし、傷口が塞がりきっていないので、湯に浸かるならば短時間にするようにも言われた。

 ようやく身体を洗うことが出来て、更に温泉にも浸かった今、孝太は身も心も十二分にリフレッシュされて心地よい気分であった。


 雪山に落ちてから、時間にしておおよそ半日程度しか経過していないなんて、嘘のような目まぐるしさだった。

 フレンズの彼女らに助けられ、セルリアンと遭遇──負傷し、彼女たちの頑張りと、いつの間にか授けられていた力で敵を撃破した。

 それらはすべて、夢に現れたあのピンク髪のフレンズと、彼女を飲み込んだ大きなセルリアンが発端だという。


 さっき起きた時、すぐにラッキービーストやギンギツネたちに夢の話をしておけば良かったな、と孝太は思った。周りに流されがちで、言おうと思ったことをよく忘れてしまうのは自分の悪いところだ。


「……あ」


 あることに気付き、口から小さな声が漏れ出た。そう、自分は謎の女性の名前すら聞けていなかったのだ。皆は言葉の説明だけで予想がつくだろうか?

 しかし、何のフレンズかわからない相手が自身の名前を覚えているわけがない、ということにも気付いた。フレンズの名前は種族そのものを示しているのだから。

 ピンクのセミロングで、大きなけもの耳が上へと生えている。長い前髪に隠れた美しい金の瞳、そして白いワンピースを着ている……見た目の情報はそれだけで、孝太は該当するけものにまるで心当たりがない。

 ここはラッキービーストのメモリに動物図鑑があることを祈るしかないだろう。





 孝太が、温泉で頭の整理をしている時。


 彼の左手を進んだ先。

 洗い場のすぐ向こうにあるついたてを挟んだ所では、青い服のけものが壁に背をつけ、呼吸を整えていた。彼女が二十分前から潜んでいるその場所は、今は使われていない男湯の洗い場だった。

 男女の洗い場同士を挟む木のついたては、長い年月の経過により、表面に細かな隙間が生じてしまっていた。パークの職員が戻って、男湯が機能し始めれば確実に埋められるであろうその隙間は、片側からもう片側の浴場をのぞくのには適任だった。


 ギンギツネは、ここまで己を駆り立てる気持ちの正体を掴めないでいた。先刻、トイレで彼を見てから、彼女は気になってしょうがなかった。

 コータというオスに対して、特別な好意を抱いているわけではない。ないのだが、それとは別に、初めて知ったものへの興味が抑えきれぬほどに溢れ出している。そう、己の内に感じた。

 そして好奇心を満たすため、ギンギツネは木材の割れ目から存分にヒトを観察し、先ほどひと区切りつけたのだった。


 なぜこんなにも知りたくなるのかしら?

 それにこの鼓動の速さはいったい───


 その様子は、性知識を初めて得たヒトの子どもに近しいもの───環境次第で千差万別ではあるが───だった。

 野を駆け回っていた頃のことは記憶にないため、ギンギツネは今初めてオスという存在を意識したのだった。

 こうなってから考えると、脱衣所で見たキタキツネの無頓着さが信じられないものに思えた。なんであの子はいつも通り、平然としていられたのだろう。この差は……見たかどうかの違いなの?

 怪我を気にして今日はお風呂に入っていなかったのに、これだけ汗をかいてしまったら孝太の後にでも入らなくてはならない。いっそキタキツネのように平静を装って、今すぐお風呂場に行ってしまおうか───なんて、私は何を考えているのかしら!?


 ひとり己に振り回されるギンギツネは、ほとんど寝ていないこともあって、ヘトヘトになってしまった。

 ひとまず脱衣所でも何でもいいから座って楽になろう……そう考えた彼女は洗い場から静かに歩き出した。

 その時ギンギツネは、男湯の脱衣所からこちらを見る二つの眼に、ようやく気付いたのだった。


 ─────なんで、いるの!?


 引き戸の側ではカピバラが、青いのぞき魔をこれまたのぞいていた。二重の覗き見だ。

 彼女は、いつもと変わらないにこやかな表情をこちらに向けていた。しかしその目からは優しさとは違う何かが感じられた。

 立ち止まり、ぶわっと尻尾の毛が逆立ったギンギツネへ、カピバラはやぁやぁと声をかける。


「やぁ、ギンギツネ。こっちのお風呂の掃除かな? いつもありがとうだねねね」


「……ぁ………うん。そう……なのよ」


 どうかしたのかねねね?…と、カピバラはこちらを怪訝な顔で見ている。

 もしかすると、今しがた来たばかりなのかもしれない。たがしかし、今は深夜と早朝の合間のような時間帯だ。カピバラはいつもこんな時間に起きていただろうか?


「ギンギツネ、だいぶ疲れた顔をしているよよよ。コータくんが出たら、お風呂に入ってきた方がいいんじゃないかな?」


「わ…たしも、そう思ってたのよ。それまで暇だから、こっちの掃除でもしておこうかなって、ね」


 ナイスよ、私…!

 ギンギツネは、グッと心の内でガッツポーズをした。自然と口から出た言葉は、いかにもな理由付けとなった……気がする。


「いやぁ~、そういう気の利いたことを率先してやれる優しさと熱心さ、それがすごいところだねねね。ギンギツネにはいつもお世話になりっぱなしだよよよ」


「そ、それほどでもないわよ。でも、たまにはキタキツネもカピバラも───」


「その熱心さで、よく見れたかねねね?」


 一瞬、彼女の言葉が理解できなかった。

 だのに、急に周囲の温度がぐんと下がったような───そんな寒気がした。ギンギツネの身体は、一気に冷や汗をかき始めた。


「……え?」


 カピバラは、ずっと変わらずニコニコしている。しているのに、それを向けられたギンギツネの背筋は凍るようだった。外の雪にまみれた方が幾分マシかもしれない。


「まぁまぁ、なんだかんだ私も『けもの並み』に気になるから、教えてほしいんだよよよ。……どんなだった? ヒトのオスの身体って」


 のぞきの現場をおさえられた青いけものの紅潮は、隣の浴場に負けじと湯気をたてることとなった。

 ギンギツネとカピバラの関係が、その日を境に少々変わってしまったことは言うまでもない。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る