第14話 用を足す

 深夜の温泉宿は暗闇に包まれていて、今にも幽霊や妖怪に出くわすのではないだろうか、というような恐ろしげな風情があった。


 ──ちょっとトイレに行ってきます…!


 孝太はそう言って部屋から逃げてきたものの、当然それは微妙な空気から脱するための大義名分であり、実際に用を足したいとは感じていなかった。そもそもトイレに向かう以前に、今自分が宿のどの辺りにいるのかすら把握していない。

 せっかくのひとりでの自由行動だ、今の機会に宿の構造やトイレの場所などを調べておこう────そんな軽い気持ちで歩き出したのを後悔するほどに、孝太の視界は闇に閉ざされていた。今更部屋に戻るのも格好がつかないし、どうしたものか……と立ち往生をしていると、徐々に孝太の立つ廊下が照らされ始めた。

 後ろからピョコピョコピョコと足音がする。どうやらラッキービーストがついてきてくれたらしい。

 親切にも明かりを灯してくれる彼は、まさに渡りに舟だった。ありがたい。


「コータ、トイレはこっちダヨ。暗くてアブナイし、案内するヨ」


 たしか、この紫の小さなけものは宿お付きの専用機だったか。用を足したいわけでなくとも、今後のために脱衣所以外のトイレの場所を知っておきたい。ひとり手探りで進むより、彼にまかせた方が断然楽だろう。孝太は「どうも」と礼を言って、小さなガイドの後ろをついていくことにした。


 数分もかからずに、ラッキービーストが歩みを止めた。彼の左には入り口が二つ並んでいて、それぞれの入り口横の壁には、見慣れた青と赤のピクトグラムが刻まれていた。丸と三角形の組み合わせが示す通り、ここが男子トイレと女子トイレのようだ。


「コノ温泉宿は、宿の体ではあるんだケド、本当は日帰りのレジャー施設ナンダ。時々寝泊まりシテいくのはフレンズとパークの職員くらいデ、ソウイウ事情もあって部屋ゴトにはトイレがないンダ……ゴメンネ」


 トテトテと振り返りながら、ラッキービーストが説明してくれた。

 気にしていなかったが、思い返すと旅館にしてはひと部屋ひと部屋が簡素で手狭な作りであった。彼曰く、本当の宿泊施設……になる予定だったロッジは、すぐ隣の地方にあるらしい。

 予定だったという部分に疑問を持った孝太は、ラッキービーストに尋ねた。


「そのロッジは完成しなかったんですか?」


 ピロピロピロ…とラッキービーストの胴のレンズが、何かの文字列を並べている。今までと違って即答しないあたり、返事に困るような何かがあるのだろうか。

 数秒して、思考の音が止まった。


「……完成は、していたヨ。ただ正式に開園スル前に、パークは閉鎖されたカラネ。ココに来たお客さんも、キミが初めてダヨ」


 伏し目がちにラッキービーストが語った。

 言いにくそうに告げられたその事実に、孝太は案外納得していた。

 フレンズの彼女らがヒトを初めて見たと言っていたことや、宿の各所に見られる手付かずの文明の跡、そしてセルリアンという危険な存在がそこかしこに潜んでいること。

 それらが醸し出す退廃的な雰囲気から、最悪この世界のヒトは滅んでいるのでは? と孝太は考えていた。未知の事象に対しては最悪のケースを想定しておくのが、後ろ向きの姿勢な彼の常だった。しかし閉鎖されたというのなら、それを決定付け、実行した人々が今もどこかにいる可能性は高い。


「…ソレハともかく、コータ。早くトイレに行ってキタ方がいいんじゃナイカナ」


 彼はとことん気の利く宿泊ガイドだった。ここまで来て「アレは嘘だった」と言うのも何か感じが悪いので、孝太はそれじゃあ、と言って男子トイレに入った。

 落ちてきて以降に用を足していないので、いざ入れば何だかんだ催してくるだろう。



 普段の習慣から、立ったまま用を足すことを滅多にしない彼は、三つ並んだ個室の一番奥へと入り便器に腰かけた。

 トイレの中は暖色系の壁紙の影響もあってか、廊下ほどの寒々しさは無かった。しかし長らく利用者がいなかったであろうこの男子トイレには、見た目とは異なる寒さが───寂しさが漂っていた。

 先程の話から想像するに、現在のパークにはフレンズしか暮らしていないわけだが、ギンギツネ曰くフレンズはみな女性だ。機能していない男湯と同じく、この男子トイレも今やその存在意義を失いかけているのだろう。

 もっとも、男女のピクトグラムを認識できないがために誤ってこちらへ入ってしまう…そんなフレンズもいたかもしれないが。


 ───いや、待てよ。

 孝太はふと、考えを根本から改めた。


 けものから転じたままの彼女たちには、そもそもトイレを使うという考え自体が無いのではなかろうか? それに彼女らは服を毛皮と認識していて、自分が教えるまで脱げるものだとは知らなかった。

 であれば、今まではどうやって用を足していたのだろうか? 脱衣所にてキタキツネが服を脱いだ時、彼女は下着を付けていたし、初めて認識したように見えた。最初から穿いていないのであれば、スカートを着用するフレンズに限っては解決する話なのだが……。

 ひょっとするとサンドスターの神秘のおかげで、排泄の必要がない身体かもしれない。


 謎が謎を呼ぶ、しかしその実どうでもいい思考に頭を悩ませながら、孝太は個室の洋式トイレで用を足した。





 孝太が男子トイレに入ってからしばらくして、廊下で待機していたラッキービーストの元にギンギツネがやって来た。ギンギツネは彼に話しかける。


「…あっ、ボス。ここにいたのね。ってことは、コータはこの中?」


 しかし、ラッキービーストは無言で彼女を見つめるだけだった。うんともすんとも言わない彼に、ギンギツネは少しムッとなった。


「ねぇ、なんで何も言わないの? コータの手当てをしたときは話してくれたじゃない」


 追及むなしく、彼は押し黙ったままであった。しびれを切らしたギンギツネは「じゃあいいわ」とラッキービーストの横の入り口に入ろうとした。すると、


「ギンギツネ、入っちゃダメダヨ。出てくるのヲ待っててネ」


 唐突に、彼がやんわりと警告を発した。

 ギンギツネのけもの耳がピクリと横を向き、わずかに遅れて顔がラッキービーストに向き直る。


「…喋れるじゃない。でも、なんで入っちゃダメなの? さっき言い忘れたことがあるんだけど……」


「ソコは男性用ノ………ヒトの、オスのためのトイレだからダヨ」


 さっきも聞いたけど、『といれ』ってなにかしら? ここには白くて硬い、よくわからないものが並んでいるけれど、それがといれ?

 部屋の前で疑問符を浮かべていたキタキツネと同様に、彼女は『トイレに行く』という言葉が示す意味を知らなかった。

 もちろん、彼女らの言語野にはおしっこだとか糞尿といったワードと、その意味が刻まれていたのだが、トイレという単語はフレンズ化の際の初期インストールには含まれていなかったようだ。

 それ故に、ギンギツネは男子トイレに、更に言えば使用中に入るということを重くは捉えなかった。


「トイレ……が何かは知らないけど、ひと言伝えるだけよ」


「ダメダヨ。ダメダヨ」


 入り口にラッキービーストが立ち塞がり、何も知らぬけものへと警告し続ける。

 しかし、彼の必死のバリケードは、いとも容易くひょいっと跳び越されてしまった。なにせ彼の体高は30cm程度しかないのだ。


「アワワワワ……」


 困り果てた小さなけものの鳴き声が、暗い廊下に響いた。





 トイレの出入口で問答が行われていた頃。

 個室内の孝太は、左の棚に置かれた消臭剤にいたく感心していた。

 用が足されたのを検知して、便器内は既に水で流されていたのだが、普通ならどうしても残るはずの臭いがあっという間に消えていくのだ。その理由と推察される消臭剤は、見た目こそ元いた世界のそれと大差ないが、中身の成分や構造が違うことは明らかだった。

 そういった臭いをヒト以上に気にかける存在が多そうな環境では、こうした発展も必然なのかもしれない。

 孝太は気になって、裏の成分表などを見ようと容器の向きを反転させた。が、羅列された単語を眺めて、そもそも消臭剤に何が使われているのかなど知らない自分に気付いた。

 つまり、読めても比較のしようがなかったのだった。


 その時、聞き覚えのある話し声と、誰かがずんずんと男子トイレに入ってくる足音を耳にした。なぜ?と考えるよりも早く、侵入者の正体はすぐにわかってしまった。


「ん、ここかしら。コータ、たしかあなた、お風呂────」


 ガチャリと扉が開き、個室の前にギンギツネが立っていた。


 孝太は右腕が不自由で億劫だったがために、鍵をかけずに個室へ入ったのだった。

 まさか訪問者が現れるなど考えてもいなかったが故の油断。

 そして、のんびりと腰かけたまま、消臭剤なんかを眺めていた間の悪さ。


 ギンギツネと孝太は互いに凍りついた。

 孝太のズボンが、下ろされたままだったからだ。彼女は一点を凝視したまま、時が止まったかのようだった。

 が、二人にかけられた石化の魔法はすぐに解けた。


「──あ……と、トイレってそういう……」


 ハッと自由な身体に戻った孝太は、前屈みになりながらあわてて両手で隠す。

 咄嗟の動きに右腕が痛むが、それどころではなかった。

 ギンギツネはというと、ギクシャクした動きでギギギと横を向き、たどたどしく歩き去っていった。個室の孝太から見えなくなったところで、彼女は言いかけたことを伝えた。


「……お、お風呂、腕が大丈夫なら、今から入ってきたらどうかしら。……途中だったんでしょ、セルリアンが出たの。見てきたけど…もう安全そうよ」


 ギンギツネの声は、所々が今にも裏返りそうだった。冷静に努めようとする姿勢は伝わったが、それ以上に動揺が大きいことの方がわかりやすかった。


「…そう、ですね。そう…します」


 孝太も絞り出すような声で返事をした。

 彼の頭の中は既に真っ白で、痛みや疲労はどこかに吹き飛んでいた。



 ──なぜ、こうも際どく恥ずかしい出来事が頻発するのか。

 孝太は夢で見たピンク髪のフレンズを思い出して、次に会ったらこの不自然さに加担していないか問いただす必要がありそうだ、と固まった脳の隅で思考した。

 その考えは、もはやヤケクソかつ八つ当たりの域に達していたのだった。


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