第30話 疾走する

 ふと、目が覚めた。


 というより、気が付くと既に目覚めていて、そのことをたった今知覚した、というのが正しい。

 白い地平線に、ポツリと立ち尽くすヒト。彼が三度訪れたのは、無意識の狭間の、彩り無き空間。


 ───いや、彩りはひとつだけあった。


「孝太さん………」


 無の世界に、文字通りの紅一点。ピンクの髪とけもの耳がよく目立つ、白ワンピースの女性が孝太の前に現れた。

 以前『イーシュ』と名乗った彼女は、なにやら悲しげな顔をしている。イーシュの視線は、こちらの手元辺りに向けられているようだ。


 どうかしましたか?


 そう尋ねようと口を開きかけたが、彼女の視線につられて下を、手元を見る。孝太は、思わず「あっ」と小さな声を上げた。


 右手が……いや、両の手が壊れている。


 どの指も、ひとつとして正しい方向を向いていない。手の甲もどこか歪んでいて、手のシルエットそのものが不自然な形になっていた。

 歪みに耐えきれずに皮膚は裂け、そこかしこに血と肉が覗いていて、我ながらグロテスクで痛々しいものだ、と思った。

 まるで他人事かのように。


 そう、今現在の孝太には、損傷したはずの両手、および腹部の痛みはなかった。ここが夢の…心の中の世界だからだろうか────孝太はぼんやりと、そう考える。


「…力を使っても、あんなでかくて強いやつ相手じゃあ、やっぱり無理がありましたね。あはは……」


 しんみりとした空気に耐えかねた孝太は、少しおどけた口調で切り出した。

 互いに空元気になろうとも、この前の明るい雰囲気へ戻ってほしい。我が儘な願望ではあったが、心からそう思っていた。

 しかしてイーシュは、悲哀の表情のまま告げる。


「……ですが、あの時セルリアンに立ち向かったからこそ、勝てました。結果的…には、最善の使い方だった。そう…思います」


 意外な発言に、孝太は少し驚いた。

 とても言いにくそうに、ポツポツと言葉を詰まらせながらではあったが、まさかあれを肯定されるとは『夢にも』思っていなかったからだ。

 だが、それよりも気になることがある。


「勝った…? 勝ったん…ですよね…!? なんだか、記憶が曖昧で」


 最後に見たのは、迫る雪と己の血液と……それから先は覚えていない。故に、戦いの結末は今初めて知った。

 しかし、どうやって……?


「ラッキービーストとギンギツネさんの協力で、どうにか…。辛勝、ではありましたが、きっと皆さん、無事だと思いますよ」


 朦朧とした己を通しての伝聞らしかったが、孝太は心底安心した。まさかまさかの、ボスが助けてくれるとは……

 しかし、続くイーシュの言葉が心にずしりと響く。


「───孝太さん……あなた以外は」







「今日で、一週間……だよね」


 いつもの部屋にて、座って昼食をとる四人のフレンズたち。

 前屈み気味な体育座りで、ジャパリまんをちょびちょび頬張るキタキツネは、ぽつりと呟いた。その目線の先、開いたふすま越しの廊下を、三匹の白いラッキービーストが通り過ぎていく。常に何かを運ぶ彼らの往来は、もはや誰もが見慣れた光景であった。

 ぼーっと廊下を眺めるキタキツネに何か言葉を返そうと、他の三人はそれぞれ口を開きかける。が、結局誰も気の利いた返事は出来ず、出てくるのは「…そうね」「うん…」といった生返事ばかりだった。


 ここ一週間の四人の食事風景は、それまでと比べて大分暗く、静かなものへと変わってしまっていた。

 どうってことない会話であっても、なんとなく盛り上がりにくい。そんな空気が、全員の間に漂っていた。

 雪を操るセルリアンとの戦いの後、ギンギツネ、キタキツネ、カピバラ、カムチャマの四人には、大怪我という程のダメージはなかった。

 直に攻撃を受けた三人ですら、二日と経たずに回復し、今や元気をもて余しているくらいなのだが、それを発散する機会は未だ訪れていない。


「……ちょっと見てくる」


 誰に言うでもなく小さく呟き、ギンギツネが立ち上がる。彼女は廊下に出ると、ラッキービーストが進んだのとは逆方向に歩いていった。

 その行動もまた、日々のルーチンと化していて、明日にはそんな小さな宣言すらも無くなりかねない……そう思わせるほどに、ギンギツネはずっと悲しげな様子だった。


「入って、いい?」


 とある部屋の前で、ギンギツネは足下へと声をかけた。開いたままのふすまと壁の間には、白く小さな門番が常に鎮座している。


「……大丈夫ダヨ」


 白ボスがピョコピョコと道を空けた。

 このやり取りも、二日目以降、毎日のように行われていた。一日に二度も欠かさず通うのは、さすがにギンギツネだけだったが。


 部屋に入ると、どうしても嗅ぎなれない不思議な臭いが鼻をつく。それらは薬品が醸し出す刺激臭の類いだったのだが、フレンズの彼女らにとっては未知の────嫌な臭いでしかなかった。

 ケミカルな空気を突っ切って、ギンギツネは布団の側に腰を下ろす。


「……コータ…」


 部屋の中央で布団に横たわっているのは、いくつかの管や包帯を付けられている孝太だった。傍らには、二匹の白ボスたちが常駐してくれている。


 ギンギツネがセルリアンを撃破した時、ずっと敵を抑えていた孝太は、崩れるように倒れ込み、動かなくなってしまった。

 倒れることそれ自体は二度目だったのだが、かつての腕の怪我以上の深刻な状況に、ギンギツネはカムチャマを起こすと、彼を抱えて宿へと急いだ。

 そこで助け舟を出したのが、ボスだった。彼の的確な指示と、救援の声に集まった白ボスたちのおかげで、孝太は今こうして治療を受けられている。


「…………っ」


 こうなると、私に出来ることは何も無い。

 唯一手伝えたのは包帯を巻くことぐらいで、液体がつまった袋を繋げたり、孝太の腕に硬い針を刺したり───最初はびっくりして邪魔をしてしまった───するのは、私には無理だ。

 そんな無力な自分がもどかしくて、近頃のギンギツネの心には、いつも悔しさが渦巻いていた。


「もう……起きないなんてこと、ないわよね?」


 胸の想いが、ぽろりとこぼれ落ちた。

 同時に、ギンギツネは孝太の腕にと手を伸ばす。しかと手を握ってあげたかったが、彼の両手は包帯まみれで、軽々しく触るべきではない。

 ボス曰く、亡くなってはいないとのことだったが、こうも目覚めないとどうしようもなく不安で。

 想いと共に、目から雫がこぼれ落ちる。


 ───その時。


 とてもゆっくりな動きだったが、孝太の目が薄く開いた。


「……!! …コータ? お……起きた…の?」


 急なことで、声が震える。


「…ギン…ギツネ…さん………う…っ!」


 起きた。目覚めたのだ。

 かすれる声で以て名を呼ばれ、ギンギツネは涙混じりのまばゆい笑顔を浮かべる。

 それは、実に一週間ぶりの明るい出来事であった。





「よ……良がっだぁ~…! コ゛ータくぅん…! 頑張っだねぇ~…!」


 ずびっ!と鼻をすすりながら、ひどい涙声のカムチャマが話しかけてくる。いくらなんでも激しすぎやしないだろうか、当事者の孝太はかえって冷静になっていた。


「ホント……んぐ。…死んじゃったのかと思ったよ…」


 途中で何かを呑み込みながら、キタキツネも声をかけてくる。ジャパリまんを食べてる最中だったのだろうか。


「やぁやぁ、聞けばコータくんのおかげで倒せたらしいじゃないの、あのセルリアン。どうもありがとうだよよよ…!」


 相も変わらず、カピバラはゆったりのんびりな雰囲気だ。が、そういったゆるい感じを出せたのは久々のことだったらしい、と後に知った。


「そんな……結局のところ、僕は時間稼ぎしか出来なくて………いや、それどころか皆さんを─────」


「お湯、ぶちまけてやったじゃない。でっかいのと真っ正面からぶつかりもしたし………凄いことよ、十分」


 孝太の言葉を遮って、隣のギンギツネが功績を讃える。「そうそう」と、更にその隣のキタキツネも口を合わせた。


 彼女らは、本当に優しい。


 それ故に、だからこそ─────


「……そうだわ。お腹、空いてない? 食べれそうならジャパリまん、取ってくるわ」


 ギンギツネがスッと立ち上がる。

 思考を中断され、孝太に一瞬、空白の時が流れた。そして、彼女が部屋を出ようとしたところで、あわててそれを止めた。

 ずっと点滴をされていたようなので、実際のところ空腹感はない。

 事情を話すと、点滴の袋を見たキタキツネが「それ、食べ物だったの…?」と驚いている。それには栄養素が……と説明しかけた孝太だったが、「まぁ、飲み物みたいなご飯だよ」とすぐさま諦めた。

 医療器具の知識など皆無もいいところなので、下手なことは言えない。


「えぇ…水にしか見えないけど………おいしいの?」




 それからは、治療を継続しつつのリハビリ生活を送ることとなった。


 まず、なによりも辛かったのが、自由意志でトイレに行けないことだ。

 起きてからしばらく、下半身にごわごわする違和感を感じていたのだが、なんとその正体はおむつだった。

 白いラッキービーストに聞くと、意識不明の合間にも排泄はあるようで、そのためのおむつだったらしい。重症に陥った経験なんぞなかったので、地味なことながらとても驚き、そして恥ずかしかった。

 同時に、フィクションなんかでは平気で長期間ぶっ倒れているが、はたして大丈夫なのだろうか……といらぬ心配をしてしまった。


 また、白ボスたち曰く、腹部と両手を完治させるだけの治療は、現在のパークでは受けられない、とのことだった。ヒトが去った現状では当然の事実でもあった。

 それを聞いて、ギンギツネたちはひどく落胆した。しかし、「あの『力』で何とかなるかもしれませんよ」と、孝太は努めて明るく希望を見出だした。

 以前に怪我の治癒を目撃した三人は、それを思い出して大分明るくなれた。よくわかっていないカムチャマも、皆が希望を取り戻したことを理解して、周りに倣った。

 どこまで治せるかはまるでわからなかったが、今はそれでいい。

 周りが笑顔になる中、ただひとり孝太だけは、心の底から笑ってはいなかった。


 そうして、更に十日が過ぎた。


 医療の力と借り物の力の重ね掛けは、自由にトイレにも行ける足腰と、ジャパリまんくらいなら支えられる手を取り戻させた。

 未だ動くたびに痛みが走り、指も細かな動きは出来ない不自由さだったが、寝たきりよりはずっとマシだった。

 少なくとも孝太にとっては、ある目的を達成するための、必要最低限の肉体には戻せている。かねてから、孝太には決心していることがあった。




 とある日の夜中。




 キタキツネと隣り合わせで、いつものように二人同室で眠るギンギツネは、誰かの足音と、小さな衣擦れの音を耳にした。


「………んぅ…?」


 暗闇の中、わずかに身体を起こしたギンギツネは、ぴくりぴくりとけもの耳をそばだてる。


 確かに、誰かが廊下を歩いている。

 しかも、静かにひっそりと、なるべく音を立てないよう気を使っての歩みだ。聴いている間にも、足音はどんどん遠ざかっていく。


 ギンギツネは隣人を起こさぬよう、するりと部屋を抜け出た。なんだか、無性に胸騒ぎがして仕方がない。

 わざわざ夜中に出歩くのは、稀にトイレへ起きるコータぐらいのものだ。しかしそういう用事なら、ここまで静かにする意味はない。皆、足音を聞けば誰が歩いているのか分かるからだ。音には個々人の癖がある。

 故に忍び足で歩くということは、この音の主にとっての、何か別の理由があるはずなのだ。


 いったい、誰が…?


 自身もなるべく音を立てずに、気配を殺して後を追う。足音は、宿の入り口へと続く廊下から聞こえる。


 外に……行くの? こんな時間に?


 わざわざ夜に外出するような者がいるだろうか。ボスの音ではないし、こんな寒空の雪山にカピバラやコータは出ていかないだろう。かといって、カムチャマが出かける理由も特にない気がする。

 そうこう考えていると、入り口の戸を慎重に開ける音と、紙を触るような、カサッという音がした。

 あわててギンギツネは足を速める。

 そして─────


「だ、誰…!? こんな時間に……」


 玄関にたどり着くと、ギンギツネは暗闇に声をかけた。

 誰かが、雪の中を駆ける音。同時に、宿の中へ冷たい空気が流れ込む。

 入り口の戸が開きっぱなしだ。どうやら、向こうもあわてて出ていったらしい。


「な……なんなの…?」


 ギンギツネは入り口から顔を出したが、月明かりも当てにならない曇り空では、謎の人物の正体も掴めない。

 寒さから身を引いて振り返ったギンギツネは、段差を上がった所に一枚の紙があるのを見つけた。紙には、以前習った文字という線の集まりが並んでいる。


「…『みんなへ』? ─────えっ」


 闇に目を凝らして紙面を見ると、そこにはひらがな、カタカナだけの震える文字で、こう書かれていた。



 みんなへ


 セルリアンは ちからをもらった

 ぼくを ねらっていたようです


 みんなを まきこんでしまって

 そして それにきづかないままで

 ほんとうに ごめんなさい


 いままで ありがとうございました


 イシイ コータより



「…………………冗談……よね」


 一通り読み終えたギンギツネは、読んでなお、内容を理解しきれなかった。理解しがたかった。

 あまりに唐突すぎて、現実味がなかった。


「……コータっ!」


 ギンギツネは玄関を飛び出した。

 雪に残る彼の足跡を頼りに、ひた走る。

 しかし、徐々に足跡の間隔は大きくなっていき、ついには辿れなくなってしまった。


「ジャンプ……したのね…。病み上がりなのに……力を…」


 最後に見つけた力強い足跡から、ギンギツネは彼の行動をすぐに理解した。

 すなわちその痕跡は、強固な意志の表れでもあって─────


「……ばか…」


 深夜の雪原の曇り空に、辛辣な、しかし複雑な感情のこもった言葉が消えていった。


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