第二章 旅
第31話 木々を縫う
走った。
跳んだ。
駆け抜けた。
───逃げるかのように。
真っ暗な白の大地を、とにかくジグザグに突き進む。時折、ぬぅと暗闇に現れる針葉樹を避けながら、ひたすら大地を、雪を蹴る。
もうずいぶん走ったので、後ろには誰も追ってきていないだろう。
目指すは、遠方にそびえる巨大できらびやかな火山。狩りごっこで雪原を走り回った時、その不思議なシルエットは嫌でも孝太の目を引いた。
きらめく角砂糖が、山頂から生えている。初見の孝太にはそう見えて仕方がなかった。
その記憶を頼りに、孝太は文字通りの山勘でもって走り続ける。あれだけの標高であれば、ほとんど情報のない『ロッジ』の位置も掴めるかもしれない。
下り坂に差し掛かり、孝太は大きく跳んだ。あたかも階段を飛び降りてショートカットをするような、そんな軽い気持ちで暗黒に落ちて…………ボズッ!と雪に足を埋める。
それにしても、寒い。
走る孝太の頬に、冷たい空気が突き刺さる。かじかんだ指先はむず痒く、むしろ熱を持ってさえ感じられた。
もちろん孝太は、ダウンコートと手袋、耳当ての完全装備である。が、冷え性の彼にとっての防寒具はいわば時間稼ぎの装備でしかなく、こと雪山のような寒冷地では大した意味をなさないのだった。背負い慣れたリュックはその中身ごと置いてきたので、空いた背中も案外冷える。
だが、今感じている寒さの本質は、肌で捉えられる冷たさそれだけでなく。
内面の……心の冷え込みの方が、よっぽど身体を震わせているのだった。
自ら決心して、自ら離れたというのに。
一方的に別れを切り出しておいて、今さら自分は何を悲しんでいるのだろうか。
むしろ、喜び、安堵すべきではないのか?
これで彼女たちに、新種のセルリアンという危険が及ぶことは無くなったのだから。
孝太の頭に、夢での対話がよぎる────
「───孝太さん……あなた以外は」
フレンズの四人は無事だが、あなたは無事ではない。夢の世界にて、イーシュはそう告げた。
孝太は一瞬言葉を詰まらせたが、すぐに平静へと戻り、慣れない笑顔を作って言った。
「そう……ですか。いえ、僕の怪我は………まぁ、どうでもいいんです」
その、あたかも他人事かのような物言いに、イーシュは一層悲しげな顔をする。
「…………責めないんですね。私を」
……責める? 何を?
想定外の質問に、孝太の思考はぴたりと固まる。数秒の間を置いて、孝太はようやく彼女の言わんとしていることを理解した。
つまり「大怪我を負うような出来事に無理やり巻き込まれたのだから、あなたは怒って当然だ」ということだろう。
「そんな、まさか。怒りませんよ。……何もなかった僕に、こんなすごい力を授けてくれたんですから」
そう言いながら、己のひしゃげた両手を眺める。何もないままの自分だったなら、こんな無茶はできなかっただろう。
きっと、怖くて動けずにいて、ずっとフレンズの皆の背に隠れていたはずだ。本当の自分は、どうしようもなくダメで、弱い人間なのだから。
それを、その弱さを覆い隠してくれた鎧こそが、この力なのだ。
「……だから、その力のせいで…怪我をしたんですよ? 前にも言いましたが、セルリアンはあなたを……力を狙って……!」
うつむくイーシュは、更に追及する。己を刺す問いかけだというのに、彼女は自分に「そうだ」と言ってほしいようで。
しかし孝太は、それには答えなかった。
答えるだけの余裕が消え去った、というのが正しかった。
突如、無の地平線が黒く染まり出し、世界が闇に覆われた。夢の、無意識の急変に、イーシュもハッと顔を上げる。
「……孝太…さん?」
イーシュは、孝太の目の内に暗く沈んだ何かを見た。それは周囲を映し出したものではなく、より深くから滲み出るような────光を通さない黒だった。
「力を……狙って…………そう、だ…。なんで、忘れてたんだ? ……いや、見ないように…してただけ……か」
ついさっきまで笑おうとしていた彼は、今や愕然としてうなだれている。自問自答する彼に声をかけても、まるで耳に入っていないようだった。
そういえば、以前にも似たようなことがあった。あれはお風呂場で─────
「居心地がよくて……楽しくて……見て見ぬ振りを…してたんだ、きっと…。それで……みんなに………くそっ…!」
「…孝太さん!?」
憎々しげな悪態がつかれたと同時に、孝太の身体から黒い煙のようなオーラが放出された。黒は一瞬で場を包み、夢の世界は更なる闇に閉ざされる。彼の精神が、この世界を暗く塗り替えているのだ。
わずか1メートルの距離だったはずなのに、イーシュと孝太は互いの姿を捉えられなくなり─────
孝太の『無意識』は途切れた。
覚えていたのは、ここまで。
だがしかし、かつてなく鮮明に記憶されてもいた。
あの時、ようやく己の罪に気付けた。
無自覚に恩人を危険に晒す、という罪に。
もっと早くに気付くべきだったが、誰かに取り返しのつかない事態が起こる前で良かったともいえる。
ともあれ、こうして宿から離れれば凶悪なセルリアンが皆を襲うことはなくなる。そうならなくとも、確率はグッと減るだろう。であれば、今後はフレンズとの接触を最低限に済ませなくてはならない。
優しいけものの彼女たちを曇らせるようなことは、絶対に起こしてはいけないのだ。
呪文のように、決意を心で反芻する。
なぜだか込み上げる感傷が、目尻に水玉を生み出した。それが視界を歪める前に、すぐさま手袋で拭い取る。
と、
「………! 森が……!」
ついに孝太は、銀世界の果てへとたどり着いたのだった。走りを緩めた孝太は、草を踏みしめる自然の感触にしばし足を止める。
あっという間に辺りの白は鳴りを潜め、周囲は緑の支配する森林地帯へと変わっていた。虫の音が静かにこだまする暗闇に、孝太は虫嫌いの身でありながらどこか安心していた。
どうやら気温も相応に上がったらしく、試しに耳当てを外してみると、そよ風が暖かい。極端な温度差のせいでそう感じるだけなのだろうが、生い茂る緑の空間は掛け値なしに心地よい。
「山は……」
いまだ朝方にはなっておらず、緑の大地に来ようとも視界は変わらず闇一色。
うっすらとでも目標を見据えるべく、孝太は木々の合間を縫って進んだ。ザクザクからガサガサへ、様変わりした足音を立てて、孝太はひたすら歩き続ける。気分としては走りたかったが、枝や根が邪魔で慎重に歩かざるを得なかった。
そうして、十分は歩いただろうか。
視界の先に、ようやく木々の途切れる様子が映った。それを確認すると、孝太の歩みが自然と早足へ変わる。
先ほど感じた安心感はどこへやら、既に孝太は虫だらけで蜘蛛の巣だらけの森林に嫌気が差していた。だんだん暑くなってきたので、手袋と耳当ても既にポケットへと突っ込まれていた。
小出しにする感覚だったとはいえ、力の限界時間が近いのだろう。今や汗と疲れが身体を蝕み始めている。
目と鼻の先のあそこで、今夜はひとまず休もう。しばらくは何も考えず、ただただ眠りたい。
食料は…………後で考えよう。
働かない頭でもってぐるぐると考える孝太は、森に少しの別れを告げる葉っぱの門を、やっとの想いでくぐった。
が、しかし、安堵の気持ちは即座に消し飛ばされた。
消し飛ばした犯人は、唐突に真横から飛び出してきた肉球と、爪。
木の陰から伸びる棒の先に、黒い毛皮のけものの手がくっついていた。それはカムチャマが持っていた得物とそっくりで───違いといえば柄にリボンが無いことぐらい───孝太は二重に驚かされた。
まさか、カムチャマが追って……!?
そんな孝太の驚愕をよそに、横から聞き慣れない声がした。
「ん…! ……お前、セルリアンじゃあなさそうだな」
カムチャマより、もっと低い声。
いや、彼女も鬼気迫った時は十分低かったのだが、今かけられた声には怒気などは含まれていない。警戒心は色濃く表れていたものの、その声質がカムチャマと大きく異なることはよくわかった。
「こんな深夜にガサガサ近づくもんだから、つい、な。…悪い」
一方的に謝られたところで、声の主が茂みから歩み出る。
月も見えない曇り空の、ほんのわずかな星明かりに照らされて現れたのは、誰だろうと一目で分かるあのけものであった。
「私はヒグマだ。ハンターやってる。……で、お前は?」
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