さめた世界で

P.G

第一章 雪

第1話 落ちる

 カタン、カタンと小気味良い振動が身体を揺らす。

 車体と吊り革の揺れ動く音だけが、車両に響いていた。窓の外で尾を引いて過ぎ去っていく住宅の明かりは、いつの間にか少なくなっている。

 しばらくして、人気のない車両に事務的なアナウンスが流れ始めた。それは、次の駅が終点であることを告げていた。



 空いた座席の隅でうつむいていた男は、ふと顔をあげた。

 長く感じていた揺れは止まっていて、どこからか冷たい空気が流れ込んでいる。ぼやけた視界の中、開いている扉と、暗い溝を挟んだ先にコンクリートの床が見えていた。


 終点に着いたのだ。

 もう、降りなければ。


 男は膝に乗せたリュックサックの、更にその上に乗せていた眼鏡をかけると立ち上がった。ポケットに手を入れて切符の所在を確認しつつ、男は駅のホームへ足を踏み出した。



 ところが、ホームを踏みしめるはずの彼の足は硬い床を突き抜けた。

 もちろん突き破ったわけではない。足が床をすり抜けた、というのが正しかった。

 視界がぐにゃりと歪み、霞んでいく駅の景色が見えたのは一瞬のことだった。身体が浮遊感に包まれたかと思えば、あっという間に男は虚空に落下していた。

 理解しがたい状況が生み出す驚きと焦りが、彼の思考をかき乱す。



 落ちる!


  いったいどこに────?



 そもそもここは!?



   ───死ぬ、だろうか?



 駆け抜けるような、思考の連続。

 しかしそれも猛スピードで落ちていく恐怖に掻き消され、プツリと途切れてしまう。

 彼は意識を失った。


 紫がかった深淵に落ちる男を、妖しく光る金の瞳が見つめていた。





「そういえば、最近セルリアン見なくなったよね」


 ぼすっ、ぼすっと積もった雪を踏みしめながら、少女が話しかける。

 前を行く、青い服の少女の大きな耳が、わずかに後ろへ向く。


「そうね。このまま二度と出てこないでほしいわ。装置を直すのに命懸けだなんて割りに合わないもの」


 辛辣な言葉が曇り空の雪原に消えていく。後ろを歩くキツネ色の少女は、溜め息混じりに同意する。


「だよね。やっつけても疲れるだけで終わりだし……何かアイテムを落としてくれたっていいのに。それだったらボク、セルリアン退治にもやる気が出るのにな」


「あなたそれ、ゲームの話でしょう……」


 青い服の少女は呆れた声を出す。

 かつて博士たちに頼んで、宿にあったゲームを遊べるようにしてもらったのは失敗だったかもしれない。それ以来、同居人は暇さえあればゲームをしているような気がする。

 もっとも今は食料探しで一日が終わるような生活ではないので、ゲームでもしていなければ暇な時間が多すぎて仕方がないのだが。


「ギンギツネだってやってるじゃん、ゲーム。ボクが寝てる時にこっそり遊んでるでしょ? ボクのじゃない点数があったもん」


 突然の指摘に、ギンギツネと呼ばれた少女の身体がビクリと跳ねた。歩みこそ止まっていないが、周囲を探ってせわしなく動いていた耳が固まってしまった。


「そっ、それは……きっとカピバラじゃない? たまに遊んでた……ような覚えがあるわ。私は、掃除とかで忙しいし」


 明らかに歯切れが悪い。


「ふ~ん……。でもカピバラはたぶん数字を読めな───」


「あっ、ほら! 帰ってきたわよキタキツネ! 私、ちゃんとお湯が出てるか見てくるから!」


 パン!と手を合わせて話を遮り、早口でまくし立てたギンギツネは温泉宿に駆けていく。そのわかりやすい誤魔化し方に、キタキツネはついつい吹き出した。

 そして、いつか現場をおさえて、もっとあわてふためくギンギツネを見てやろうと心に誓ったのだった。


 ────しかし、あわてる姿はすぐ見れてしまった。


 急ぐギンギツネの横1メートル程のところに、突然黒い何かが落ちてきたのだ。

 ボスッ!と雪に沈み込む音と、びっくりしたギンギツネの悲鳴がほとんど同時に響いた。のんびり歩いていたキタキツネはハッと意識を切り替え、ギンギツネの元に素早く駆け寄る。


 十数秒ほどの時間、二匹のキツネはそれぞれ穴と周囲を警戒して背中合わせに体勢を低くしていた。

 だが、一向に何も起こらない。

 顔を見合わせた二人は意を決して穴に近付き、恐る恐る中をのぞき込んだ。


 穴の中には、黒い厚手のダウンコートを着込んだ者が雪にまみれていて、その背中には群青色のリュックサックが背負われていた。

 二匹のキツネには、その姿は変わった形状の甲羅を持つ亀のように見えた。


「これ……ちゃんとした手足もあるし、セルリアン、じゃなさそう」


 穴の中を観察して、ポツリとキタキツネが呟く。口を開けたままポカンとしていたギンギツネは、その言葉で我に帰った。


「た、大変! 掘り起こすわよ! ほっといたら死んじゃうわ!」


 二人は急いで雪をかき分け、意識のない亀を救出した。思っていたよりも大きな身体だったが、ギンギツネは難なく亀を背負い上げると、温泉宿へのしのし歩き始めた。


「これだとギンギツネ、亀みたいだね」


 キタキツネが、いたずらっぽくフフッと笑う。


「くだらないこと言ってないで扉を開けてちょうだい! あと、カピバラにも伝えて!」


 ごめんごめんと謝りながら、キタキツネは宿の扉を開け放ち、中に走って行った。

 直後に、奥から驚きの声とバタバタ忙しい音がする。わざわざ片付けるほどには散らかっていないし、ましてや部屋を埋める客などいないというのに。

 ともかく、まだカピバラが温泉に入っていなかったようで助かった。


 玄関にたどり着いたギンギツネは、いつも通り土足で宿に上がる。

 迎えてくれたカピバラとキタキツネに謎の亀を運ばせて、自分はお湯とタオルを準備しにパタパタと温泉へ向かった。




 虚空に吸い込まれた男は、どういうわけか未知の雪山に落ちたのだった。


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