ネオン下のハッピー・エンド
離水に向けて出港した旅客用飛行艇が行き来するその運河の岸辺には、無数のネオンサインがずらりと並んで、裕福な乗客たちに各々の商品名をアッピールしていた。「チドリブチ・高級フェートン」、「TRION実体幻視機」、「ギャルソン・コートの照葉交易」……。
本来、この一帯は労働者居住用エリアであって、建てることが出来るのは一般家屋だけ。広告塔の設置は認められない。
にもかかわらず、
いくつもの広告主によって場所は常に取り合いになっており、支払われる高額の礼金は、「ネオン下」に住む貧しい人々にとって重要な収入源だった。
母と二人でここで暮らすチエが、中等教育を受けられる年齢まで育つことができたのも、頭上で毎晩輝くネオンが稼いでくれるお金のおかげと言って良かった。
「感謝しなくちゃね、このお薬には」
チエの母はいつも、屋根上で光る「致命ヴィールス性疾患に……ケロリナビル」という文字を見上げてはそう言うのだった。
すっかり遅くなった学校帰り、川沿いのごく狭い小路を歩くと、切れ目なく連続するネオン群が、建ち並ぶ長屋の屋根で色とりどりに輝き、混じり合った光の色がチエの足元を複雑に染めた。
どの家も、貧弱な木筋の骨組みに再生モルタル塗りの粗末な造りだったが、ネオンを支えている部分だけは、頑丈な鉄骨の櫓が組んである。家と広告のどちらが主なのか、一目瞭然の作りだった。
エンジン音を響かせながら夜の運河を往き来する飛行艇を部屋の窓から眺めるのが、彼女は好きだった。すぐそばを通り過ぎる、
しかし、チエの存在に気付いてもらえることはまず無い。あちら側からは、オレンジ色に光るネオン文字しか見えないし、そのすぐ下に人が暮らしているなどとは思いもよらないからだ。
でも、旅客飛行艇で旅をするような超富裕層なら、そんな高い薬を使うこともできるのだろうと、薬価辞典を開いたチエは他人事のように思ったものだった。
それが他人事では済まされなくなったのは、二年次に進級して間もなくのことだった。授業を終えて帰宅したチエは、家の様子がおかしいことに気付いた。ネオンはいつも通りに光っていたが、その下の窓がどれも真っ暗だったのだ。
不安は的中した。灯りが消えたままの台所で、母親が倒れているのを見つけたのだ。
無料の緊急医療隊によって、母親は
「不治の病という訳ではありません。抗ヴィールス剤を使って、様子を見ましょう」
と医者は気休めを言ったが、医療技能職を目指すチエには分かっていた。リッサ熱症は代表的な致命ヴィールス感染症であり、救貧医療制度の適用を受けられる
治療には、高価な核酸拡散抑制剤が必要なのだ。つまり、「ケロリナビル」が。
「ごめんね、チエ。心配をかけて。母さん、すぐに元気になるからね」
と、大病室に並んだ隔離テントの中に横たわった母は、弱々しい声で彼女に言った。
「大丈夫、心配なんかしてないよ。私だって、
「そうよね。あなたが医療職の道に進んでくれて、本当に良かったわ」
母親は、幸せそうに微笑んだ。
家財道具を全て売り払っても「ケロリナビル」一回分にしかならない、その現実を前にチエがまず考えたのが、ネオンの礼金を値上げしてもらおうということだった。この場所が取り合いになっていることを考えれば、もっと高いお金を出してくれる他の会社に乗り換えても良い。
製薬会社に電話をすると、昔からいつもネオンの確認と礼金の支払いに来てくれる、顔なじみのおじさん社員がすぐに姿を現した。
「礼金については、検討させてもらいますが……お母さんは? どうかされましたか?」
部屋の中を見回すおじさんに、チエは事情を説明した。この人のせいではないと分かっていたが、言葉の端々に、高価な「ケロリナビル」への恨みつらみがにじみ出てしまう。
辛そうな顔をして、黙って彼女の話を聞いていたおじさん社員は、「ちょっと待っていてくださいね」と言うと、突然外へ出て行った。そして半刻ほどの後、小さな銀色の保冷トランクを提げて、部屋に戻ってきた。
「どうぞ、お使いください」
おじさんが、トランクの蓋を開いた。白い煙がうっすらと室内に流れる。トランクの中には、「塩化リセナビル注射液 『ケロリナビル』」と書かれたアンプルが、何十個と収納されていた。
チエと母親は、こうして頭上のネオンに救われたのだった。
しかし実のところ、自社の広告看板の下で暮らしていた貧しい母娘を助けた、という美談の宣伝効果は、製薬会社にとってネオンそのものの比ではないほど大きかった。薬そのものの製造コストなど、ごく安いのだ。
機転を利かせたおじさん社員は、営業部長に昇進した。つまり、みんなハッピーになりました、とそういうお話。
(了)
[次回予告]
音声ラジオ放送に駆逐されつつある、モールス放送。かつての人気モールス送信者・ディラクは、新たな居場所を求めて、南方へ飛ぶが……。
次回メトロポリタン・ストーリーズ、「モールスターの悲劇」
――メトロポリスで、またお逢いしましょう。
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