ブロー・アウト
その日は朝一番から、ラピスラズリ相場の値動きがまともでなかった。
価格は急伸しては急落しを繰り返し、その激しい上下動のうちに、ラピスラズリの取引価格はついに史上最安値をつけた。
立会場に詰めかけたトレーダーたちから、どよめきが起きる。これはまずい、今逃げ出さなければ破滅だ。
次の瞬間、トレーダーのほぼ全員が、大きく広げた手のひらを前方に向かって突き出していた。「売り」のサインだが、買い手はいない。価格は下がり続け、一方的な暴落の様相を呈し始めた。
売り一色となった立会場で、ベテランの
きっかけは、
極渦の暴風雨に年中さらされ、赤茶けた荒野が広がる
南方において主流の通貨となっている、
昨晩の事故というのは、その
地下のラピスラズリ溜まりにおいて、圧力の急激な異常上昇が発生し、坑口から噴出した液化鉱物が地上設備の一部を破壊したのだ。
原因はまだ不明だったが、業界内には不穏な噂が流れていた。
地中に眠る、
これは最悪のケースだが、もし
単なる採掘停止なら、液体ラピスラズリは大幅に不足して、価格は高騰するだろう。しかし、利用凍結となると、
ならば、つまりは売りだ。これが今朝からの乱高下の原因だった。
南方では。南方の鉱物取引所では、この事態をどう判断しているのか。
シモンは考え続けた。全財産を液体通貨の専用容器であるアンプル・ウォレットに入れて持ち歩く人間も、南方では珍しくない。
下落率が25%を超えたところで、シモンはついに決断を下した。
右手を、高々と挙げる。開いた手のひらは、手前を向いていた。その手を握って、また開く。買い、1000万
周囲のトレーダーは、いつも慎重なシモンが下したハイリスクな判断に、目を剥いた。しかし、同調する者はいない。殺到する売りで、瞬時に取引は成立した。
そして、価格はさらに下がり続けた。彼の大勝負は、売り気配の大波に飲み込まれたのだ。しかしシモンは身じろぎもせず、その場に立ち続けた。マイナス27%……29%……。
深い海の底に、自分の
一人の伝令が、立会場の中に走りこんで来た。そして、雇い主らしい老齢のトレーダーに、何か耳打ちする。
見るからに高価なジレを着たトレーダーの頬に、さっと赤味がさした。そして彼は、右手を挙げる。全力買い、2500万
さすがにこれは何か、材料があるに違いない。多くのトレーダーが、そう考えた。あのシモンの買いだって、その裏付けがあってのことなのだ。
立会場の空気が、変わり始めた。手のひらを返して買い注文を出し始めるトレーダーの姿が、目立ち始める。価格は、横ばいを維持している。
この時、取引所詰めの記者から、決定的なニュースがもたらされた。南方、風境区の
買い、それが南方のトレーダーが下した判断だった。つまり、利用停止はないと、彼らは見ているわけだ。
空気が一瞬で反転した。多くのトレーダーが、買いサインを示した腕を振り回している。
今の安値のうちに、少しでも多くのラピスラズリを拾っておかなければと皆が必死だった。南北の取引所に価格差が生じている今なら、買いと同時に電信経由で南の取引所に転売をかけるだけでも、
取引終了時間の直前になって、金融監督局と鉱山保安局から発表があった。
「液体ラピスラズリに汚染は無く、今後も利用は継続される」
南北の価格差はすでに消滅していたが、そこからさらに価格は高騰することになった。
結局、シモンはこの一日で、一千兆
こうして、
汚染は、本当になかったのか。
一介のトレーダーである彼には無関係なことだった。利益さえ取れれば、それで良い。そう思いながらも、彼はうすら寒いものを感じずにはいられなかった。
アンプル・ウォレットの中で青く光る、あの美しい液体。ラピスラズリは本当に汚染されていないのか? と。
(了)
[次回予告]
父の事業を成功させるため、取引先である有力者の婚約者として、独り遠い南方へやってきたシーナ。夜空にそびえる巨大な電波塔の孤独な佇まいに、彼女は自らの姿を見る。
次回第43話、「高い塔と彼女」
――メトロポリスで、またお逢いしましょう。
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