月からの声
宇宙。かつて、
軽貨物飛行艇のコクピット、その前方ウインドシールド越しに、シュバルトは月を見上げる。わずかに青い光を帯びた夜空の中心で、眩しいくらいに輝く、白い円盤。
壊滅的な通貨危機(当時のお金は、値打も何もないただの紙や電気信号だったというのだから恐れ入る!)を境目に、衰退を続けた人類文明は、駄目押しの
そこからわずか半世紀で、ここまで復興したのだから、大したものではある。しかし、あの宇宙へと再び旅立つような技術も、経済力も、まだ我々は手にすることができていなかった。
かつて使われたような大型の噴進ロケットは、どうしたって
太陽の光を反射してきらめきながらいくつも横切っていく、あの豆粒のような「人工衛星」が、かつて人類が宇宙空間を様々に利用していたという証拠の一つだった。
中には、今でも電波を発しているものもあったが、残念ながらその内容の解読はほとんど進んでいない。波形を分析してみると、何らかの規則性は認められるものの、用いられている変調方式さえ分からない場合がほとんどだった。
しかし、宇宙から降ってくるそんなメッセージの中には、音声ラジオ受信機で簡単に聴くことができるものもあった。
運送フライトの帰り、
「こちらはMSPB、月面宙京市公共放送です」
左耳のイヤフォンから、微かなノイズ交じりの声が聴こえてくる。
月面
遥か昔に機能を停止したはずのその基地からの放送が、今もこうして続いているのは信じがたいことだった。
とてつもなく長い期間、故障することも動力切れになることもなく放送機器は作動し続け、自動的に電波を送信し続けてきたわけだ。
地上でも、高性能の受信機であれば普通に聴くことが出来るのだが、電波状態の良いこの高空でなら、よりクリアな状態で受信が可能である。
放送内容としては、かつて放送された番組の再放送を順番に繰り返しているだけだ。しかし、目の前に浮かぶあの月の上で暮らしていた人々がいた、ということが伝わってくるその内容は、実に不思議で幻想的だった。
「今日もこうして、青く輝く美しい地球が、地平線の上に浮かんでおります」
番組の冒頭、ナレーターは静かに語りかける。
「それでは本日の、地球からのニュースを。国際通貨銀行は、世界的な過剰流動性問題に対する解決策について……」
その放送は、言わば一種のタイムカプセルだった。過去の世界において起きた様々な出来事を、ナレーターはリアルタイムに伝えている。
何もかも、生まれるよりもずっと昔に起きたことではあるけれど、老境に差し掛かりつつあるシュバルトにとっては、ある種の懐かしささえ感じられた。
「続いては、本日の配給状況です。共同補給船団の出発が大幅に遅れていることから、給水については引き続き最高度の制限が行われています。西ブロック3号棟の基幹蛇口のみ、3分の2減圧にて利用可能です。また、食糧については……」
ここで、何かを引っ掻くようなノイズ音が入り、放送が聞き取り辛くなる。頭上に、厚めの雲が架かっていた。
シュバルトはさらに操縦桿を引いて機首を上げ、エンジンのストッロルを開いた。空荷だから、
乱れる気流に機首をいくらか振られつつも雲を抜けると、濃紺の夜空に輝く円い月がまた顔を見せた。
放送の電波も再びクリアになり、受信機からは大昔のスタンダード・ナンバーが流れ始める。恋人への思いを、月や星への旅に例えたその歌詞を、実際に月面に暮らしていた数百人の人々はどんな思いで聴いたのだろうか。
涙があふれそうになり、彼は慌ててフライト・ゴーグルをずらして目を拭った。
防曇処理はされているが、涙で視界が歪むのは危険である。高高度飛行中なのだ。
さらに月を目指そうかとするように、彼は高度を上げ続けた。
彼らの所へ行ってやりたかった。しかし、どんなに頑張ってもこの
それに、と彼は思った。空荷じゃ、しょうがないか。
月面宙京市の住人たちが待ち続けた補給船団が飛ぶことは、ついになかった。
地上で発生した破壊的な経済危機が、宇宙開発の国際協調体制を一撃で崩壊させたのだ。地球の人々は、月に住む数百人を見殺しにした。
エンドレスで続くこの放送は、彼らが自らの墓標として、その残酷な事実が決して忘れ去られることの無いようにと、セッティングされたものだと言われている。その放送内容に、恨みがましいメッセージは一切無かった。
ただ和やかに、ナレーターは今日も語り掛けるのだ。冷酷な、地球へと。
(了)
[次回予告]
今までに32個ものモンブランを食べておきながら、未だに代金を支払ったことがないというその男。洋菓子店主から依頼を受け、私は取り立て交渉に挑む。
次回第19話「街角の取り立て」
――メトロポリスで、またお逢いしましょう。
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