駆け降りる歌姫

 街区の周囲を半周するように走る郡部諸街区連接鉄道ディジーチェーンの支線を、住人たちはシティ高架軌道Sバーンになぞらえて「Uバーン」と呼んでいた。

 駅のホームに立つと、底城区の町並みが眼下に見えたが、これは鉄道が高い所を走っているからではない。逆に、街が低いのだ。この街区は、クレーター状の小さく深い盆地の中にあるのだった。

 時折襲ってくる、「極渦」と呼ばれる激しい嵐の影響を避けることができるという理由で、こんな地形の場所に街が発展したのだという。


 盆地の縁を巡る支線には三つの駅があり、いずれも大階段と呼ばれる長い階段によって、市街地と結ばれていた。中でも、街区で一番の繁華街である彗星街に最も近い「中駅」は、街の玄関口となっている。

 その「中駅」の改札前に立ったホーリーは、足元に長々と続く階段を見て息を飲んだ。この街に来るのは初めてで、こんな特殊な地形になっているなどとは全く知らなかったのだ。


 彼女は歌手だった。今夜は、彗星街にある劇場酒場キャブレットで、ステージに立つことになっている。これでは、約束の時間までに店に入るのは難しかった。

 もらっていた簡単な地図では街まですぐの距離に見えたから、列車を降りてから店に着くまで、充分に時間の余裕があると思っていたのだ。平面図を見ても、この高低差は分からない。


 劇場のオーナーが出演を依頼しに来た時のことを思い出す。

 公演終了後に、彼女の楽屋に姿を現したその男は「不便な田舎まで来てくださるのですからな、ギャラは弾みますよ」だの何だのと言いながら、彼女の肩を抱こうとしたり、膝に手を置こうとしたりとエロ親父丸出しだった。

 確かに提示されたギャラはなかなか気前の良い額だったから、彼女は内心しぶしぶながら引き受けたのだったが、自分の遅刻でステージの開演が遅れるなどということになったら、どんな難癖をつけて来るか分かったものではない。


 間の悪いことに、今のホーリーは高いヒールの靴を履いて、スカートの裾がひらひらするロングドレスを着ていた。階段を駆け降りるには、最も不向きな服装である。

 しかし、そんなことは言っていられなかった。慎重に、転ばないように、眼下のささやかな夜景めがけて、全速力で階段を降りて行くしかない。


 意を決した彼女は、優雅に挨拶カーテシーをするが如くスカートの裾を持ち上げ、大きく息を吸ってから、急な階段を駆け降り始めた。

 踏面の敷石をヒールが叩く、コツコツという音が辺りに響き渡る。大きな荷物の包みを背負った老人が、彼女とのすれ違いざまに、目を丸くしてその様子を見ていた。


 あのお爺さん、あんな重そうな荷物を背負ってここまで上がってきたのかしら、と思ったホーリーの目に、「第一大階段リフト乗降場」という文字が飛び込んできた。

幅の広い大階段の真ん中には、歩行者用リフトの路線が設置されていたのだった。


 等間隔で並ぶ鉄柱に支えられたケーブルに、人一人がどうにか腰かけられそうな大きさの簡素な座面がいくつも吊り下げられて、階段の上下を行き来している。

 普通に歩いて階段を昇り降りする人のほうが数は多かったが、それでもほとんどのリフトに乗客の姿があって、この簡易的な乗り物はなかなか人気らしい。


 彼女は一瞬、立ち止まる。階段を必死で降りるよりも、これに乗ったほうがずっと楽で安全だ。しかし、その速度は極めてのんびりとしたものだった。こんなものに乗ったせいで遅刻しては元も子もない。

 整然と並んで階段の真ん中を降りて行くリフトの列を横目に、歌姫は再び階段を駆け降り始めた。たちまちのうちに、リフトの乗客たちを追い抜く。


 万一、ここで転んだりしようものなら、そのまま階段をどこまでも転げ落ちて行くことになりそうだ。しかし、風を切って駆け降りる今の彼女は、まるでグライダーか何かで地上の街を目指して夜空を滑空しているかのような気分だった。

 一段飛ばしで、規則正しいリズムを守り、歌姫は走り続ける。体は軽く、ヒールの足も痛みを感じない。

 大階段は街の名所ともなっているようで、長い長い階段沿いには観光客向けと思われる様々な店が並んでいたが、それらの店先の灯りやネオンが次々と後方へ飛び去った。一つ結びでまとめた彼女の長い銀色の髪が、夜空になびく。


 下方に広がる光点だった街がどんどん近付いて、一つ一つの建物がはっきりと見えてきて、そして階段の終わりがやってきた。

 最後の急な十数段を駆け降り、ついに地上にたどり着いた彼女は、勢い余って通りをしばらく行き過ぎてから、ようやく立ち止まった。

 全身が、いつの間にか汗びっしょりだった。足の痛みがひどく、先ほどまでの重力を感じない軽い体はどこへ行ったのかと思えるほど、そこから動くのがおっくうに思われた。ハイヒールで階段を走るなど、そもそもが無茶苦茶なのだ。

 しかし、これで遅刻しては意味がない。気力を振り絞り、歌姫は店を目指した。


 時間には、ちゃんと間に合った。

 店のシンボルたる紅い風車ムーラン・ルージュのネオンを輝かせた、この街区で一番の劇場酒場キャブレットは、見事に大入り満員だった。

 走り疲れてボロボロの気配など、ひとかけらたりとも表に出さずに、歌姫は完璧に舞台をこなして見せた。


「お疲れ様、見事なステージでしたな。あなたの到着が間に合わず開演時間が遅れる、などということにならずに、本当に良かった」

 幕が下りた後、粘っこい声でねぎらいの言葉を掛ける、脂ぎったオーナーの顔を見て、ホーリーは気付いた。

 この親父、こちらが遅刻するのを見越していたに違いない。最初から、そこに付け込むこと自体が目的だったのだ。


 痛む足を引きずって、彼女は劇場を離れた。まだ、帰りの列車がある。こんな親父が巣食う街で、一晩過ごしたくなどなかった。

 やるべきことはやり切った。たとえ場末の歌姫でも、プロはプロだ。決して誰にも付け込ませたりなどしない、私は。

 しかし、もう一度あの階段を登るのだけは、願い下げだった。一億クレジットコインを係員に手渡し、ホーリーは老人たちに混じって、例のリフトに乗った。脱力し、ほっとしながらのろのろと駅へと昇って行く。


 この後すぐ、彼女は危うく最後の列車に乗り損ねそうになり、最後の最後に結局は階段を駆け上らざるを得なくなる。しかし、まだホーリーはそんなことは知らない。優雅なリフトの旅が終わるまで、あともう少し。

(了)



[次回予告]

軽貨物飛行艇の機首を上げ、月に向かうように飛び、音声ラジオ受信機のスイッチを入れる。やがて聴こえてくる声に、シュバルトは涙を流した。

次回第18話「月からの声」

――メトロポリスで、またお逢いしましょう。

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