空を泳ぐ夜

 一日の仕事を終えたセレーネは、肩の荷を全て下ろしたようなすがすがしい気分で、高架軌道Sバーンに乗り込んだ。

 いつもなら憂鬱でたまらない、混み合った車内も今だけは気にならない。週末の夜、明日は休みだ。

 上席会計士の仕事が嫌いなわけではなかったが、バブル・チェンバーに浮かんでは沈む数字とひたすらにらめっこする日々というものは、相当に神経を使うし、肩が凝る。一週間が終わると、やはりほっとするのだった。


 電動客車を降りた彼女が大通りを渡って向かった先は、真正面にそびえる高層ビルだった。

 専用のエレベーターに乗り込み、そこから一気に七十七階の受付まで上がる。恭しく迎えてくれたコンシェルジュに会員証を提示し、セレーネはクラブの中へと入って行った。

 指示されたブースで、彼女は窮屈な紺色のスーツを脱ぎ捨てた。続いて、下着も全て。長い黒髪をまとめてから、体にぴったりと密着する紺色のウェアをバッグから取り出し、多少の苦労を伴いながら着込んだ。

 そのウェア一枚だけの恰好で、セレーネは更衣ブースを出た。これで自由に体を動かせる。


 シャワールームを兼ねた通路で、彼女は降り注ぐ温水を全身にたっぷりと浴びる。気分は最高、これで準備は万端だ。

 通路の行き止まり、「スカイウェイ・ゲート1」と書かれたドアを開いて、彼女は外に出た。

 そこにあるのは、小さな屋内プールだった。長細い形で、レーンはわずか1つだけ。水底の照明が、湛えた水全体を明るい青に光らせている。

 プールの向こう側の壁には、天井から床まで届く一面のガラス窓があった、高度集積地区コア・エリアのビル群が輝いているのが見える。


 プール自体の全長は、勢いよく壁をキックして泳ぎ出せば、たちまちに反対側に届いてしまいそうな程度だ。

 ところがプールの先は、透明なチューブ状の水路へとつながっていて、そのチューブはビルの外壁を越えて遥か彼方まで続いていた。つまり、夜空の真っただ中へと延びているという訳である。

 これが、「スカイウェイ」と呼ばれる空中プールだった。三つの高層ビルを環状につないでいて、一周すれば相当な距離を泳ぐことができる。


 軽い準備体操の後、セレーネは水に入り、いよいよ泳ぎ始めた。

 屋内のプールから、透明な水路へと出て行くと、揺らめく水のずっと下方に、大通りの夜景が見えた。

 このスカイウェイが建造されたおかげで、仕事帰りに気軽に泳ぎに行くことが出来るようになった。

 過密でスペースの取れない高度集積地区コア・エリアに、本格的なフィットネス向けプールを作るためにはこのような構造しかなかった、とされてはいたが、実の所は富裕層向けの演出だろう。クラブの会費は、安くはない。


 大都会メトロポリスの夜空を横切る、青く光る水路。

 セレーネは次第にペースを上げながら、その透明なチューブの中をクロールで泳ぎ続けた。水しぶきが、周囲の超々高層ビル群の灯を映してきらきらと光る。上流層に属する都市生活者の生活を、象徴するような情景。

 しかし、彼女の胸の中をふいに虚しさがよぎる。かつての恋人、半年前に別れたキャサリンのことを、セレーネは思い出していた。

 セレーネよりも八つ年下のキャシーは、この都会が嫌だと言って郡部諸街区カウンティの故郷へと帰って行ったのだった。


「だって、息が詰まりそう。どこまで行っても、何もかも作り物。そりゃ綺麗よ、このたくさんのビルだって、あんなにきらきら光って。でも、みんな嘘なのよ。お金さえかければ、いくらでも作ることが出来る、偽物」

 キャサリンは一気にそう言って、ワイングラス越しの摩天楼群を大きな瞳で見つめた。高層ビルの二百十二階、スカイ・レストラン。

「そんなこと言っても……じゃあ、どうするのよ。この街を離れるっていうの?」

 セレーネは、困惑したように言った。若く、美しいキャシーの、その熱のこもった言葉を受け止めきれない。

「そうよ。そうするのだわ。もちろん、あなたも一緒よ、セレーネー」

「そんなことできないわ、私には仕事が」

「郡部にだって仕事はあるわ。素敵よ、私の街。夜はちゃんと暗くて、月が綺麗で。仕事が終わって、二人で手をつないで、石畳の通りを歩くの。誰にも見られないわ、私たち」


 一つ目のビルに、彼女はたどり着く。屋内にはやはり小さなプールがあって、セレーネはそこで一息入れた。しかし、すぐに再び夜空へと泳ぎ出す。何かを振り払うように。

 結局、彼女は仕事を捨てることが出来なかった。大手事務所の、上席会計士という地位は、そんなに簡単に得られるものではない。

 飛行艇の桟橋で、キャシーは何度も何度も彼女のほうを振り返った。本当に、私を一人で行かせていいの? と問いただすように。その短い髪を、強い風が揺らしていた。


 激しく水を掻き続ける両足が悲鳴を上げても、セレーネは泳ぐ速度を落とさない。夜空を進んでいく、彼女のすらりとした身体。たちまちに、二つ目のビルが近付く。

 捨てられなかったのは、実は仕事ではなかったのかも知れなかった。

 この、華やかな大都会メトロポリスでの生活、シティの住民というプライド、それらを捨てて、うらぶれた郡部で暮らすなんて……。


 しかし、そんな思いこそ、自分を愛してくれたキャサリンへのひどい裏切りなのだと、セレーネは気付いていた。

 彼女は幸せに暮らしているだろうか。月の綺麗な、その寂しい街で。できれば……淋しい思いでいて欲しい。自分と、同じく。

 高層ビルに囲まれた夜空を一周して、彼女は最初のビルへと向かって水路を進み続けた。今夜は、何周くらい泳ぐことになるだろう。

 ぐるぐると、まるで彼女の後悔のように、同じ場所を何度もループして。

(了)


[次回予告]

寂れた街区で発見された、戦争前の商業施設の遺構。カラフルな看板が並んでいたその場所で、ケイトたちは思わずはしゃぐ。この街にもこんなにぎやかな時代があったのだ、と。

次回第41話、「世界の終わりの向こう側」

――メトロポリスで、またお逢いしましょう。

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