グルメと嵐
この暴風の半径は一定ではなく、時期によって膨らんだり縮んだりする。従って、深部エリアとの境界線に近い地域の中には、頻繁に「極渦」に襲われるところもあった。
このような地域は、最も住みにくい場所とされていて、人口も希薄なのが通常だ。しかし、底城区の町だけはその例外だ。クレーターのような、小さく深い盆地の底に発達したこの町は、暴風雨の影響を受けづらい。
上空を「極渦」に覆われることがあっても、この地形に守られた市街地に及ぶ被害は、比較的小さなものにとどまった。
そうは言っても、やはりきつい嵐に襲われることには違いない。
気象局の観測所から警報が出ると、みな戸を固く閉ざして、家に引きこもることになる。水や食糧なども、普段から十分に備蓄しておくのが常識だった。
ところが、つい先ほど
ただ単にうまいシュニツェルを食わせる、行列のできる店があるという記事を読んで、呑気にグルメ一人旅に出て来ただけの、食いしん坊おじさんだったからである。
街の玄関口である「中駅」の前からは、遥か盆地の底に向かって、長くて急な階段が続いていたが、これは記事にも書いてあったから、驚かなかった。
しかし当てにしていた、市街地へ降りるリフトは「警報発令につき休止中」となっていた。仕方なく彼は、短めの足を一生懸命に動かして、徒歩で階段を降り始める。それにしても、警報って何だ?
まだ、陽が傾き始めたくらいの時刻だったが、穴の底にあるような市街地の半分くらいは、すでに日陰の中にあった。気になるのは、妙に風が強いのと、空の向こうに立ちはだかる黒い雲が異様なくらいにぶ厚いということだった。
あれが噂に聞く、
そう、ラゴロフは本当に、何も知らなかったのである。
本来、大階段沿いには、観光客向けの店などがそれこそ階段状に立ち並んでいるのだが、それらの店舗も全て固く戸を閉ざしていた。地上に近いほど、暴風雨の影響も強いから、建物も頑丈に作ってある。
そこら中に「警報発令につき」と書かれた貼り紙がされているのを見て、呑気なラゴロフもいくらか不安になってきた。だからさ、警報ってなんなんだよ。
雨混じりになった風が、どんどん強くなってくる。空もすでに雲に覆われて真っ暗だ。
それでも彼は「極渦」のことなど、考えもしない。ひどい天気だ。早いところ街について、いいホテル押さえて、うまいシュニツェルを食おう。
しかし、階段を降り切って繁華街にたどり着いた彼は、ホテルもグルメも到底無理らしいということに、ようやく気付いた。
通りに並ぶたくさんの店は、全て戸を閉ざしていた。おい、まだこんな時間だぞ、店じまいには早すぎるぜ、と弱々しい声で冗談をつぶやきながら、彼は通りに立ち尽くす。
「警報発令につき」、全ての店の戸や窓に、あの文字があった。
何だかわからんが、これはさすがに非常にまずい状況らしい。とにかく、安全な居場所を。ずぶ濡れになりながら、ラゴロフは見知らぬ街角をさまよい歩いた。
ようやくたどり着いたのが、盆地内を周回しているらしい、乗合自走車の停車場だった。右回り、左回りともに、路線はやはり運休ではあったが、ホームの端に頑丈な石造りの待合所が建っている。
幸い、入り口のむやみに重い鉄扉は施錠されておらず、思い切り横にずらしてやると、ちゃんと開いてくれた。薄暗いバチェラー燈だが、照明も点いている。
やらやれ、助かったと彼は胸をなでおろした。木製の長椅子が数列並ぶだけの、殺風景な室内ではあったが、とにかくここなら安全だろう。
窓は、手のひらサイズの小さなのがいくつかあるだけで、分厚い硝子が嵌っていたが、外の様子は分かる。嵐は相変わらずの激しさで、一向におさまる気配はなかった。
まあ、いい。ここで一晩明かせば、ホテル代も浮くってものだ。
幸い、列車の中で食べていたガ州芋のクロケットがまだ何個かショルダーバッグに残っているし、待合所の中には洗面台もあったから、水も飲める。上等、上等、これなら良し。
結局彼は、暴風雨の轟音をものともせずに、小柄な体を長椅子に横たえてぐっすりと眠ったまま、明くる朝を迎えた。
目を覚まして小窓の外を見ると、嵐はすっかりおさまったようだった。陽光はまだ、盆地の底までは届いていないが、辺りも何となく明るい。
洗面台でラゴロフはゆっくり歯を磨き、顔を洗う。いや、嵐のおかげで得をした。少々、寝心地は良くなかったが。
そして彼は、バッグを肩にかけて外に出た。見上げると、流れる雲の間に青空がのぞいていた。急ぎ足で通りを歩き、目当ての
ちょうど店の前に来たところで、
噂のシュニツェルは、大層うまかった。腹が減っていた、というのもあるだろうが。
人気店に待たずに入れて、こんなうまいものが食えた。嵐で良かった、ついていたと彼はご機嫌だった。あんな目に遭いながら、本気でそう思っているのである。
呑気な食いしん坊おじさん、強し。
(了)
[次回予告]
金曜日の夜、ビル群の空を走る「スカイチューブ」を泳ぐひと時が、セレーネにとっては最高の時間だった。去って行った、キャサリンへの想いをループさせながら。
次回第40話、「空を泳ぐ夜」
――メトロポリスで、またお逢いしましょう。
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