夜間飛行

 遥か南方地方、風境区に近いマンノー海の停泊地へと向かう旅客用大型飛行艇クリッパーは、夜空のただ中を、機体を震わせながらひたすらに飛び続けていた。

 その銀色のふねが越えて行こうとしている地上には、暗闇の中に光る灯りの集まりがあちらこちらに点在して、つまりそれが郡部諸街区カウンティの各街区というわけだ。

 地平線の彼方まで、同じような眺めがどこまでも続いている。


 ジュネスは飽きもせずに、ソファー・ベッド横の小さな窓から、そんな地上の風景をじっと見つめていた。とっくに消灯の時間は過ぎて、彼のパパやママ、それ以外の乗客もみんなすでに眠っているようだった。


 美しい。が、ひどく淋しい。

 彼には、窓からの眺めがそのように感じられた。これから彼の一家が暮らす街も、あの小さな光の集合体の、その一つということになる。

 何というささやかな「街」であることか。


 長らく暮らしたシティの超々高層ビル群、夜の闇を圧倒するあの輝きとは比べ物にならない、弱々しい灯りの街。

 自分が簡単に闇に飲まれてしまうような気がして、非常燈のみが点灯する薄暗い機内で、ジュネスは思わず身震いしそうになった。


 父に引っ越しのことを伝えられた時は、ジュネスはむしろわくわくするような気分を覚えたのだった。

 郡部諸街区カウンティ、それも「南方」ともなると、都会の幼年学校に通う生徒たちの間では、まさに憧れの「未知の土地テラ・インコグニタ」だ。

 彼は得意になって、そこがどんなに謎と神秘に満ちた場所であるのかを、自慢してみせたものだ。


 しかし、いざシティを離れる日が近付いて来ると、ジュネスは段々と不安になってきた。

 今回の引っ越しは、父が会社の南方統括支社長として赴任することによるもので、冒険旅行とは訳が違う。一度行ってしまえばそうそう簡単に帰ってくることなどできないのだ。淋しい辺境の地で、うまく暮らして行けるのだろうか。


 ソファー・ベッドの上に膝を抱えて座り、うつむいたままで、彼は声を出さずに泣き始めた。都会メトロポリスに帰りたい。こんな飛行艇クリッパーも、何もかもが嫌だ。


「お気分でも、お悪くなられましたか?」

 突然声を掛けられて、ジュネスは驚いて顔を上げた。

 目の前に、アテンダントの女性の顔があった。恥ずかしくなって、彼は慌てて涙を拭く。超豪華飛行艇のアテンダントにふさわしい美しい女性だったが、彼の目にはともかく優しそうなお姉さん、と映った。


「あの……大丈夫です、僕」

 そう言って、ジュネスは顔を赤らめた。

「それなら、良かったですわ。長い航海フライトですから、もしもお疲れになって、お具合が悪くなるようなことがおありでしたら、いつでも私たちを呼んでくださいね」

 微笑んで、パーティションで区切られた個人用区画から去ろうとする彼女に、ジュネスは思わず声を掛けた。


「南方って……お姉さんは、南方の街を見たことがありますか?」

「ええ、もちろんですわ」

 彼女は再び、ジュネスのほうへ向き直った。

「ずっと空に真っ黒い雲がいて、すごい風とか雨とかがずっとなんだって……本当?」

「そうですね、南方の中でも、とても遠い所には、そんな怖い嵐ばかりの街もあるみたいですわ。でも、このふねが着く街なら大丈夫。ちゃんと、青空が毎日見られますわ」


 ジュネスの父親が赴任する先を、彼女は把握していた。

 彼が恐れているらしい、極渦と呼ばれる巨大な嵐は、確かに一年中ほぼ終息することはない。

 しかしその暴風雨が、風境区の中心市街地を襲うことはほとんどないはずだった。もっと極地に近い、南方深部に近い場所なら別だが。


「じゃあ、シティと変わらない?」

シティの空よりも、もっとずっと透き通った青空ですわ。とっても綺麗な」

 ジュネスの表情が、明るくなった。

 実際、大工業地帯による大気汚染が深刻なシティに比べれば、郡部諸街区カウンティの空はずっと美しかった。


「じゃあ、じゃあ……ディパーダン・アイス、いつも僕、ボンベルタでママに買ってもらってた。南方にもある? アイス屋さん?」

 ボン・ベルタは、高度集積地区コア・エリアにある百貨店デパートメントで、その入り口付近にアイスクリームの売り場があるのを、彼女も目にしたことがある。残念ながら、あのような高級百貨店はシティにしか存在しないが。


「ええ、もちろん。銀天街というのですけれど、お店がたくさんあるにぎやかな通りに、アズーレ・シールズというお店がありますわ。南方で採れる珍しい果物を使ったアイスが、とってもおいしいの。オレンジ、緑、青、色もみんな綺麗ですよ」

 にぎやかな通り、色とりどりのアイス、その言葉だけで、ジュネスには十分だった。


 南方に行くのが楽しみになった、と目を輝かす彼の様子に、彼女はほっとしていた。小さな子供にとって、見知らぬ遠い街への引っ越しは、大きな心的負担になり得るのだ。


「それでは、もう遅いですから、ゆっくりお休みになってくださいね。何かあったら、またお申し付けください」

 優しいアテンダントさんがそう言って去ってからも、しばらくの間、彼は窓の外を眺め続けていた。

 夜空にも、地上でも、たくさんの光点が美しく輝き、あるいは瞬いていた。

 陽が昇れば、あの空の色は済んだ青へと変わり、銀天街に建ち並ぶ店や行き交う人々を、明るい陽光が照らし出すことだろう。自分もその中の一人になって、アイスを手に通りを歩く。新しい友達と笑い合いながら。


 夢の中に居場所を移したジュネスを乗せて、飛行艇クリッパーは飛び続けた。到着予想時刻は八時間後、現地の天気は快晴の見込みである。

(了)


[次回予告]

再開発により撤去され、超々高層ビル群に姿を変えることが決まっている、暫定市街地。しかし街を離れようとしない人々にとって、唯一営業を続けるそのオート・コンビニは最後の拠り所だった。

次回第29話、「消えゆく街のオート・コンビニ」

――メトロポリスで、またお逢いしましょう。

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