谷間の一軒家
つまりは、ここが
羽ヶ淵本社の了解を得なければ、当局と言えども
周辺エリアは通称ゼロ番ブロックと呼ばれ、やはり羽ヶ淵関連や、その他の認可大企業、司法・行政関係などの重要機関が入った建物が集まっている。
どれも、最低百階建て以上の超高層ビルばかりで、言わば摩天楼のインフレの如き様相を呈していた。
しかし、たった一軒だけ、ごく普通の二階建ての民家が、ビルの谷間に残されていた。
陽も射さず、一日中真っ暗かと言えばさにあらず、ちゃんと朝と晩には日光が当たるようになっている。
そこに住んでいたのは、コーネリアス夫人と呼ばれる高齢の女性だった。羽ヶ淵本社会長、ド・コーネリアスの母親である。
「わたしゃやだね、そんな高いところに住むなんて。願い下げだよ。おー、怖い」
セントラル・タワーが着工された当時、コーネリアス会長は、その超々高層ビルの上階に用意する部屋に引っ越すようにと母親に頼んだのだが、返ってきたのは激しい拒絶反応だった。
彼女が住む家は、ちょうど開発が始まっていた
会長自らいくら説得しても耳を貸す気配はなく、とうとう取り壊しは見送られることになった。その結果、
しかも、「ビルの日陰なんてまっぴらだよ、そんなことならわたしゃ一人で田舎に出て行く」と彼女が譲らないため、ちゃんと日光が当たるように、ブロック全体の再設計を行う羽目になってしまったのだった。
躯体の骨組みは全て木材、壁もまた下見板張りの木造で、濃緑のペンキが塗られている。構造は開放的で、一階の大半は土間で壁もなく出入り自由、二階には広いベランダがあって、そこにも人が集まることができた。
夫人はことあるごとに、周囲に住んでいる昔からの友達――みな高層ビルの中に豪華な部屋を与えられていた――を呼んではお茶会を開き、みんなでスコーンやラビオリ、小籠包などをつまみながら、アールグレイやプーアール茶をがぶがぶ飲んだ。
日が暮れると、みんなを引き連れて二階のベランダに上がり、夕涼みと洒落込む。そして、次々と増えていく摩天楼群の夜景を見上げては、大声でその悪口を言うのだった。
「こんなものを馬鹿みたいに次々建てて、何になるんだね。人間の住む場所じゃないよ、これは。どうかしてるよ、あの子は」
母親のその言葉が何らかの形で耳に入ってくる度、コーネリアス会長は苦笑いした。
彼女の言うことは、全く正しかった。
しかし、一度完全に崩壊したこの世界を曲がりなりにも立ち行かせて行くためには、唯一の巨大都市が支配する世界、という正気とも思えない「物語」が必要なのだった。それを、彼女に説明しようとは思わなかったが。
彼自身、時折密かにその家を訪れては、母親の作ったペリメニ入りスープを二階のベランダでご馳走になりながら、自らの創り上げた
「まあ、あんたも大変なんだろうけどねえ……気に入らない街だけどね、これだけのものを作って、一人で動かしてるんだからね」
そんな時は、向かい合って座る母親も、幾分優しげな言葉を掛けてくれるのだった。
毎日ぶつぶつ言いながらも、コーネリアス夫人の晩年はそれなりに幸せなものだった。特別に贅沢をしようとはしなかったが、日々の食事どころか、お茶にもおやつにも一切不自由しない生活というのは、戦後すぐの頃には考えられないくらいに恵まれたものだった。
平穏のうちに彼女は寿命を全うし、恐らくはまだ存続していると思われる、天国という場所へと旅立った。
残された谷間の一軒家を、ド・コーネリアスは「羽ヶ淵本社会長の生家」として公開に踏み切った。これもまた、「絶対的権力を有する、謎の会長が支配する世界」という物語を演出する上で、有効なやり方だと彼は考えた。
もしも夫人がその様子を見ていたなら、それこそ「やめとくれ、冗談じゃない」と絶叫したことだろう。自分が暮らした普通の家が、そんな風に無数の人々の目にさらされるなど、彼女には耐えがたいことだったはずだ。
しかし……彼女は死んだのだ。二度と怒ることも、悲しむこともない。
この作り物の世界を支えるために、今日もド・コーネリアスは物語を創造し続ける。使えるものは、何でも使う。それが、ついに一人きりになってしまった彼に課せられた使命であり、背負わされた十字架なのだ。
(了)
[次回予告]
立体ホログラム映像の技術を用いて、透明な直方体の中に再現された、郡部諸街区各地の風景。ずらりと並んだそれらホログラム作品の数々は、旅に生きた彼の半生そのものの軌跡だった。
次回第50話、最終回「旅する函職人」
――メトロポリスで、またお逢いしましょう。
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