疾走GT

 くろがね三輪・GTの小さなキャビンに二人で乗り込むと、ほとんど肩が触れ合うような狭さで、若いケンは思わず赤くなったが、隣のメリー・アンはにこにこしている。ラピスラズリ取引の仕事で得た給料を必死で貯めて、ケンはこの中古の自走車を手に入れたのだった。

 だから、思い切ってドライブに誘った同僚のメリー・アンから二つ返事でOKをもらえた時には、心底努力が報われたような気持になったものだった。


 夏が近づいていた。綺麗な海を見に行きたいと彼女は言ったが、残念ながら、シティ近辺の海は工業廃水で濁っている。

 南方まで行けば美しい海が見られるが、ハイパワーのGT仕様とは言え、十五馬力しか出ないくろがね三輪でそんな遠くへ出かけるのは無茶だ。


 海じゃないけど、とケンは北方一と呼ばれるビーチがある「珊瑚湖」へのドライブを提案した。メリー・アンはその名前を知らなかった。

 しかし、彼が見せた立体ホログラフ画像に写った、白く眩しい砂浜と明るい青の水面を目にした瞬間、彼女は表情を輝かせた。


 水色の細身のワンピースに、つば広の麦わら帽子という、いかにも夏らしい服装で、メリー・アンは待ち合わせの交差点に姿を現した。

 会社で立体簿記の仕事を黙々とこなす彼女の姿ももちろん好きだったが、今日はさらに素敵に見えて、彼は有頂天になった。


 当日に故障などしては大変だから、彼は発動機周りを徹底的に分解点検しておいた。ライトグリーンの車体も、ピカピカに磨いてある。

 おかげで車は絶好調、GTの名に恥じないハイペースな走りで南北幹線アーティリアルを駆け抜けた。

 陽に焼けたキャビンの天板が頭上から熱を放ってはいたが、開放的な車内を吹き抜ける風はそれなりに涼しかった。


 幸い渋滞にも遭わず、午前中のうちに二人は紅珊瑚準区セミウォードに到着することができた。ウインドスクリーン一杯にあの明るい青の水面が広がると、ケンとメリー・アンは歓声を上げた。小さな立体画像とは、やはり全く違う。

 泳ぎこそしなかったが、革靴とサマー・サンダルを脱いで砂浜で波と戯れ、湖畔のビーチクラブでワカサギのフリットを食べ、湖面と同じペパーミント・ブルーのソーダを飲んで、と二人は輝ける初夏のデートを満喫した。


 小さな街で紅珊瑚のアクセサリーを買ったりするうちに、夕方が近付いてきた。いつまでも帰りたくはなかったが、明日は会社で仕事である。都会に帰らなくてはならない。

 一点の曇りもない、美しい思い出を土産に、若い二人は帰途に就いた。


 ところが実のところ、彼らの行く手には暗雲が立ち込めていた。南北幹線アーティリアルの彼方、地平線の上空を文字通り分厚い雷雲が覆っていたのだ。

 傾いた太陽の光を受けて、その雲は濃灰色とオレンジの混じった、実に禍々しい様子を見せていた。


「まずいな」

 今日初めて、ケンの表情が曇った。

「不気味な雲ね。嵐になりそう」

 メリー・アンが穏やかな声で言った。

「残念だけど、こいつは」

 ケンは、キャビンの天井を見上げた。

「大雨には耐えられないんだ。どこか、駅まで送るよ。一等車の切符を買ってあげる。ずぶ濡れになるのは、俺だけで十分だからね」

「大丈夫よ。嵐なんてすぐに収まるものだし、こんなに暑いんだもの、多少ずぶ濡れになったって、涼しくてちょうどいいくらい」

 そう言って微笑む彼女に、ケンは戸惑いながらも、そのまま車を走らせることにした。最悪、どこかダイナーにでも立ち寄って嵐をやり過ごせばいい。


 南北幹線アーティリアルを走り続け、いくつかの街区を通り過ぎても、まだ雷雲は遠くに見えているだけだった。

 これは案外大丈夫かと思った矢先、不吉な雨粒の音が、キャビンの屋根をスタッカートで叩いた。


「来たね、いよいよ」

 ケンは、行く手の沿道に目を凝らした。

 しかしダイナーはおろか、人の住んでいる気配も全くない。ここはちょうど街区と街区の合間、広大な空白域ノーマンズエリアの真っただ中だったのだ。

「行きましょう、このまま」

 メリー・アンが、決然と言った。


 流線型のくろがね三輪・GTは、まるで小型の潜水艦のように、辺りを覆う雨をかき分けて突っ走った。

 一輪だけの小さなフロントタイヤを、ケンは懸命に左右へとコントロールし続ける。弱々しい前照灯の光では、前方がどうなっているのかなど、ほとんど分からなかった。水流のような雨の束が、ひたすらにウインドスクリーンにぶつかってくるだけだ。

 キャビンの中は、見事に水浸しになった。簡易なドアと屋根の隙間など、雨が入ってくる場所はたくさんあるのだ。

 それでも発動機は、活発に回り続けていた。ケンが行った徹底的な分解整備が、功を奏したのだ。機関コアボックスのシーリング材を全て交換しておいたおかげで、浸水するようなこともなかった。


「ふふふ、楽しいね!」

 長い黒髪から水滴を垂らしながら、メリー・アンは笑う。

 そんな彼女を見ていると、ハンドルを握るケンも何だか楽しい気持ちになってきた。めちゃくちゃな状況。でも、こうして二人で一緒にいられさえすれば。


 雨は唐突に止んだ。頭上の暗雲は背後に去り、その後にはそのまま宇宙にまで突き抜けそうな、美しい濃紺の空が広がっていた。

 ずぶ濡れの恰好のまま、二人は大声で笑った。試練の時は、終わったのだ。

 今頃になって前方にダイナーのネオンが見えてきたが、こんな恰好では入店できそうにもなかった。


「いいよ、このまま走ろうよ、ずっと」

 彼女は、彼を見つめて微笑んだ。

「好きよ、素敵だわ」

 ケンは、有頂天になりかけた。だが、メリー・アンの言葉には続きがあった。

「……この車、とっても」

 俺じゃなくてそっちかよ、とケンは思わず苦笑する。だけど、苦難を共に楽しむことが出来る、そんな彼女とこうして一緒に居られるのはGTこいつのおかげだった。


 これからも頼むぜ相棒、と彼はガスペダルを踏みこむ。道の彼方にはもう、シティの輝きが小さく見えていた。

(了)


[次回予告]

若い労働者たちが夜な夜な集い、端末コンソール上で動く電子ゲームに興じる、その場所。しかし、その秩序を乱した者の存在が、全ての真実を明らかにした。

次回第26話、「ゲーム・センターの最後」

――メトロポリスで、またお逢いしましょう。


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