空へ続く階梯《ラダー》

「先生怒らないから、学校にこれを持って来た人は正直に手を挙げなさい」

 というミス・フラワーロードの目はすっかり吊り上がっていて、いやどう見てもすでにかなり怒っているでしょあんた、と窮屈な紺の規定服セーラー姿のアマーレは、内心ツッコミを入れていた。


「こんなものに頼って答えを出しても、何にもなりません。愚かなことです。馬鹿です」

 教壇で甲高い声を上げる彼女の手の中にあるのは、金属棒の先に短い円筒がついたような形の、活版回転式計算機マニキュレータだった。

 この円筒部分に、解くべき数式に合わせて磁性活字を組んで作った関数活版フォーミュラをセットしてぐるぐると回してやると、磁石とカムが組み合わさった内部の機械装置が、答えを出してくれるのだ。


 電源の要らない簡便な計算機として、戦争アトミック後に広く普及した道具だが、主にこれを使っているのは、暫定市街地にある零細な商店の経営者などだ。

 巨大都市、シティにおいて有数のエリート校、この上級中間段階教育機関ギムノの生徒に、そんな道具を使える者がいるというのは本来不思議なことだった。

 相当に裕福な家庭の子弟でもなければ、高額な学費が必要な、こんな学校に通うことなどできないからだ。


 ほとんどの生徒が結果的に、このシティに君臨する巨大企業・羽ヶ淵はねがふち本社や、そのグループ会社の幹部の子弟ということになっていた。

 アマーレの父親も羽ヶ淵傘下にある化学会社の取締役工場長だったが、専務でも常務でもないただの取締役というのでは、どうも格が落ちる。

 周囲の生徒と比べてしまうと、無理に背伸びして上流階層に割り込んできた感が否定できなかった。


「はい。俺ですが、何か」

 しかし、一人の生徒が手を挙げた。やっぱりね、とアマーレは内心うなずく。

 倍率一千倍の救貧奨学試験を突破して入ってきたという、リュージという男だ。

 あちこち継ぎだらけ、裾もボロボロの旧制標準服ガクランを着た彼の鋭い眼光に気圧されたように、ミス・フラワーロードは一瞬黙り込んだ。


「……この授業の目的は、答えを出すことではなく、考え方を理解することです。こういう道具に頼っては、意味がありませんよ」

「でもフラワーロード先生、関数活版フォーミュラを組む時点で、数式の理屈は自然に頭に入ってきますよ。答えを出すことが目的じゃないんなら、むしろこいつを使うのは合理的じゃないですかね」

 彼女は、答えに窮した。こんな原始的な機械の使い方など知らない。


「とにかく、計算補助装置は禁止と学則に書いてあります。教育指示イエローカードです、従いなさい」

「学則には、アバカスしか列挙されてなかったように思いますが……。指示なら、従います。申し訳ありませんでした」

 リュージは立ち上がり、深々と頭を下げた。先生は、ばつの悪そうな顔でうなずく。

 あの「ヒステリー」フラワーロードに一泡吹かせたわけだ。実際の所、超難関の試験を突破してきたリュージに、この学校の教師程度では誰一人として敵う訳はなかった。


「やるじゃない、あんた。わざとでしょ、あんなもの持ち込んで」

 教室外の通路で佇んでいたリュージに、アマーレは話しかけた。

「まあな。シティで最高級の学校って言ってもこんな程度さ」

 彼は、窓の向こうを流れる雲を見つめていた。高層ビルの百十四階、もはやここは青空の真っただ中だ。

「ま、要するにゃ、あんたらお嬢さん方の箔付けのためにあるような学校だもんな」

「誰がお嬢さんよ。あたしなんかね、」

「親父さん、羽ヶ淵の人間なんだろ? 十分偉いさんだよ、俺ら庶民から見りゃ」

 そうは言いながらも、リュージの表情には親しみが感じられた。

 全くの別人種として、校内では敬して遠ざけられている彼だが、家の格の低さからみんなに軽んじられているアマーレが、多少は同類に思えるのだろう。


「まあ、いいさ。ここで我慢すれば、次は最高等職能校エグゼスト・スクールだ。あそこを首席で出りゃ、あんたたちの仲間に入る階梯ラダーの一番下に手が届く。ずっと登っていけば……俺の子供の代には、普通にこういう学校に入れるようになるさ」

 空の彼方に霞む超々高層ビルを、彼は見上げた。羽ヶ淵本社、セントラルタワー。


「あんた、やっぱり面白いわ。ねえ、それうまく行ったら、嫁に行ったげるよ、あたし」

「あ?」

 リュージの鋭い目が、珍しく丸くなった。浅黒い顔が、赤みを帯びているようだ。

「お前……まさか、俺のこと好きなのか」

「別に、それほど」

 彼女はわざと、素っ気なく答えた。彼の反応には、脈ありの気配があった。特別美人という訳ではないアマーレだったが、リュージとは対照的な白い肌の、透き通るような美しさには自信がある。


「でも、あんたの人生には興味あるよ。それに、あんたも言ってたけど、うちの親だって一応は羽ヶ淵の社員だからね。多少はメリットあるんじゃない? あたしと一緒だと」

「なんだよ……。ま、考えておくよ」

 照れを隠そうとするように彼は顔を背け、彼方にそびえる本社ビルの天辺、五百五十五階を再び見上げた。そこにはグループのオーナー、ド・コーネリアスの部屋があるはずだった。


 この巨大都市には、その頂上まで続く長い長い階梯ラダーがあり、チャンスは誰にでも用意されている。

 実際に登り切るのは容易なことではない。しかし、リュージと一緒なら、彼女もいつかはたどり着けそうな気がした。高くて遠い、自由の空へと。


「うん、考えておいてね」

 微笑んで、アマーレは立ち去った。彼女の階梯ラダーは、ここに始まる。

(了)


[次回予告]

小さな港町に、機関故障した大艇クリッパー級の旅客飛行艇が寄港することになった。富裕層ばかりの乗船客で、かつてなく華やいだ町の夜。灯台の下で彼は一人の女性と出会う。二つの人生が、一瞬だけ交差した。

次回メトロポリタン・ストーリーズ、「冬の夜の来訪者」

――メトロポリスで、またお逢いしましょう。

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