冬の夜の来訪者

 細い月が浮かぶ夜だった。

 突堤の先に立つ灯台のレンズ点検を終えたオイラーは、官舎へと帰るため、右手に提げたカンテラで足元を照らしながら歩き始めた。

 こんな暗い冬の夜、もし足を踏み外して冷たい海に転落でもしてしまえば、いかにまだ若い彼であってもたちまちに生命を奪われることになる。


 突堤を半ばほどまで歩いてきたところで、海の向こうから聞こえてくるエンジン音に彼は気付いた。

 立ち止まり、夜空に目を凝らす。赤と緑の光が空のごく低い所を近付いてくるのが目に入った。旅客用飛行艇の、翼端灯だ。

 飛行艇は間もなく、沖合の海面に着水した。そしてそのまま、エンジンの轟音を響かせながらこちらへと向かって来た。相当に大きいふねだ。大艇クリッパー級というやつだろう。


 彼は慌てて、突堤の付け根近くにある港湾管理局支所出張所の事務室へと駆け込んだ。髭面の所長とノッポの主任、たった二人しかいない職員がオイラーのほうを振り返る。

「あの、たった今、大きな」

 ふねが降りて来た、と言おうとした彼に、苦飴を噛み潰したような顔をした所長がうなずいて見せた。

大艇クリッパーだろう。着水したか。先ほど支所長から連絡が入った。機関故障だそうだ。代わりのふねが来る明朝まで、この追泊港に停泊するらしい。後はよろしく任せた、だそうだ。何が、よろしくだ」

 吐き捨てるように、所長は言った。

「しかし、豪華なふねですから、宿泊場所の手配などが要らないのは助かります。五十人ものお金持ちの乗客にお泊りいただく場所など、この町にはありませんからね」

 隣の主任は、むしろ落ち着いている。


「航路通信局さんとしては、何か対応を?」

 そう言われても、オイラーに答えなど無かった。その「航路通信局さん」というのは、要は灯台保守員である彼一人だけなのだ。

 結局、港湾管理局の二人と航路通信局のオイラー、それに基礎教育校分校長と逓信局長の五人で、対応に当たることになった。

 総人口百人余りの港町で、いくらか公的な立場にある人間と言えば、それくらいのものだった。


 彼らが見守る中、巨大飛行艇の接岸は問題なく完了した。

 間もなく、艇長を始めとしたクルーが桟橋に降り立ち、丁重な言葉でオイラーたちに礼を述べる。

 艇長たちの話では、元々この追泊港の桟橋は緊急時に飛行艇が接岸できるように設計されているのだということだった。町の人間は、誰一人としてそんなことは知らなかった。


 飛行艇側の要請に従って、食料と水の提供が行われた。わずかな平地で作られた芋や根菜の類に、今朝水揚げされた小魚、電気銃で仕留めたやまどりを一抱え。そんなぱっとしない食材でも、艇内のコックの手にかかれば、豪華なディナーに化けるのだ。

 やがて、退屈した乗艇客たちは、ふねを降りて町のメインストリートに姿を現した。

 海風から身を守るように小さくうずくまった家々が黒々と並び、古びた街灯の弱々しい光が所々で砂利道をぼんやりと照らし出す、そんな静かな小路を着飾った紳士淑女が歩く情景は、ある意味幻想的とも言えた。


 町でただ一軒の生活百貨店ショッピングデパートは、彼らのために臨時に店を開けた。

 遠くシティから仕入れた服やアクセサリーには全く興味を示さなかった乗客たちだったが、貝や珊瑚を加工して作った首飾りなどの素朴な装飾品は、飛ぶように売れた。

 その様子を見た、こちらも町で唯一の食堂兼酒場も店を開け、山葡萄で作った地産ワインを提供した。

 扉に埋め込まれた小さなステンドグラスの、青や緑を通して見える灯りに吸い寄せられるように、幾人もの乗客たちが店に入って行く。


 かつてなく華やいだ夜の町を、オイラーは美しいと感じた。しかし彼自身は、大勢の人と会話を交わしたりするのは得意ではない。必要な対応を終えた後、頭を少し冷やそうと、再び一人で突堤の先へと戻った。


 ところが、灯台が目の前に近付いてきたところで、その足元にどうやら誰かがいるらしいことに彼は気付いた。

 カンテラのレンズのフォーカスをいくらか絞り、柔らかいスポット光を向けてみると、彼よりもいくらか若く見える女性が、灯台の頂部を見上げていた。


「こんばんは、航路通信局の者です。飛行艇の乗客の方ですか?」

 彼が声を掛けると、女性はうなずいた。

「ここは、危険ですよ。海に転落する恐れもありますから、町へお戻りくださいね」

「ごめんなさい、すぐ戻ります。でも、とっても綺麗ね。海も、この灯台の光も」

 長い髪を、冷たい風にわずかになびかせた彼女は、再び灯台を見上げた。

 再生ファーのギャルソン・コートはいかにも高価そうで、やはり富裕層に属する女性なのだろう。しかし、こんな服装では防寒には不十分だ。


「気に入っていただいて、嬉しいですね。普段は、この風景は私の独り占めなのですよ」

「そうなのね。とっても幸運なのだわ、私」

 わずかな月と星の光を映す暗い海面を、彼女は見つめた。

 腫れぼったいその眼には、先ほどまで泣いていたような気配が感じられたが、オイラーは何も言わなかった。


 彼女を連れて戻ってくると、すでに日付が変わっていたにも関わらず、食堂の辺りにはまだ幾人もの人影があった。

 夜のこの町がこんなに賑わうところなど、もう二度と見ることは無いかも知れないと思いながら、彼は官舎の冷たい寝床に入る。それにしても、彼女はなぜあんな場所で泣いていたのだろう?


 その答えを、オイラーが知ることは無かった。

 夜明け前に、早くも代わりの飛行艇がやってきて、客を収容してすぐに出港して行ったからだ。機関故障のようなハプニングでも無ければ、まず交差することなどなかっただろう、彼と彼女の人生。

 目を覚ました彼は、桟橋の様子を見に行ってみた。しかしそこには、すでに空っぽになった大艇クリッパーが朝陽に照らされて浮かぶばかりだった。

(了)


[次回予告]

白砂と明るいブルーの水面が、北方一の美しさと讃えられる「珊瑚湖」のビーチ。湖畔の町に住む子供たちの夏の楽しみは、紅珊瑚を売って得たお小遣い。しかしその夏は、ちょっといつもとは違っていた。

次回メトロポリタン・ストーリーズ、「珊瑚湖の素敵な夏」

――メトロポリスで、またお逢いしましょう。

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