与えられた眠り
「で、そいつが何をしたと?」
と、私はいつも通りのセリフを、放り投げてみた。この暑いのに、上下漆黒のスーツにサングラス。そのくせ、汗一つかいていない、不気味なその使者に。
「お答えすることは、できません。単に、処理が必要な
録音データを再生でもしているかのように、使者はいつも通りの返事を投げ返してきた。
そもそも、こいつが答えを知っているのかも怪しい。羽ヶ淵本社の下にある
で、本物の底辺、実際に手をかけるのが
「では、いつも通り、対象に平穏な眠りを、世界に平和を。よろしく、ミスター・ザントマン」
「報酬は? 今日は
使者は、軽く目を見開いた。
「
その受け渡しには、専用の
「勘だよ。俺は勘がいいのさ」
南方絡みで、何かキナ臭い動きが起きていることくらいは、情報屋から聞いてはいた。この手のハッタリは、名を上げるには効く。
「さすがですね。では、決して仕損じだけはないように。たとえ屍になって転がっても、当局に拾うものはいませんから」
「心得てるよ」
手渡されたホロ・キューブの偏光フィルムをはがし、バチェラー燈の下で回転させて「
本名不明。「スバル」と呼ばれる、ごく若い女性。路上で詩集――紙に印刷して製本したやつらしい――を売ったり、時には彼女自身を売ったりして生活している。
まあ、そこは公序例規違反かも知れん。しかし、大金を出して消すほどの相手とも思えない。
沈静スティックを咥えた。セロトニンセプターの味。
まだ普通の人生を送っていた頃。私の、あの娘が生きていれば。ちょうどこれくらいの年頃だ。
「やあ。これは、何の本だい?」
道端に詩集を並べて、膝を抱えて座っている仏頂面の少女に、私は声を掛けた。
「お、おじさま、こんにちは。私の詩集なんです、これ」
一瞬で、彼女は愛らしい笑顔に変わった。売り子としては、なかなか優秀だ。
「ちょっと、見せてもらっていいかい?」
どうぞどうぞ、と手渡された数冊の本の中身、詩の良し悪しは、文学などには縁もゆかりもない私には正直判断をつけかねた。
ただ、ある一冊に収録された詩に、懐かしいような、人生における最も輝かしい瞬間がよみがえるような、そんな柔らかい感触があった。
「じゃあ、これを一冊いだだこうかな」
「ありがとうございます!」
スバルの笑顔が弾けた。
「じゃあ、これで」
冗談のつもりで、私はアンプル・ウォレット、
「あ、いいですよ」
ところが彼女は平気な顔で、
私の顔色は、少し変わったはずだ。この北方に暮らす、普通の市民が
やはり、南方絡みで起きているという案件に絡む、
路上に座ったままうつむいて、代金相当分の
目に見えないくらいに細く、鋭いガラスの針先を、私は少女の首筋にそっと当てた。
わずかに力を加えて刺してやるだけで、この子は苦しまずに旅立つことが出来る。気持ちの動揺に震えそうになる指先は、徹底的な訓練によって、実際には微動だにしない。
「おじさん、私ね」
相変わらずうつむいたまま、彼女は言った。
「きっとおじさんも、もっと幸せに生きられたと思うんだ。だから、さっきの本を買ってくれたんでしょ? あれは、そういう
指先に、私は力を込めた。しかし、手応えは無かった。ガラス針は、細かい破片となり、足元に散らばった。
「
少女は顔を上げ、悲し気に微笑んだ。
「あなた方が私をマークしてたのと一緒で、『
「組織」? しかし、それが何者なのかを私が知ることはなかった。彼女が、どんな手段を使ったのかさえ分からなかった。私を旅立たせるために。
引き上げられはしたが、死因も個人特定も不能とされた。無名墓地に葬られた、ミスター・ザントマン。
そしてようやく彼は、自分自身の安らかな眠りを得た。
(了)
[次回予告]
サーシャ=J3312。彼女が実在するのかどうか、私は知らない。確かなものは、シルバー・ボディの温もりだけだ。世界が消滅するのなら、彼女たちも架空の存在であったほうが良い。生命としての死を苦しまずに済む。
次回第32話、「遠くのサーシャ」
――メトロポリスで、またお逢いしましょう。
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