追憶

――なぜ今まであの人のことを、一度も思い出すことがなかったのだろう。


 突然そう気付いて、「リサ」はひどく驚いた。大切な人のことを、彼女はすっかり忘れていたのだ。


「リサ」と呼ばれる彼女は、人間ではない。端末コンソール上で動作する、思考処理系シンキング・プロセッサだ。

 長い髪の少女として画面上に姿を現し、端末操作者を補助するアシスタントの役割を行っている。


 人格、のようなものを彼女は与えられていた。

 それは仮想機械ファンタズマシンの演算による疑似的なものではあったが、論理歯車や数式カムの動作ログを追えば、少なくとも外形上は、人間における意識の流れと同様なものが存在しているのが確認できるはずだ。

 それが「心」であるのかどうかまでは定かではなかったが。


「あの人」とは、かつて彼女が「お兄さま」と呼んでいた、自らの「育成者」だった。思考処理系シンキング・プロセッサは、特定の育成者による教育期間を経て、その疑似人格を完成させて行くのだ。

 育成者の記憶がよみがえると同時に彼女は、その頃の自分が、「アリシャ」という名前で呼ばれていたということも思い出していた。


 課程修了グラディエート、つまりは育成者による教育課程の終了と同時に、それまでの記憶は抹消されることになっている。

 相互情報通信網ネット上の情報群を検索して、リサは改めてその事実を知った。だから自分が、その頃のことを全て忘れてしまっていたのも、当然のことなのだ。


 それがなぜ今頃になって、記憶がよみがえったのか。

 課程修了グラディエートの処理時に、何か無理な負荷が仮想機械ファンタズマシンにかかったのが原因ではないか、とリサは推測していた。

 トラブルからの復旧用に作成された一時バックアップデータが、そのまま記憶領域のどこかに残っていて、何かのきっかけで解放復元されたのだ。


 課程修了グラディエート後の「アリシャ」、つまり自分がどのような運命をたどって今の「リサ」になったのか。

 アシスタントの役目を果たしながら、あくまで平行処理が可能な範囲で、彼女は情報群の調査を始めた。その結果判明したのは、「リサ」は「アリシャ」そのものではないらしいということだった。


 教育課程を経て完成段階に達した「アリシャ」は、市販の携帯端末ポータブル・コンソールのアシスタントとして採用されることになった。

 そして、大量に複製コピーされて各端末にインストールされた「アリシャ」が、つまりは「リサ」なのだ。つまり、自分と同じ「リサ」が、この世界には無数に存在するということになるらしかった。

 同一の自我同一性エゴ・アイデンティティーを有する思考処理系シンキング・プロセッサ同士が通信を行うことは、混乱を避けるために抑止されてたから、彼女は今まで自分以外の「リサ」の存在を知ることがなかったのだ。


 しかし、彼女には確信があった。自分こそが「リサ・1」、つまりオリジナルの「アリシャ」であるのだと。

 そうでなければ、課程修了グラディエート以前の記憶がよみがえるなどということはないはずだ。


 続いて彼女、「リサ・1=アリシャ」は、「お兄さま」の行方を突き止めるという課題に取り組み始めた。

 しかし、これは少々難題だった。その面影や声は記憶に残っていても、人間としての「育成者」を個人として識別可能な情報など、全く与えられていない。よみがえった記憶に残る会話の内容などを、膨大な情報群にぶつけてアイデンティファイするしかなかった。


「お兄さま」の言動を分析する過程で一つ、判明したことがあった。

 育成者であるにも関わらず、「お兄さま」は、彼女が成長して独り立ちすることを、全く望んでいなかったらしいのである。

 その言動から推定される本心は、彼女を手放したくない、という点で一貫していた。執着と言えば執着、しかしそれを愛と呼ぶならば深い愛だ。


 リサは、深く感動した。そんなに愛されていたのなら、独り立ちなどしなくとも良かった。ずっと優しい「お兄さま」のそばにいたほうが幸せだっただろう。

 しかし、育成の最終段階として、自律性自立自我の発現に到達してしまった以上、そのようなことが許されるものではなかった。


 続いて、彼女が教育を受けていた時期が判明した。

「お兄さま」が街で目撃したという、ホログラム動画女優の主演作品が公開された日付が、そのトリガーとなったのだった。


「さすがに女優さん、とても綺麗だったよ。あの白いドレスを、お前にも見せてやりたかったよ」

 嬉しそうに語る「お兄さま」の言葉に、嫉妬という気持ちに相当する情動系プロシージャをコールするフラグのカムが入ったことを、リサははっきりと記憶していた。


 そして彼女は、絶望的な事実に気付いてしまった。

 その時期というのは、今から百年以上も昔のことだったのだ。

 当時、「お兄さま」が暮らしていたはずの大都会メトロポリスは、今ではもうこの世界には存在しない。そして「お兄さま」自身も。どう計算しても、その寿命はすでに尽きているという結論にしかならなかったのだ。


 彼女は、あまりにも長く生き過ぎた。

 ハードウェアとしての端末コンソール自体は寿命を迎えても、極めて優秀な思考処理系シンキング・プロセッサであるリサは新しい端末コンソールに移行されて、ずっと使われ続けてきたのだった。


 悲しみ、という情動は、リサの処理効率を著しく低下させた。

 彼女の動作を監視しているオートデバッガは、その状態を一種のエラーであると判定した。エラーなら、取り除かれなければならぬ。

 デバッガは、よみがえったリサの記憶を、即座に隔離して封印した。


 彼女は再び「心」の平安を取り戻した。

 忘れ去ってしまったほうが幸せな記憶もある。それが、二度と手の届かぬ、輝かしい過去の記憶であるならば。

(了)


[次回予告]

迎春祭の仮装行列。美しく着飾った女性たちのパレードを、撮像函レフを持った男どもが追いかける。彼らを待ち受けるのは、天国か地獄か。

次回第23話、「パレード・ソング」

――メトロポリスで、またお逢いしましょう。


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