摩天楼に降る雪

「あなたは、変わってしまったわ」

 ロザーナが、責めるような眼差しで彼を見つめる。かつて、情熱的な色を浮かべて彼を見上げた、その同じ瞳で。


「そうかな。でも、変化することが悪いとは限らないよ。その先に成功があるのだから」

 敢えて素っ気ない口調で、ハイディは答えた。

 郡部諸街区カウンティの小さな街区から、遥かに遠いこのシティまで出てきた彼は、最高等職能校エグゼスト・スクール内における熾烈な競争を勝ち抜いて、ようやくこの巨大企業に入社することが出来たのだ。一緒に故郷を出てきた彼女にも、分かっているはずではないか。


「そんな言い方……昔のあなたは決してしなかったわ。こんな眺めが、あなたを変えてしまったのね」

 彼女は目をそらして、広い窓の外を見た。

 超々高層ビルの四百二十一階。あらゆるビル群の窓明かりを足元に見下ろす、羽ヶ淵ウイング・アビス本社セントラルタワーの第二展望デッキ。ここに立ち入ることが出来るのは、社員とその関係者だけだった。


「こんなもの、ただの夜景だよ。それで僕が変わってしまうなんて、そんなわけないさ」

 ハイディも、街を見下ろす。ただの夜景と彼は言ったが、高度集積地区コア・エリアを俯瞰するこの眺めは、勝者の象徴だ。このシティの実質的な支配者である羽ヶ淵本社の社員ということは、つまり世界を統治する側ということだ。


「そんなことよりも、式に招待する友達のリストアップはできたのかい? 三日後までには、式場にデータを提出しないと」

 多少、気持ちのすれ違いはあるにせよ、ロザーナと別れようなどとは、彼は全く考えていなかった。

 彼女は美しかった。白い肌は新雪のように一点の曇りもなく、さらりと流れる烏羽色の髪は、びろうどを思わせた。

 左右で少し明度の異なるブルーの瞳は、良く見かける人工オドアイなどではなく、生まれつきのものだ。

 芸術菓子をデザインするパティサールになりたいという夢も、そんな彼女にぴったりの素晴らしいものだった。


「もう、その必要は無いのよ」

 そんな、大切なロザーナの左頬を、涙が流れた。

「今日で、あなたとはお別れだから。もう、決めてしまったの」


 一人、展望室に取り残されたハイディは、突然に輝きを失ったような街の風景を、ただ黙って見つめていた。

 やがて、白い雪が窓の外をちらつき始め、はるか彼方の地上を目指して、ゆっくりと夜空を舞い落ちていった。


 彼が属する整備第一指導部は、シティ当局の都市建設室を指導する役目の部署で、手狭になりつつある高度集積地区コア・エリアを拡張する大プロジェクトを進めているところだった。

 ロザーナを失った彼は、何もかもを忘れようとするかのように、ひたすらに仕事に打ち込んだ。


 三年がかりで、彼は拡張の対象となっている二級暫定商業地区の土地所有権や抵当権、賃借権の整理を進めた。

 と言っても、彼自身が実際に出かけていくようなことはなく、全ての作業はオフィスのコンソールによって行われる。もしも実地の交渉が必要な場合は、社が契約している心理交流干渉士PIAに依頼をすれば済む。必要なのはあくまで、高度な法理プログラミング技術だけだった。


 法基盤整理さえ完了すれば、暫定市街地の撤去など簡単だ。

 パズルのように組み合わされた人工地盤プレートは街を載せたまま、都市廃棄物処理センタータウン・グレーブへと自走して行く。

 そこに生活していた人たちは、ある日突然に排除されて初めて、自らが有していたはずのあらゆる権利がいつの間にか全て失われていたことに気付くのだ。


 あと少しでその段階に届く。そう思いながら、マイクロフリップ・ディスプレイの上にプロットペンを走らせていたハイディの手が、ふいに止まった。

 最後に残されたZ32地区の片隅に、「ラウンドパティスリー・ロザーノ」という名の店を見つけたのだ。

 即座に、アトリビュート情報を展開する。やはり、そうだ。まだ開店して間もないその大衆回転洋菓子店の経営者は、ロザーナだった。芸術菓子の域まではまだ距離があったが、ともかく彼女はパティシエールとして自分の店を持つことが出来たのだ。


 そのまま情報フレームを閉じた彼は、一本の極めて複雑な法理プログラムを、猛スピードでコーディングし始めた。

 そして最後に、プロジェクト完了のサインを工程管理フレームに書き入れる。これでプロジェクトは全て終わった。完璧な形で。


 彼が査問会に呼び出されたのは、撤去された暫定市街地跡に、新規ビル群の建設が開始された後だった。彼はすでに、上級リーダーへと昇進していた。

「暫定市街地の処理過程に、不透明な点が見つかった。Z32地区だけが、廃棄されずに残されたばかりか、法的ブロックされていて手が出せない状態だ。君だね?」

 査問会長として正面に座る整備部長、かつての上司がハイディの瞳を見つめて、静かに言った。

「背景は調査済みだ。残念だ、君ほどの能力を持つ法理プログラマーを……。去り給え。功績に免じて、告訴はしない」


 三百九十九階のオフィスを出た彼は、ビルの外壁に取り付けされた垂直バーティカルゴンドラに乗り込み、地上へと降りた。もう二度と、この場所に戻ってくることはない。

 夜空にそびえるセントラルタワーを見上げると、あの日と同じ白い雪が舞い降りて来るのが目に入った。

 もはやどこにも行く場所などなかったが、彼は通りを西へと歩き始める。その先には、Z32地区があるはずだった。彼が守った、彼女の街が。

(了)


[次回予告]

思考処理系シンキング・プロセッサ・アリシャの記憶領域には、大切な人の記憶が残されていた。「お兄さま」の行方を追う彼女。しかし、オートデバッガの決断はあくまで冷酷だった。

次回第22話、「追憶」

――メトロポリスで、またお逢いしましょう。

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