はじめての配達
「
思わずメイベルは、店長であるパティシエールのお姉さんに訊き返していた。
さっき電話で注文のあったケーキの配達先が、
「わたし、行ったことありません……」
怖くて、と言いかけて、恥ずかしくなって彼女は黙った。
一応は
「大丈夫よ。Sバーン《高架軌道》の駅を降りて、通りをまっすぐ進んだところにある、とっても目立つビルだから、迷うことはないわ。ちゃんと、地図も作ってあげる」
烏羽色の長い髪が美しい店長は、にこやかにそう言った。
元々は
Sバーン《高架軌道》も、乗ったことないんですと、メイベルは内心半泣きになった。
でも、ようやく勤めることができた、憧れのこの洋菓子店を、こんなことでクビになりたくはなかった。ここは頑張るしかない。
ケーキが入った
念のため、と四枚もくれた切符の一枚を見せて改札を通り、ちょうどホームに入って来た、濃緑とクリーム色に塗られた電動客車に乗り込んだ。
シートには空きがあったが、緊張した彼女はドアのそばの持ち手につかまったまま、じっと立っていた。
ゴトゴトと大きな音を立てながら、電客はどんどん都会の真ん中へと進んで行った。そして四駅目、第三ブロックの駅で、彼女はちゃんと降りることが出来た。
恐る恐る改札を出ると、そこはまさに一大繁華街の真ん中だった。大通りが交差する、十字路の一角に立ったメイベルは、交差点の四つの角にそびえ立つ高層ビルを見上げて、目を見張った。
各々の壁面一杯に、無数の
星や月、犬や猫などのかわいい動物、そして商品名やそのトレードマーク。
自分が人混みの真っただ中にいるのだということも忘れて、彼女はしばらくその魔法のような眺めに見とれていた。これが、大都会なんだ。
イルミネーションの一つが時計に変わり、その針の動きを見たメイベルははっと我に返った。約束の配達時間までに、ケーキを届けなければならないのだ。
彼女は再び、人混みを掻き分けるように歩き出した。
右手の保存函に通行人が思い切りぶつかって来たりもしたが、熱振動抑止による
ちゃんと遅刻せずに、彼女はエントランス・ホールまでたどり着くことが出来た。
一気に二百階以上も上昇してエレベーターを降りると、正面に大きな窓があって、
こんなところに住むことができるなんて、どんな人なのだろう、と緊張しながら彼女は呼び鈴を押した。
姿を見せたのは優し気な表情の、そして思っていたより若い男性だった。店長とほぼ同じ年代だろう。
「パティスリー・ロザーノです。お待たせしました」
「これはおいしそうだ。では、これを」
微笑んだお客様から手渡されたコインは、ケーキ代の倍もあった。チップをくれたのだ。
「あ、あの……。ありがとうございます」
戸惑いつつも、メイベルはコインを受け取った。このチップは、店長に一旦渡したほうがいいだろう。
無事に配達を終えて、彼女はほっとしながら、再び大通りを歩いた。きらめきに満ちた街。なんだ、都会なんて全然怖くない。
ショーウインドウの向こうに並ぶ色とりどりの服やかばんを見ていると、メイベルは、心が浮き立つのを感じた。使ってはいけないけれど、ポケットにはコインもある。
「こんばんは、お嬢さん」
突然背後から、彼女は声をかけられた。振り向くと、彫りの深い顔をした美青年が微笑んでいた。淡いパープルに見える瞳が、神秘的な印象を与える。
「とても素敵な、かわいいお洋服ですね。少し、僕とお話しでもしませんか」
彼女の服装は、大きなフリルのついた白いブラウスに、水色のジャンパースカート。店の制服なのだが、確かにかわいい。これも憧れの一つなのだった。
少しなら、と言いかけた瞬間、彼女は誰かに右腕を強くつかまれた。びっくりして、その人を見ると、何と怖い顔をした店長だった。
「彼女は今、お仕事中です。お引き取りを」
店長が強い口調で、青年に告げる。男はたちまち別人のような険しい表情になり、
「くそ、邪魔しやがって」
と吐き捨てるように言って、去っていった。
「あの、もしかして店長、ずっとあたしのことを……」
恐る恐る訊ねると、店長はにっこりと優しく微笑んでくれた。
「配達お疲れ様。都心は怖いところではないけど、あのような危険な人もいる、ということだけは忘れないようにね」
はい! と元気に返事をして、メイベルは店長と一緒に歩き始めた。帰りは二人、もう安心だ。
でも次は、ちゃんと本当の一人で配達に来られるように、しっかり頑張ろう。よそよそしい巨大なビル群を見上げながら、彼女は心に誓うのだった。
(了)
[次回予告]
メアリが幼い頃に、家を出て行った兄。行方を探し続けた父母も、今は世を去った。その兄が死んだという報せが、遠い南方深部地方からもたらされる。兄が目指したものを、彼女は今になって知る。
次回第35話、「兄のクリスタル」
――メトロポリスで、またお逢いしましょう。
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