渦の下の二人
風境区のほとんど南端、「極渦」のすれすれ外側に当たる場所に彼が家を建てることになったのは、土地の値段がタダ同然だったという理由からだった。住もうとする人が、ほとんどいないのだ。
仕事を失って
南側の窓の外に目を遣ると、彼が日々耕す畑の彼方に見える空は恐ろしいくらいに真っ暗で、その真下で吹き荒れている嵐の様子が容易に想像できる。
極地方に近い南方深部エリアは、年間を通じてほとんど常に「極渦」と呼ばれる暴風雨の下にあった。
嵐の外側であるこの辺りでなら、普段はどうにかまともな生活を送ることが可能だ。しかし問題は、「極渦」のサイズが常に一定なわけではないということだった。その直径は時期によって、大きくなったり小さくなったりと変化を見せる。
そして、暴風雨の範囲が最も広がった時、ここもまた「極渦」の下に飲み込まれることになるのだった。誰も住もうとしないというのは、そういう訳だ。
「極渦」が膨張する気配があれば、気象局からすぐに臨時の警報が発せられることになっている。だから一日中常に、モールス放送受信機の電源を入れておく必要があった。嵐が原因の空電によるノイズのひどいこの辺りでは、音声ラジオ放送は役に立たない。
その日は朝からレベル1の軽度な注意情報が発令されていた。彼は念のため畑の作物の上に防嵐紗を直掛けして、嵐に備えることにした。
作業を終えて空を見上げると、雲の壁がこちら側へと向かって明らかに膨張し始めているのが目に入る。弱い雨も降り出した。早足で家へと戻ると、モールス放送受信機が発する信号音が、部屋の中から聞こえてきた。警戒段階がレベル3に格上げになったらしい。
見栄えは悪いが頑丈なログハウスの窓から、彼は嵐が周囲を飲み込んで行く様子を眺めていた。
視界は横殴りの雨に塗り潰されていたが、今のこの勢いなら作物は無事だろう。その時、視界の隅で何か茶色いものが動いた。動物? 彼は窓ガラスに近付いて目を凝らす。
仔犬だ。畑の中で小さな北方犬が、嵐にうろたえて右往左往している。何でまた、こんなところに。
舌打ちしながら、彼は
その姿を見つけたらしい仔犬が一直線に彼のほうへ向かって走り出し、畑の上で屈みこんだ彼の胸元に、勢いよく飛び込んできた。
「ドッグ・ジョイ」と名付けられたその仔犬は、彼にとって貴重な相棒となった。
毎日、一緒に畑に出て、辺りを気ままに走り回ったり、鳥を追いかけたりする仔犬の姿に、彼は心安らぐものを感じた。
そんなある日。玄関口で盛んに吠えているジョイの姿を見て、急ぎ足で家に戻った彼は、部屋の中で不吉なモールス音が鳴り響いているのを耳にした。
レベル6? 最高段階の警戒情報だ。しかし空を見上げても、雲には特におかしな様子もない。何かの間違いではないか、と思いつつ、彼は急いで畑を竹の支柱と防嵐紗で防護して回る。
そして顔を上げ、再び極渦の様子を確認した彼は、そこに異変の兆候を見て取った。
頭上を覆う雲の底が、いつもよりもずっと低いところまで降下してきている。手を伸ばせば届いてしまいそうなくらいだ。このままだと、雲は地上まで降りてくるだろう。
彼は傍らのジョイを抱きかかえて走り、家に飛び込んだ。
窓の向こうはたちまちのうちに白い霧のようなものに覆われて、何も見えなくなった。そして、夜の訪れのような暗闇と共に、激しい嵐が始まった。
分厚い二重の窓に、雨の塊がひっきりなしに叩きつけられ、轟音が部屋の中を満たす。足元にうずくまって不安げに鼻を鳴らすジョイの背中を撫でながら、これはさすがに作物は駄目だろうなと、彼はため息をついた。
モールス放送によれば、これは極渦の親雲の中で発生した局地的な二次気流渦による暴風雨で、激烈ではあるが長くは続かないということだった。
亜種コーヒーのお代わりを入れようと彼が椅子から立ち上がった時だった。
屋根のほうから突然、不気味な振動音が響き始めた。同時にジョイが起き上がり、彼に向って一声「ワン!」と鳴くと、玄関へ向かって駆け出した。分厚い杉板のドアを、必死で開こうとしている。
その様子を見て、彼は気付いた。この家は、多分もたない。倒壊したら、二人ともおしまいだ。
一か八か。大急ぎで防嵐服を着こんだ彼は、ジョイをしっかりと胸に抱きかかえて、外へと飛び出した。
途端に彼は、すさまじい風圧に体をさらわれた。1マイクロファーレンも向こうの地面に叩きつけられて、抱いていたジョイを手放してしまう。悲鳴のような仔犬の鳴き声が遠くで聞こえた。
「ジョイ! どこだ!」
泥の上に伏せたままの彼が再び叫んだその瞬間、背後でメリメリという音が響いた。無理やり首をひねって振り返った彼が見たのは、そこに建っていたはずの家が、ばらばらの木材へと分解していく様子だった。
放送の通り、間もなく嵐は去った。枯れかけた声で彼は必死でジョイの名を呼び、辺りを這いずり回るようにしてその姿を探した。足を痛めていたが、それどころではなかった。
仔犬の姿は、畝の間にできた水溜りの底で見つかった。冷たくなったその体を抱いて、ジョイと同じく泥まみれの彼は泣いた。泣き続けた。もしもあの時、ジョイが危機を伝えてくれなかったら。
知らずのうちに、胸の中で繰り返しきつく抱きしめていた仔犬の体が、いつの間にか温もりと鼓動とを取り戻していることに、彼はまだ気付いていない。この辺りでは極めて珍しい、雲の間から射した薄日が、二人の姿を柔らかく照らし出していた。
(了)
[次回予告]
憧れ続けた大都会に就職先を見つけることができたヤゴウ。喜んでやって来た彼は、大工業地帯の機械の森を目にして、強く惹かれていく。それは、都市を支える富の源泉へと飲み込まれて行くことを意味していた。
次回メトロポリタン・ストーリーズ、「機械の森の住人」
――メトロポリスで、またお逢いしましょう。
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