メトロポリス脱出

「分かってるよ、そんなこと」

 エミリーは、思わず母親に言い返した。まだ十代前半の彼女にだって分かっている。高度集積地区コア・エリアに移り住むことができたというのが、どんなに恵まれたことなのか。世界の中心であるシティの、さらに中心に当たる特別な場所なのだから。

 しかし、巨大なビルディングばかりに覆いつくされたこの町を、彼女はどうしても好きになれなかった。空だって、通りの両側に立ち並ぶビルの壁と壁の間に、青いリボンのように僅かに見えるだけなのだ。


「分かってるなら、口答えはおやめなさい。高架軌道Sバーンが混むくらい、なんです。さっさと支度して、学校に行きなさい」

 有無を言わせない口調で、母親はエミリーに命じた。学校。高架軌道Sバーンで二駅先、四十三ブロックの一画にそびえ立つ超高層ビルの百十四階にある、狭苦しい空間。


 高架上を突っ走る、ブリキ缶のようにちゃちで小さな電動客車は、通勤通学客で満員だった。

 彼女はもみくちゃにされながら、人の手で擦れて黒光りする木製の吊り輪に必死でぶら下がる。車窓から見えるのは、ひたすら人工物ばかりだった。

 鉄、コンクリート、石材、それにガラス。ビル群の狭間を走る無数の通りを、たくさんの人が行き来している。


 やがて四十三ブロックの駅が近付いてきたが、なぜだか電動客車はそのままの全力で走り続けた。おかしい、これじゃ停まれないと彼女が思っているうちに、ついに車両は猛スピードで駅を通過してしまった。

 車内にざわめきが走る中、赤錆びた金網で覆われた天井のスピーカーから、運転士のアナウンスが聞こえた。

「にゃんこが……私の大事な家族でありますミーコが、昨晩から重い病気なのです。ミーコには私しかおりません。出勤なぞ、すべきではなかった。馘首くびは承知です。このまま、私の家がある終点、渡守区の駅までノンストップで帰ります」


 やった、これで学校に行かなくても済む、と思いながら、エミリーは周りの人たちの顔を見た。みんな会社や学校で急いでいるはずなのだ。

 ところが「にゃんこが病気とは、そりゃ大変だ」「早く行ってやれ」と、意外にもみんな運転士さんの味方のようだ。

 目の前のシートに座る銀髪の紳士だけが、苦飴を噛み砕いたような顔をしていた。高そうなギャルソン・コートを着ているから、きっと偉い人なのだろう。


 乗客たちの声援を受けながら、運転士は骨董品級の電動客車を、全速前進で走らせた。

 しかし、三つ目の駅を通過した瞬間、突然車内の灯りが消え、がくんと速度が落ちた。エミリーは慌てて、必死で吊り輪にぶら下がる。転びかけた乗客も、何人もいた。

「くそ、鉄軌機構の連中、送電を切りやがったんだ。何て姑息なことしやがる」

 もうすっかり運転士さんの味方になっている乗客たちが、みなそう言って怒り始める。


「そうは、させん」

 エミリーの前に座るあの銀髪の紳士が、大声を上げてシートから立ち上がり、乗客たちをかき分けて運転席へと近付いて行った。

「おい、君、運転手くん。その無電をすぐ、本部司令室へ繋ぎ給え。わしが話す」

 その勢いに押されて、運転士は通話カフを上げて、マイクを紳士に手渡した。

「あー、わしだ。ド・マクマランだ。室長に代わり給え。……ああ、わしだ。緊急事態だ。GC幹線の配電を、すぐに再開せよ。それから、先行の電客を全て退避させ給え。そうだ、総裁訓令乙種二号だ。署名は後でする」


 銀髪の紳士がマイクに向かって早口でしゃべった途端、天井の灯りが点り、床下のモートルが回り始める音がした。

 車内に、歓声が上がる。電動客車は先ほどよりもさらに勢いを増して、高架軌道上を突っ走り始めた。

「あんた、機構に何て言ってやったんだい」

 と口々に同じようなことを訊ねる周囲の乗客たちに、紳士はまた渋い顔をする。

「そんなことはどうでもよい。……君、運転手くん、二度と病気の小動物を放り出して出勤なぞしてはならんぞ。後日、その旨の本部通知が正式に発令される。肝に銘じ給え」

「は、はい! ありがとうございます」

 運転手さんは、嬉しそうな声で返事した。


 窓の向こうに木々の緑が姿を見せ始めた。高度集積地区コア・エリアのビル群は彼方に去り、そこは田園都市街区ガーデン・シティと呼ばれる区域だった。

 かつて、エミリーの一家はここに住んでいた。あの赤い三角屋根、あんなお家で彼女は育ったのである。

 いつもよりも、ちょっと長く高架軌道Sバーンに乗るだけで、ここへ帰ってくることができるというのは驚きだった。


 間もなく電動客車は大きな河を渡り始め、その長い長い鉄橋の上から見えるのは、周囲どちらを向いても広大な水面ばかりだった。河の上に広がる空の、なんて青いこと! これが本当の空だと、彼女は嬉しくなった。

 鉄橋を渡り終え、渡守区のごみごみとした下町を走り抜けると、そこが終着駅だった。


 低いホームに電動客車を停車させた運転手さんは、乗客たちの声援を受けながら駅から駆け出して行く。その後ろからホームに降り立った乗客たちの中には、あの銀髪の紳士もいた。

 相変わらず不機嫌そうだったけど、その表情にちょっとだけ満足げな様子が混ざっているようにエミリーには感じられた。


 帰りの車内は、さっきよりも随分空いていた。もう一度あの青空を眺めながら、エミリーは大都会メトロポリスへと戻る。

 だけど、今の彼女は知っていた。ちょっと学校をさぼって、またこの路線に乗りさえすれば、いつだってこの空を見に来ることが出来るのだと。

 自分の行き先は、自分で決めるのだ。あの運転手さんのように。


[次回予告]

極地方で年中吹き荒れる、「極渦」と呼ばれる暴風雨。そんな過酷な状況にも、人々は耐えて暮らし続けていた。彼と、子犬の「ジョイ」も。

次回メトロポリタン・ストーリーズ、「渦の下の二人」

――メトロポリスで、またお逢いしましょう。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る