贋金つかい
黒いトランクを右手に下げて、君は今夜も行きつけのカフェーに立ち寄る。
店の入り口で光る黄色のネオン文字が、石畳の通りの彼方に見えてくると、長かった一日の仕事がようやく終わったことに、君は安堵するのだった。
カフェ・モカのカップを片手に、大きな窓に面したカウンター席に座ると、すぐ目の前に静まり返った街角が見える。町なかの交差点に面した店だったが、日付の変わろうとしているこの時間、客は少なかった。
通りを行く人もごくまばらで、少なくとも今見えている範囲には、誰もいないようだった。辺りを照らしているのも、飛びぬけて明るいこの店の灯りを除けば、わずかな街灯の光のみだ。
入り口の扉が開いて、冷たい空気と共に、灰色のコートをまとった男が店に入ってきた。左手には、銀色に光るトランクを提げている。
「これで、お願いできますか?」
注文カウンターの前に立った長髪の男は、そう言ってコートの胸ポケットから、銀色の小箱を取り出した。
「ええ、もちろんですとも」
と、店員は愛想よく応じる。君がこの店を行きつけにしているのも、
南方ではメジャーなこの支払い手段も、
「なかなか、いい店だな。ちゃんと
カップを手に君の隣に座った男は、独り言だとも、君に話しかけているのだとも取れる、微妙な大きさの声でつぶやいた。整った顔に、ブルーのサングラスが似合っている。
「南方出身者には、ありがたい店ですよ。あなたも?」
男の言葉につられたように、君は口を開く。
「いや、私は南方の人間ではないのです。ただ、アンプル・ウォレットというやつはなかなか便利でしてね。
珍しいな、と君は思った。南方出身者以外で、
しかし、確かに男の言う通り、親指くらいの大きさしかないアンプル・ウォレットに充填された青く光る液体の価値は、金属コイン数十枚分に相当した。
「もっとも、この
足元に置いた銀色のトランクに目を遣りながら、男はぼやいた。
「今日だって、わざわざこうして金属コインを銀行に持参したのに、今は液体通貨の在庫が無いとかで断られましたよ」
その言葉に、君の目が光る。終わったかと思った一日は、まだ終わっていなかったらしい。
「実は……私はこういう者でして」
君は
「拝見します。『深部決済銀行、マネーサービングスタッフ』。確か、
「本来は地元から、北方へと進出して頑張っておられる方に向けたサービスなのですが」
そう言いながら、君は足元の黒いトランクを持ち上げ、カウンターの上に置いた。
「実はこのトランクは、我々決済銀行関係者専用の可搬式アンプル庫なのです。もし、およろしければ、格安の手数料で
男は喜んで、トランクから金属コインを取り出した。
通りから見れば、カフェーの大きく明るい窓の向こうで、黒と銀のトランクを前にした男が、大金のやりとりをしているところが一目瞭然だ。しかし、通行人はいない。
「ほう、なるほど」
男は受け取ったばかりのアンプル・ウォレットを天井の灯りにかざして、青く光る液体を確認する。
その奇妙な無表情に、君は何か嫌なものを感じた。おかしな色気を出して、こんな場所で商売などすべきではなかったのではないか、急にそう思えてきたのだ。
「この
血の気が引くのを、君ははっきりと自覚する。悪い予感が的中した。
向かいのビルの、真っ暗だった窓に突然灯りが点り、ドアが開いた。
中から、カーキ色の警備服を着た保安警察が何人も飛び出してくる。そして警官たちは、そのままカフェーの中へとなだれ込み、たちまちのうちに君を取り囲んだ。その一人が、罪状を告げる。
「認証外通貨使用、及び詐欺の現行犯で、
金属コインでも液体通貨でも、貨幣として使うことが認められているのは、金融監督局による
「悪く思わないでください。贋金で荒稼ぎをする者がいると、
連行される君に、男はウインクをして見せる。つまり最初から、こいつは
両腕を警官に掴まれて、人のまばらな通りを歩きながら、君は明るいカフェーを振り返る。
贋金つかいの君だが、この店では一度たりとも贋金で支払ったことなど無かった。お気に入りのカフェー。しかし、もう二度とここへ来ることはないだろう。
(了)
[次回予告]
長距離輸送の途中、他島湾の上空で、彼の飛行艇はエンジン不調を起こした。修理に立ち寄ったのは、水上に作られた街。そこで彼は、思いがけない長い休暇を過ごすことになる。
次回第37話、「ファンタスティック・ヴォヤージ」
――メトロポリスで、またお逢いしましょう
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