第2話 大和蚊帳




1566年(永禄9年) 夏 伊賀国阿拝郡山中



 甚左衛門は日差しの暑さに汗をぬぐうと竹筒の水を喉を鳴らして飲んだ

 木陰に入ると風が心地よかった


 道の周りには人影一つない

 蝉の声だけが山々に響いていた



 十九歳になった甚左衛門は、伝次郎から暇をもらい、独立した商人として行商を始めていた

 周辺各国を回ったが、今は扱う荷を求めて大和を目指していた

 独占されていない商品を探すためだ


 伊勢の塩は保内商人達に独占されているし、伝次郎たちと対立するのも得策ではなかった

 美濃の紙は枝村商人と対立することになる

 甚左衛門は近郷で独占商人がいない大和の物産を扱うことを狙っていた



 大和へ行くには東海道から京に入って竹田街道を下る道と、甲賀・伊賀を抜ける道があった

 今、甚左衛門は甲賀を超えて伊賀の山を大和に向かって歩いていた


 持っている荷は麻の古着だった

 新品の服は呉服座を運営する以上開放はできない

 が、古着ならば多少は融通しようと伝次郎が申し出てくれた




 今日中に山を下りたいな

 山で野宿となればなにかと難儀だ


 甚左衛門は腰を上げて山道を再び歩き始めた



 突然五人の男たちに囲まれた

 木の上から飛び降りたのか?今の今まで周囲から人の気配などなかったが…


 男たちは皆柿色の装束に身を包み、顔も柿色の頭巾をかぶって眼だけを出し、背中には太刀にしては短い独特の直刀を腰ではなく背に負っていた



(野盗か!?)

 甚左衛門は思わず身を固くした

 物言わぬ男たちからは大声で怒鳴られるよりもよほどの迫力があった



「い…命ばかりはお助けを…」

 震える声で甚左衛門が懇願すると、正面に立つ男が頭巾を外した


 特徴のない顔だと思った

 どこかで見たこともあるような気もするし、初対面である気もする



「物盗りではない。我らは伊賀の国衆の配下の者だ。見たところ行商の者のようだが?」

「は、はいっ。近江蒲生郡の行商で西川甚左衛門と申します」

 声が上ずってしまった


「ふむ。ここへは何用で参ったのだ?」

「物産を求めて大和を目指しておりました。京は騒がしい故に山道ではあってもこちらの方が危険が少ないかと思いまして」

「左様か」

 男が幾分警戒を解いた目をした



 甚左衛門は内心ほっとした。少なくとも殺されることはなさそうだ

「近江蒲生郡の者と言ったな。行商であれば各国へ荷を持って歩きまわるのか?」

「はい。伊勢や美濃、京まで近隣の国は回ります」

「そうか…一つ我らの役に立つ気はないかな?」

「役に立つ…ですか?」


「左様。今後我らの郷へ来て荷を商ってもらいたい。その時にお手前が見聞きした各国のことを我らへ教えて欲しいのだ。無論、大和への道の安全は我らが保障しよう」

 有難い話だと思った

 近江の物産をここで商うことができるうえ、道中の安全も確保できる




 男は平太と名乗った

 甚左衛門は平太に連れられて伊賀の郷へ行き、平太の家を商人宿として古着を商った

「美濃は今どうなっているのかな?」

「ご当主が一時城を追われたと聞きます。詳しくはわかりませんが」

「越前や伊勢は?」

「伊勢の桑名は相変わらずの賑わいでした。越前は私は行く機会に恵まれず…」


「…ふむ。越前には左馬頭様が逗留されているはずだが、左馬頭様のご様子はわかるか?」

「いえ、遠く噂に近江から越前へ向かわれたとは聞きますが、それ以上のことは…」

「左様か…」

 平太が少し落胆した顔をした



 物知らずで悪かったな。そんなに露骨に肩を落とされてもな…

「私は商人故にお武家様のことはあまり意識しておりませんで…お役に立てず申し訳ない」

「ま、お気になされることはない。荷を持って訪れてくれるだけでもこちらにも役立つ故な」

 そういって慰めてくれた



 宗六なら、こんな時に色々相手が満足してくれる話をできたかもしれん…

 武士の情報、各国の情勢か…

 今までそんなものはどうでも良いと思っていたが、その情報を持っていることが商いにつながることもあるのか…


 今後は各国で積極的にうわさ話に耳を傾けるか




 一晩過ごしたあと、平太は大和へ続く道を教えてくれた

「気をつけてな。大和は国人衆と興福寺のいさかいが絶えない。そのうえ、近年では松永弾正が介入してきていると聞く。巻き込まれて命を落とさぬことだ」

「ありがとうございます」

 礼を言って甚左衛門は平太の家を後にした


 今後は平太の家に立ち寄って近所の人たちに物産を商っていこう




 大和に入るとすぐに物々しい雰囲気が漂ってきた

 大和郡山には甲冑を着た武者たちが歩いている

 戦の最中かと思って身を固くしたが、どうもそうではないらしい


 職人町に行くと数軒の職人が麻を織っていた

「ごめんください。近江蒲生郡の商人で西川甚左衛門と申します」

 織っていた職人が怪訝そうな顔をしてこちらを振り返った


 頭に白い物が混じっている

 細長い馬面と長くて白い眉毛が特徴的だった



「大和国の物産を求めて回っております。こちらはどのような物を作られているのですか?」

「行商人さんか。ここらは大和蚊帳織りの産地でね。今織ってるのも蚊帳織りだよ」

「蚊帳織り?それは普通の呉服とは違うので?」

「ああ、寝る時に虫よけとしてこの織物を部屋にかけるのじゃよ。虫が入らず、快適に眠れるので、京ではお公家様方やお大名様に気に入っていただいているそうな」

「ほう…」


 お公家様やお大名様が…そんなに良いものなのだろうか…

「よかったら泊まっていくかね?その方がよくわかろう」

「よろしいのですか?」

「なに、かまわんよ。近江でも扱ってもらえれば我らもありがたいというものだ」

 老人は長兵衛と名乗った

 色々と話しを聞いた。特に、蚊帳織りの特徴と大和国の情勢について…



 大和は今松永久秀と筒井順慶が年来争っているそうだ

 実際、この年の六月ごろまで筒井城は戦の最中だった


 国中が物々しいのはそのせいか…まだ休戦から二か月と経っていない。また、長兵衛の話では今は収まったが、またいずれすぐに戦になるだろうとのことだった

 甚左衛門はため息をついた



 戦が長引くとなれば、大和での行商は危険かもしれない

 しかし、この蚊帳織りは珍しいものだし、近江で独占している者もいない

 扱う荷としてはうってつけだ


 実際、蚊帳は眠る時に快適だった

 虫やり火を炊かなくていいから、煙たくもないし良く眠れた



 ただ、高い

 長兵衛の話では一反買うのに一石と言われた

 京や堺に行けば二~三石で売れるらしい

 贅沢品といえた


 この当時の物価で一石は現在の十万円に相当する

 二~三石ならば二十~三十万円ほどだ

 とても庶民が気楽に買うことはできない。しかし、良い物産ならいずれ取引量は増え、甚左衛門は大きな利を得られるはずだ



 悩んだ末に甚左衛門は三反を長兵衛から買った

 鐚銭の使用を強制されている大和では取引は米が喜ばれるらしいが、甚左衛門は銭しか持ち合わせがない

 そこで伊賀の平太に頼んで米と銭を交換してもらった


 甚左衛門は戦が起こる前にと早々に近江への帰路についた




 1567年(永禄10年)春 近江国蒲生郡野々川郷




「蚊帳とは良い物を見つけましたね」

 伝次郎が笑顔で甚左衛門と話していた


「ええ、なかなかに高価な品ですのでまだお武家様やお坊様ぐらいにしか買っていただくのが難しいのが難点ですが…」

「産量が増えれば値も下がり、市でも売れるようになるでしょう」

「そうなのですが、大和はまた松永様と筒井様が戦をされておりまして…長兵衛さんの話では蚊帳作りをやめて逃げ出す職人も後を絶たないとか…」


「そうですか…早く戦が収まれば良いですが…我ら商人は平和であってこそですからね」

 伝次郎の顔が少し曇った



「保内も近頃では武士の真似をして武装する衆もいるらしいですね」

「ええ、実に嘆かわしいことです。自治を守るためにはやむを得ないことですが、武士の真似事などしても実際に戦になれば武士に勝てるはずはありませんからね」




 中世以降、商人たちの座は同時に強固な自治組織でもあった

 彼らは独自に商売掟や生活の掟を定め、神社や寺を会所として自治の話し合いを持った

 その最たるものが堺の会合衆であった



 座という一種の商業組合は、元々は商業のための組織ではない

 自治を行うため、話し合いの場所として神社が使われることが多く、会所のことを座と呼んだ


 座では惣(村)の席次によって座る場所が固定された

 そしていつしか自治の話し合いそのものが座と呼ばれるようになり、それは商業の発達によって商売の話し合いをする座へと変容していったのであろう


 そして、中世になって浄土宗・浄土真宗が民衆のための宗教として広まると、神社に代わって寺が会所の役目を果たすことになり、次第に寺そのものが惣の生活に深く関わるようになる




 石寺新市は相変わらずの盛況であった

 ここには諸国から木椀、鉄鍋といった日用品から鍬・鋤などの農機具さらには櫛、簪などの装飾品さらには刀や防具といた武具までが集まるし、近郷の農民たちも服、野菜や湖の魚などを持って集まっている



「いい包丁だね」

 甚左衛門は露店の主に声をかけた

「いらっしゃい!見事な出来でしょう!美濃は関の刀鍛冶直伝の包丁だから切れ味が違うよ!」

「美濃から来たのか?美濃は今尾張との戦で大変だろう」

「ああ。加治田城は織田方に付いたし堂洞城も関城も奪われた。井ノ口に居たらいつ戦に巻き込まれるかわからねぇってんで、みんな近江や尾張に出て行ってるよ」


 露店の主の顔から笑顔が抜けていく

 話はしているものの、どうやら冷やかしだとバレたようだ

「尾張の市は活況なのかい?」

「ああ、なんつっても津島の衆が船を使って大きな商いをしているからね。利があれば商人が集まる。商人が集まれば市は賑わうよ。

 っと、いらっしゃい!」

 主が百姓の女房らしき女性に声をかけたことで甚左衛門も話を打ち切って歩き出した



 尾張の織田様か…領地に人が集まるということはこれから勢威が上がってくるのかもしれん

 来月には伊賀の平太の家、大和の長兵衛の家を回って商いをしよう

 となると明日にでも日野の宗六の所に顔を出すか

 日野の椀は平太にも長兵衛にも好評だったな…



 今や甚左衛門は武家の動向に注意を払いながら、物産と情報の商いをしていた

 宗六は六角家の動向に詳しい

 平太に話せることが聞けるかもしれない




 1567年(永禄10年)春 近江国蒲生郡日野郷




「よお!甚左!」

 宗六が笑顔で迎えてくれた

 宗六は今木地師の家で椀の出来栄えを見ているところだった


 伝次郎さんから日野椀の買い付けを頼まれているらしい

 立派な見習い商人として今や伝次郎さんの片腕となっていた



「久方ぶりだな。少し背が伸びたか?」

「自分ではわからんな。それより、見てくれよ。最近は漆塗りの椀や杯の評判がいいんだ」


「ほう…ううむ。良い品だ」

「だろう」


「お前の扱う蚊帳もな、蒲生様が贈り物にと所望してくれたぞ」

「ありがたいことだ。宗六が売り込んでくれたおかげだな」

 宗六がへへっとはにかむ



 宗六は目が大きく顎がとがっていて、鼻筋も通っている

 鷲鼻で下膨れの甚左衛門とは対照的だ


 さぞかし女子に人気があるんだろうな

 そう思うと甚左衛門は少し口惜しかった



 足子として商いをするうち、宗六は日野の椀が各地で高い評価を受けていることを知って木地師や塗師の仕事をちょくちょく見にきていた

 木地師たちも、武士でありながらちょくちょく顔を見せてくれる宗六に好意を持っているらしい


「ところで宗六。最近六角様はどうなのだ?美濃の一色様の旗色が悪そうだが…」

「あまり良くはないらしい。伊勢への影響力も失って、八風街道や千草街道にも他郷の商人が出入りしているようだ

 なにせ、家中が荒れているからなぁ…」

 そのことは伝次郎からも聞いていた



 六角家と親密な関係を維持している保内商人にとって、六角家の勢威が落ちることは権益の維持に支障がでる

「右衛門督様は六角氏式目に同意されたそうだが…それでもご重臣方の中にさえ先行きを危ぶむ声が多い」

「蒲生様はどうなのだ?」

「蒲生様も同様だ」

 どうやら情勢は思ったよりも緊迫しているようだ


 伊賀の平太に知らせてやろう…



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