第35話 家業から企業へ

 


 1667年(寛文7年) 春  近江国蒲生郡八幡町 山形屋




「旦那様…いえ、ご隠居様。一つご相談があります」


 この春に二代甚五郎は養子・利助に正式に家督を譲り、利助は山形屋三代目西川利助となっていた

 甚五郎は既に八十六歳

 利助は四十六歳だった



「相談?一体何事かな?三代目殿」

 からかうような甚五郎の口調に利助は苦笑した


「からかわんでください。実は江戸店の営業の事です」

「江戸店の…? どういうことだ?」


「今までは江戸日本橋店から荷の注文を請ける際に仕入れ金を都度受取り両替を行っておりました

 また本店で受け取る資金は仕入れ品の口銭のみで、江戸店がどれだけ蓄財できているのかも確認に行かなければ不明な状態です


 いわば八幡は八幡・江戸は江戸と別れて営業していたようなものです

 ですが、これ以後は毎年盆と暮に江戸店の売上の報告を書面にて行わせ、八幡でも江戸店の営業ぶりがわかるように管理していきとうございます


 奉公人の数も増えましたし、今までのようななあなあの関係ではなくはっきりと本店からの奉公という形式を取りたく思います


 いかが思われますか?」


「ふむ………つまりは、江戸店は山形屋の分家ではなく本店へ奉公する支店という形を明確にするわけか」

「左様にございます。今までは金と銀の違い故に江戸は江戸、八幡は八幡で算用帳(売上台帳)を付けておりましたが、これを八幡の本店にてまとめて行う事としたいと思っております」





 江戸時代における貨幣制度は現代よりも非常に煩雑だった

 当時江戸を中心とした東国は小判を価値基準とする金貨であり、大坂や京を中心とした西国は丁銀を価値基準とした銀貨を用いていた

 それだけならば交換比率を定めれば済んだのだが、銀は長崎の貿易に主に使われる貿易貨幣という側面を持った

 実際、物の値段表示において例えば越後縮緬は金一両で半反・砂糖は一斤につき銀六匁七分というように、関東圏で産するものには金貨を元に、関西圏や貿易で入手するものは銀貨を元に価格が決められた



 国内の取引においては、幕府がその価値を保証すれば多少の重量の減少はカバーできた

 実際、金貨はその枚数と刻印された額面の合計が金額となる計数貨幣けいすうかへいだった


 しかし、海外との取引においては幕府の保証は何の役にも立たない

 海外との取引で問題になったのはその銀に含まれる銀含有量であり、額面がいくら刻印されていようとも重量が足りてなければ決済代金として役に立たない

 その為、銀はその重量の合計を金額とする秤量貨幣ひょうりょうかへいだった


 海外との取引においても金は一部使用されてはいるが、それも小判ではなく砂金や金地金などの秤量貨幣の体を為したものだった


 つまり、この当時の貨幣制度は金銀それぞれの価値基準が並立し、唯一絶対の価値基準の無い状態だった



 ここで二つの興味深い事実がある

 寛文期に使用された貨幣は慶長金銀であり、慶長金銀は言うまでもなく江戸幕府開府と時を同じくして流通を始めた

 しかし、流通開始から六十年ほどを経た寛文期になって計数貨幣である慶長金の『削り取り』が頻発するようになる

 というのも、慶長金の不完全貨幣が発生した場合、軽目度の顕著なものつまり本来の重量よりも大きく減っているものは金座で『足し金』をして補修した

 この『直し小判』は作業済みの証に金貨の裏面に『六角の内に本』の極印を打ってあった


 寛文年間の次の延宝二年(1674年)に江戸本両替仲間が奉行へ提出した訴状の覚書に、『直し小判には六角の内に本の極印があるのを諸人も知っていて、極印付きの小判のみを持って行かれる上に持ち込まれる事がないので、在庫が無く営業に差し支えが出ている』とあり、ここから完全量目の直し小判のみが選好されて諸人の手元に退蔵されており、かつ削り取りが可能な資産として認識されていたという事実がわかる

 また延宝二年にそういった訴えが出るという事は、削り取りという行動自体は寛文年間から行われていたという推測も十分に可能だ


 計数貨幣の機能と金地金としての価値の差をついたグレシャムの法則良貨の駆逐がすでにこの時点で発生していたという一つの証拠になるだろう


 視点をヨーロッパに向けると、当時世界一の経済先進国イギリスでもほぼ同時期に削り取り貨幣(こちらは銀貨)が発生して問題となっており、後の1690年代にはロックとラウンズを代表論客とする改鋳論争(価値論争)を引きおこす原因ともなっている

 ちなみに、イギリスではこの改鋳論争を起点とした流れによって、後の金本位制による資本主義社会の成立へと繋がっていく



 もう一つは、福井藩や備後福山藩によって『藩札はんさつ』が寛文年間に発行され、その後全国に広まったという事実だ

 これらは事実上銀を本位貨幣とする兌換紙幣であった

 つまり、名目貨幣という思想の萌芽がこの頃既にあったということになる



 この二つの事実から、文書や論争といった後世に残る形にはなっていないものの、通貨と貨幣の違い、つまり通貨の持つ名目機能と地金としての本源的価値という近代資本主義社会の根本を為す思想体系が同時期にあたる寛文期の日本において既に成立していたことがわかる

 つまり、経済という国家の実体に対する理解は、世界一の先進国イギリスと同程度かそれ以上に当時の日本は進んでいたのだ



 ちなみに金貨ベースで価格が付くときには金一両あたりの商品分量を表示し、銀貨ベースで価格が付くときは商品一斤や一貫といった『ひとまとめ』に対して銀何匁と設定されたのも計数貨幣と秤量貨幣の違いを際立たせているように感じる



 金銀両建制というよりも、計数貨幣としての金と秤量貨幣としての銀という種類の違う貨幣体系の存在は、山形屋のように江戸に店を構え、本店は関西経済圏に組み込まれる近江商人にとっては大問題だった

 現在で言えば同一法人の中で本店は円建てで、支店はドル建てで別々に決算を行っているようなものだ

 結局山形屋全体としての決算成績を把握するのは至難の業だった


 利助はこの帳簿を本店で一括して管理し、一企業山形屋としての営業成績を年毎に帳簿に記載する仕組みを整えた

 言い換えれば、江戸店と本店がそれぞれに独自の財布を持つ家業として行っていた商いを統合し、企業体・法人としての山形屋を作ったのが利助だった


 最も、この頃はまだ金銀両建制の影響で金銀両単位で記載される複雑なものだった









「なるほど、こうして見るとよくわかるな

 今年は山形屋の売上はおおよそ五十七貫(約7,000万円)になるわけか」

「左様にございます。後はこの売上高をどのように増やしていくかを工夫すれば良いかと…」

「うむ、さすがは利助だ。この制度を採用すると良い」



 この三代目利助の帳簿改革によって、現代まで残る山形屋の営業実態が明らかになっている




 1667年(寛文7年) 夏  近江国蒲生郡武佐宿




 武佐宿の田吾作の旅籠の一室に五人の男が額を突き合わせていた


「もうわしら老蘇おいそ周辺の村だけでは助郷役を務めきるのは難しい

 ついてはお役御免をお代官様にお願い申し上げにいこうと思う…

 五兵衛殿達には申し訳ない事だが…」


 話をしているのは武佐宿周辺の助郷村三か村の庄屋だった

 話を受けるのは武佐宿の三代目肝煎りの五兵衛だ

 先代五兵衛は既に亡くなっており、旅籠主の田吾作もすでに二代目が高齢になっており、実際の経営は孫の三代目田吾作が行っていた



「そんな… 我ら武佐宿のみで参勤交代の御用を務めるのは無理でございます。どうか考え直していただけませんか?」


「お気持ちはわかりますが、我らもこれ以上は限界です。参勤交代は春に行われる

 我らは春には田を耕さねばならず、助郷で手を取られては本業の稲作に支障が出てしまいます


 そうなれば我ら自身でお手伝いすることは叶いません。必然、金子を用立てて人馬を雇い、お役目を果たすことになり申す


 これ以上金子の負担が増えれば我らはそもそもの年貢すら払えぬようになってしまう…」



 五兵衛は頭を抱えた

 確かに年貢が払えなくなれば助郷どころか村の存続が難しくなる大問題になる



「あの… 今の三か村で年ごとに分担していただくのが苦しくなる原因ではございませぬので?」

 黙って聞いていた田吾作が口を挟む


「左様でございます。三年に一度年貢以外にこれだけの支払いが出ると村人各々の負担はより重くのしかかります」

「であれば、助郷役に加わって頂く村の数を増やしていただき、例えば六か村で回り持ちにするとかであれば一村ごとの負担は半分になりませんか?」


「…なるほど」


「お代官様へは負担が大きいので多くの村で回り持ちでお役目を負担し、一村ごとの負担を減らしたいとお申し出になってはいかがでしょう?」

「それはよい!僭越ながら、私もご一緒に代官所へ参りまする。皆さまの窮状はわかっているつもりでおりますし、そもそもご公儀のお役目を限られた村のみで負担するというのが妙な話です

 ご公儀のお役目ならばもっと広く負担を分散するのが筋でございましょう」


 五兵衛が妙案だと手を打つ


 その後日を改めて武佐宿の五兵衛と助郷村三か村の庄屋は打ち揃って代官所を訪れた




 江戸時代の税は基本的には本年貢と呼ばれる地子税で計算された

 検地によって所有する土地に物成何石と総石高を決め、そこから免と呼ばれる税率を掛けた分量が年貢として徴収される厘取法りんとりほうと、周辺地域の土地一反当たりの年貢額を決め、所有する土地面積に一反当たりの年貢額を掛けて総年貢額を決める反取法たんどりほうがあった


 土地は農地だけに限らず家屋敷などにも年貢額を設定した

 本年貢はいわゆる諸役(付帯税)ではなく本税であり、諸役免除の特権も本年貢は別とされた

 そのため、町人の住む町屋にも年貢は存在し、米作を行わない者は金銭で納めるのが通例になっていた



 要するに税金はすべて固定資産税であり、しかも累進課税の制度などはないので一律の税率が適用される

 土地つまり収益の少ない者ほど本年貢負担が重くなり、かつ助郷などの諸役も負担しなければならない仕組みであり、貧富の格差を作り出しやすい仕組みだった




 1667年(寛文7年) 秋  蝦夷国夷人地タカシマ(現小樽市高島)




「この辺りは良い漁場になりそうだな」

『住吉屋』西川傳右衛門は、アイヌの漁獲が減り手に入る漁獲高が減少したのを受けて自ら漁場を開拓しに北海道西岸を探検していた


 タカシマ手前のオショロ(忍路)も良い漁場になると当たりを付けていた

 何しろ鮭が豊富に居るしニシンも船から肉眼で魚群が確認できるほどに魚が沢山居た

 傳右衛門はタカシマの浜に降り立つと早速拠点の造営に掛かった

 ふと気づくとアイヌの幼い兄弟が隠れながらこちらを見ていた


「食べるかい?」

 傳右衛門は懐から握り飯を取り出すと、兄弟に分け与えた

 兄は見た所十歳にもなっていない年齢で、弟の方はまだ五歳をわずかに過ぎた所のように見えた


「ご両親はどうなされた?」

「ハウカセに殺された。俺たち二人だけ生き残ったんだ」

「そうか…」

 傳右衛門はやりきれなかった

 戦はむごい。まして戦の原因が和人の運ぶ米が減少したことにあると思うと心苦しい限りだった



「そうだな… 君たちさえよければここに作る拠点で漁をしないかい?」

「漁を…?」

「そう、私は越後から魚網を持ってきていてね。この網を使えば沢山の魚が獲れると思う

 君たちが魚を獲る。それを私が持ってきた米と交換する

 沢山交換することは難しいが、少なくともしっかりと生きていけるようにはするつもりだ」


「でも、俺たちが漁をするとハウカセがやって来て殺される…」

「…そうだな。じゃあこうしよう。私の雇っている和人と共にここで漁をするんだ

 和人が居れば彼らも無体なことはしないだろうと思う


 …どうかな?」


 どうしようかと兄弟で顔を見合わせていたが、結局迷っている余裕はない

 この和人の言う通りにしなければ二人そろって飢え死にするしかないのだった

 兄は弟の顔を見た後ゆっくりと頷いた


「よし!決まりだ!そうと決まれば、手伝ってくれ!ここに漁の起点となる小屋を作る

 君たちや和人の者達の寝る場所にもなる」


 立ち上がった傳右衛門は兄弟に手を差し伸べて立ち上がらせた



 ―――彼らの仕事を奪ってしまうかもしれない。だが、このまま彼らを放っておくことなどできはしない

 傳右衛門はアイヌを交易相手ではなく『労働者』として雇用し、労働の対価として生活必需品を与えた

 それは純粋な善意であり、焼け出されたアイヌの生活を保障するために行ったことだった


 傳右衛門は現場で宰領を振るう手代に、くれぐれもアイヌの生活を脅かさぬように厳しく申し付けた




 1668年(寛文8年) 春   蝦夷国夷人地シブチャリ




「おのれオニビシめ…」

 シャクシャインは先年のオニビシとの和睦以来うっ憤を募らせていた

 自分から戦いを始めたくせにマツマエ殿の力を借りて生き延びたとさんざんオニビシに馬鹿にされたからだ



 その後、オニビシが熊の仔を分けてくれと頼んでもシャクシャインは無視した

 シャクシャインの部下が鹿狩りの為に山に入ろうとしたらオニビシが俺の領分を通るなと追い返した

 またオニビシがシャクシャイン方の領分の川まで来て漁をしたが、シャクシャインは止めることが出来なかった



 万事がこの調子で和睦したといってもオニビシとシャクシャインの仲は日に日に険悪になっていった

 そんな中、オニビシの甥のツカコボシがシャクシャインの領分のウラカワで鶴を買って来たとの報せを受けたシャクシャインは、怒りに任せてツカコボシを捕えて殺してしまった


 当然、怒ったオニビシは甥の死の代償に三百品という莫大な償いの品を要求し、出せなければ攻め滅ぼすと脅したのだった



「シャクシャイン!どうするのだ… このままでは今度こそオニビシに攻め滅ぼされてしまうぞ!」

「やむを得ぬ。もう一度マツマエ殿に仲裁を依頼しよう」

「しかし、三百品などと我らに用意する力はないぞ」

「マツマエ殿に立て替えてもらうように願おう。質としてこの太刀を献上する」

 そう言うと、シャクシャインは腰に履いていた太刀を外して金堀商人の文四郎の元を訪ねた



 しかし、文四郎は太刀を金山奉行に献上したもののシャクシャインとオニビシとの仲介の事は失念してしまい、もっぱら金山のことばかりを相談してしまった

 当然だが、和睦の使者は待てど暮らせど来なかった



 オニビシは償いの話が一向に進まないので、しびれを切らしてシャクシャイン方に攻めかかる構えを見せたが、これは残った金堀商人達に押し止められた




「もしやマツマエもオニビシの味方をするのか…」

 シャクシャインは完全に疑心暗鬼に陥っていた

「どうする?シャクシャイン…」


「かくなる上は、オニビシを討ち取る!」

「しかし、それが出来ぬことはシャクシャインが一番わかっているのでは…」

「まともにやっては勝ち目はない。奇襲でオニビシを殺すのだ。オニビシさえ死ねばシュムクルは烏合の衆となるはずだ」


 オニビシは勇名を馳せた酋長で、西方アイヌ民族シュムクルの精神的支柱だった






 ある日オニビシは金堀商人の小屋に子供一人を連れて訪ねた

 運悪く少数で訪れたことをシャクシャイン方に知られてしまった


「今こそ好機だ!オニビシを討ち取るぞ!」

 シャクシャインは小屋に火を付けると脅して金堀商人の小屋からオニビシを誘い出した

 小屋から出てきたオニビシは大勢の東方アイヌ民族メナシクルに囲まれ、奮戦したが衆寡敵せず討死した



 オニビシを失ったシュムクルはメナシクルに反抗するも、統率がとれた戦いが出来ずにあちこちで劣勢になっていた

 シュムクルは松前藩に武器の提供を願い出るが、ようやく事の次第に気付いた松前藩は抗争の片方に肩入れすることを避け、シュムクルの願いを却下した

 ここにシブチャリの戦いはシャクシャイン率いるメナシクルが圧倒的優勢になった



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