第89話 企業家の憂鬱


 


 1882年(明治十五年) 三月  東京府両国中村楼




「渋沢さん。ま、おひとつ」

 向いに座る男の勧めで渋沢栄一はお猪口に注がれた酒を少しだけ舐めた。両国の茶屋、中村楼の一室には隣の部屋から漏れ聞こえる弦歌の音以外には何も聞こえなかった。

 横に座る芸妓達も二人の様子に息をひそめている。渋沢は対面に座る男に再び目線を合わせた。

 ゲジゲジの眉毛に四角い顔立ちで口髭を豊かに蓄え、目には野獣のようにギラギラした精気が漲っている。


「で、用件というのは何かな?岩崎さん」

 渋沢は向いに座る男、岩崎弥太郎に向かって挑戦的な眼つきで問いを発した。

 三菱財閥の創始者である岩崎弥太郎は、心底可笑しそうに笑いながら自身も一口酒を飲んだ。


「用件など分かっているでしょう?共同運輸の事ですよ」


 三井物産社長の益田孝の肝煎りで発足した東京風帆船は、北海道運輸、越中風帆船と合併してこの年の七月に共同運輸会社として新たに発足する事が決定していた。

 言うまでも無く、日本の海運を独占する三菱とは競合関係になる。

 この時期、大阪では住友財閥の広瀬宰平が中小商船会社を統合して大阪商船会社を設立するなど、三菱の独占市場に穴を開けようとする勢力との戦いに明け暮れていた。

 これ以上競争相手を増やしたくない岩崎としては、井上馨を中心とした三井派の懐柔を狙っていた。


「共同運輸は大きな海運会社です。我々三菱商会と手を組めば、日本の海運を我ら二人で独占できる。

 ここは一つ、渋沢さんと私とで手を組みませんか?」


 ―――どうしても独占せねば気が済まんのか


 渋沢は岩崎の話を眉根を寄せて聞いていた。

 岩崎弥太郎という男は何事も独占してしまおうという気性だったが、渋沢にとってはそれがたまらなく不快だった。

 渋沢栄一や益田孝は、主義として独占するよりも何社かで共同で事業を行う方を好んだ。その方が日本の富が広く分配され、結果として日本という国が潤うと考えていた。

 それに対し、岩崎弥太郎はまず自分が独占し、その分配を自分が行う事で分配を円滑に行うという考えを持っていた。


 これは『富の再配分』という、資本主義社会が本来的に持つ『格差』という病巣を是正するための方法論の違いであって、一概にどちらが正しいと言えるものではない。

 しかし、言ってみれば渋沢や益田と岩崎は水と油ほどの違いがあり、手を組んで何事かを行うという事は出来ない性質だった。



「広瀬君の大阪商船にだいぶん参っているようだな」

「はっはっは。恐れ入ります」

「手を組むと言って、その実株式は岩崎君が抑えてしまう腹積もりなのだろう?そうして、大阪商船を屈服させた後は共同運輸も自分の物にしてしまう」


 岩崎の目がギラリと光る。名うての実業家らしく笑顔こそ崩さないが、渋沢の言葉の先を予想して警戒感を露わにしていた。


「渋沢さん。三井の益田さんに気を使われているのならばご無用ですよ。我々が手を組めば益田さんも否応も無く賛同してくれましょう。むしろ、新しい会社の舵取りは益田さんにお願いしたいとさえ思っています」


 渋沢は鼻で笑った。益田に気を使っているつもりはない。本心から岩崎の言う事に賛同できないだけだ。


「まあ、もう少しじっくり腰を据えて話をしようじゃないですか」


 そう言いながら、岩崎は次々と杯を重ねた。対して渋沢栄一はあまり酒を好んで飲まない。

 結局話のタネも尽き、岩崎弥太郎は交渉の成果を得る事が出来ないまま中村楼を後にした。



 その後、渋沢や益田らは予定通り共同運輸を設立し、翌明治十六年から本格的に営業を開始する。

 三菱はそれに合わせて運賃を二割引きに設定するなど、猛烈なダンピング競争を仕掛けた。

 共同運輸側もそれに対抗し、両者の競争はやがて到着速度も含めたサービス競争へと発展していく。


 三井と三菱の争いはやがて輸送速度の過激な争いから海運事故を誘発する原因にもなり、明治政府もやがて事態を深刻に受け止め始めた。

 競争はサービスの質を向上させるが、他方過激な競争によって事業そのものの信頼性を損ねる事にも繋がりかねない。


 競争か独占か


 楽市楽座以来何度も揺れ続けた日本の商業界において、明治のこの時に至ってもまだ明確な答えは出ていなかった。




 1882年(明治十五年) 十二月  東京府三井物産本社




 営業報告書を見つめながら、益田孝は青ざめた顔をしていた。


 ―――この不景気がいつまで続くのか…


 思わず喉の奥に酸っぱい物が込み上げ、バタバタとトイレに走ると胃の中の物を吐き出した。

 それほどのプレッシャーがかかっていた。

 明治十四年の六月に大隈重信の失脚に伴って大蔵卿に就任した松方正義により、不換紙幣の回収と金融政策の引き締めが本格的に行われていた。

『松方デフレ』とよばれる緊縮財政だ。


 日本は明治維新以降順調に経済規模を拡大してきていたが、同時に西南戦争などの戦費調達の為に積極財政を敷き、名目上は兌換紙幣でありながら実質的には不換紙幣となる紙幣も大量に出回っていた。

 これの引き締めを行ったのが松方正義だ。


 松方デフレによって拡大を続けていた景気は不景気へと反転し、明治十五年暮れのこの頃には日本中でバタバタと倒産する企業が続出していた。

 三井物産も物価の下落によって利益をかなり圧迫され、この年はついに赤字決算を余儀なくされる。


 益田孝は「出勤時に三井物産本社のある三井組ハウスの屋根が見えると憂鬱な気分になり、また今日もこの屋根の下で苦しむのかと思うとその時点で酸っぱい物が込み上げてきた」と後に述懐している。

 高島炭鉱を経営する後藤象二郎もこの時期には朝から晩まで布団をかぶり、うんうんと唸っていたという。

 この松方デフレは、それほどに日本の実業家を苦しめた。しかし、不換紙幣の回収は必要な事だという認識は実業界でもあったので、この時期の実業家たちは痛みに耐え、苦しみを飲み込んで必死に経営を行った。



「社長、井上さんがお見えです」

 取次の社員から井上馨の来訪が告げられると、益田は慌てて応接室へ移動した。


「……益田君。大丈夫かね?」

 井上は入って来るなり益田の顔色が悪い事を心配した。それほどに益田は重病人のような顔色をしていた。

「恐れ入ります。ただの心の苦しみです」

「……松方君の言う事は厳しいが、道理でもある。益田君も今は苦しみに耐え、なんとか明日を掴んで欲しい」

「はぁ… なんとか会社を潰さぬように奔走するばかりです」

 益田にも正直大丈夫と安請け合いは出来なかった。それほどに今の不景気は苦しい。


「…そうだな。一度棚卸勘定をしてみてはどうかね?損が出ている事とは思うが、どのくらい損が出ているのかをしっかりと見なければ対策の立てようもないだろう」


 井上の言葉に、益田もその通りだと思って井上が帰るとすぐさま三井物産の棚卸を指示した。

 おそらく相当な損失が出ているはずと思っていたが、意外にも損は出ておらず、大した額ではないとはいえ利益すら出ていた。


 ―――これならばまだまだ乗り切れるかもしれん


 心を強くした益田は、それからも不景気を跳ね返すべく奔走した。

 しかし、胃の中の物をぶちまけるほどではなくなった。心理的な重石を取り除いてくれた井上馨には感謝しきりだった。




 1884年(明治十七年) 七月  滋賀県滋賀郡 滋賀県庁県知事室




「失礼します」


 西川甚五郎は新たな滋賀県知事の中井弘の就任に合わせて挨拶に出向いていた。

 明治十一年太政官布告の府県会規則に基づいて滋賀県にも県議会が設置されていたが、甚五郎は昨年の明治十六年から県議会議員を務めていた。

 八幡銀行の取締役としての役目もあり多忙な身ではあったが、地域の利益を代弁する議員としての活動は公共の為の活動として何とか時間をやりくりしていた。


「ああ、西川議員ですね。新しく県令(知事)として赴任した中井弘です。今後ともよろしく」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

「まあ、立ち話もなんですし、どうぞおかけください」


 そう言って中井が正面のソファを勧める。明治初年と違い、革張りのソファの内側には綿が敷かれてあって座り心地は大きく改善されていた。


「ところで、西川さんはどこの選挙区からの選出でしたか?」

「蒲生郡の八幡町から選出されております」

「八幡町ということは近江商人のふるさとですな。西川さんも商店を?」

「ええ。先祖代々蚊帳を商い、私で十一代目になります」


 中井は感心したように頷いた。当節古い商人も新しい商人も一緒くたになってしまっているが、伝統ある商家をこの明治の御世にまで保つという事は並大抵の苦労ではなかっただろうと推察した。


「近江の商人はそれぞれの商才はすばらしいものがあるが、いかんせん三井や三菱といった政商に比べてやや規模が小さいのが悩みどころですな」

 中井にとっては何気ない世間話のつもりだったが、甚五郎は我が意を得たというように中井に話し出した。


「ええ、それが我々が八幡銀行を設立した理由でもあります。伝統ある八幡商人の資本を集中させ、巨大資本に対抗できるだけの商人集団を創り上げる事が我らの志です」

「…そうですか」

「その為に、私も不肖の身でありながら県議会議員なぞを務めさせてもらっておりまして」

「………」

「古くからの地場産業である蚊帳も、今では我が西川商店と扇屋さんの二軒だけの取り扱いとなってしまっております。なんとか八幡蚊帳を復活させようと、扇屋さんと製織工場などを建設したりもしているんですが…」

「製織工場?」


 甚五郎の勢いに辟易していた中井だが、製織工場という言葉にピクリと反応した。


「ええ、工場と言っても製織機二台だけの小さな規模ですが…」

 甚五郎はそう言って頭を掻いたが、中井はますます前のめりに話に加わって来た。


「滋賀県は良質な生糸を生産する場所でもあります。大阪紡績を始め、近畿各地でも今紡績工場を建設する動きは活発化している。

 八幡町ではそう言った産業には手を出されないのですか?」


 日野商人の初代中井源左衛門が仙台から持ち帰った仙台平の蚕種は、日野を中心に生産が活発化し、今では越後絹に次ぐ上質な生糸として名声を得ている。

 新任の中井の頭には、この不況下に滋賀県の殖産興業をどうするかという課題が常にあった。生糸ならば輸出産業としても優秀だし、大阪紡績などの他府県の企業に買い叩かれるぐらいなら近江商人の手で紡績会社を立ち上げさせてはどうだろうかというアイデアが勃然と浮かんだ。


「はあ… 我々も生糸産業にはてんで素人でして…」

「そうですか…」

 長く蚊帳と畳表を扱って来た甚五郎には生糸を扱うという発想は無かった。生糸は日野の産業であるという意識もあって八幡商人が扱うというのは畑違いという認識がある。

 だが、県知事の中井の目から見れば日野も八幡も滋賀県の実業家だった。滋賀県の実業家同士が協力して滋賀県の殖産興業を行う。

 それに一体何の不都合があるのか。


 最初は退屈な世間話として聞いていた中井だったが、甚五郎と話すうちに彼らの力で滋賀県の産業を興して行けるという自信を持つに至った。

 産業だけではなく、中央政治の世界にも彼らを進出させてはどうかとも思った。


 自由民権運動が活発化している当節、政治活動を巡ってテロまがいの事件まで起きている。滋賀県には滋賀県の利益を代弁する代議士が必要だ。

 国会の召集はまだ先の事ではあるが、その時の為に彼ら近江商人の力を集めて行こうと中井は密かに決意していた。





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