第85話 商社
1875年(明治八年) 八月 東京府東京市
東京の支店を視察に来た西川甚五郎は、和服の上に坊主頭を乗せ、シルクハットをかぶった和洋折衷の出で立ちで東京の町を歩いていた。
―――随分、東京も様変わりしたな
横浜港から新橋までは汽車に乗って移動した。ガタゴトと揺れる汽車は快適とは言い難かったが、それでも馬車や籠よりもはるかに早く景色が流れる様は新鮮な驚きがあった。
駿河町には洋風建築家の清水喜助の設計になる三井組ハウスが目を引いた。
レンガを使ったモダンな建物は今までの長屋や武家屋敷と全く違う風情があり、東側と北側に張り出したバルコニーが目新しさを一層引き立てる。
遥か後方に見える国立第一銀行と合わせて、洋風建築の建物は人々からの注目を集めていた。
町行く人も皆髷を切り、多くは甚五郎と同じく和装にハットをかぶったりステッキを突きながら歩いている。
一方、昔ながらの木綿の小袖に風呂敷包みを背に担いで歩く行商のような者もちらほら見える。
正に今時代が変わろうとしていると実感せずにはいられなかった。
―――この時代にあって我が西川商店は今までの商売だけをしていても良いものか…
東京支配人の宗助にはああ言ったものの、甚五郎の胸には迷いがあった。
日本の暮らしを豊かにすることが目標である事には変わりはない。しかし、それは今まで通り蚊帳と畳表だけを商って行けばよいという事にはならない。
建物が洋風になるのならば生活様式も洋風に倣う事が増えて来るはずだ。
まして、今は旧来の物流システムが破綻し、新しい仕入れを検討しなければいけない時期でもある。
―――大阪に支店を作るか
政治の中心は東京だったが、商品の仕入れならばやはり天下の台所と言われた大坂に物が集まっている。
政治の場を退いた井上馨は岡田平蔵と共に先収会社を設立し、『商社』という聞き慣れない言葉も耳に入るようになっているが、商品の仕入れは輸入と大阪からの海運によって多くを賄っていた。
今までは同郷の大文字屋や扇屋の大阪店から商品を仕入れていたが、はっきり言って売る物が不足していた。
蚊帳と近江表だけならば現状でもなんとか商品を確保できるが、庶民向けの主力になる青莚はどうしても西国から買い付けをしなければ商品確保ができなかった。
諸役免除という商業特権の無くなった八幡町でも様々な商人が生き残りを賭けて全国や海外に飛び出している。
甚五郎もこのまま現状維持だけで生き残れるとは思っていなかった。
翌明治九年に西川商店は大阪支店を開設する。西国から青莚を買付け、東京の日本橋・京橋両店へ商品を送る事がその主な業務とされた。
明治十年には青莚の他に雲州木綿・蚊帳・布縁などの買次も行うようになる。
1876年(明治九年) 五月一日 東京府東京市 井上馨私邸
「失礼します」
「おお!益田君!よく来てくれた」
三野村が両手を広げて歓迎の意を表すると、益田は帽子を取ってペコリと一礼した。
益田孝は井上馨と共に先収会社を立ち上げ、その実務に当たって来た筋金入りの商業家だった。
元々タウンゼント・ハリスの元でアメリカ公使館の雑用として勤務していたが、その時に覚えたカタコトの英語を武器に外国人との通訳などをして過ごした。
文久三年に横浜鎖港の談判の為に池田
明治維新の際には幕府騎兵隊を率いたりもしている。
倒幕後はその外国語経験を活かして茶や海産物の輸出の取次や外国米の輸入事務をして働き、井上馨に見いだされて大蔵省に勤める。
その後、井上が大蔵大輔を辞職すると、益田も大蔵省を辞して井上と共に先収会社を立ち上げた。
先収会社では銅・石炭・紙・茶などの売買や米の取引の他、陸軍省へ毛布や軍服・アームストロング砲などの兵器類の売買も行った。
あらゆる海外貿易・国内取引を経験した益田は正に明治初年を代表する商社マンだった。
そして、井上馨が政府に復帰するのに合わせて先収会社が解散される事になると、三野村は益田の手腕を惜しんで何とか三井組に迎えたいと何度も説得していた。
「三井のように重代事業を重ねている所では譜代の重役に対して口を挟むことが出来なくなる」と固辞してきた益田だが、三野村と共に大隈重信からの口添えもあり、遂に三井入りを決意したのだった。
「さて、新しく先収会社を引き継ぐ会社についてだが…」
「一つよろしいですか?」
三野村の言葉に益田が言葉を挟む。
「先だってお伝えしている通り、新たな会社は三井と身代を別にしていただきたい。要するに三井本家からの口出しを極力避けて頂きたいのです」
「無論だ。三井銀行も同じように、三井家の所有物ではなく独立した事業として創業する。
益田君の要望は叶えられるように計らう」
益田から出された条件を三野村は全て呑んだ。それほどに三野村は益田孝という男を買っていた。
「ありがとうございます。それでは、新たな会社の目的とする業務ですが…」
「それは決まっている。他からの依頼を受け、海内海外の別なく諸商品を買い受けて売捌き、手数料を得る事を目的とする。つまり、商業の原点に立ち返る」
「産物を仕入れ、必要とする所に届ける事。ですね」
「その通り。産物を作る者と使う者を繋ぐ役割だ」
益田は深く頷いた。三野村から幾度も聞かされた構想だ。
銀行が日本の富を支え、商社が日本の暮らしを支える。
この両輪こそが三野村の目標とする三井の姿だった。
この三者会談を受けて三井は新たな商社を設立し、先収会社の業務は新会社へと引き継がれた。
新たな会社は『三井物産会社』と名付けられ、初代社主は三井高明と三井高尚となり、益田孝は初代総轄に就任した。
明治九年七月一日
三井銀行と三井物産は同日に認可され、三井本家と結んだ約定書によって銀行・商社は三井家から独立した会社として成立した。
三井物産が三井同苗の生計の目途を立て、三井銀行が破綻しても三井物産には影響を及ぼさないよう、また三井物産が破綻しても三井銀行に影響を及ぼさないようにという協定が結ばれる。
陸軍省と関係が深かった三井物産は、この年の台湾出兵、及び翌年の西南戦争に対して兵糧米のビジネスで多額の利益を上げる。
また、茶や米を輸出して海外から繊維製品などを輸入し、国際貿易商社として世界の海へと漕ぎ出した。
時代が下り、牛馬や天秤棒から汽船に運搬手段が変わっても商社の理念はいつの時代も変わらなかった。
『人々の暮らしを豊かにする』
それが商人の本分だった。
1876年(明治九年) 十一月 東京府東京市 三野村邸
「お加減はどうですか?」
三井物産社長の益田孝は、病床に伏せる三野村利左衛門を見舞っていた。
以前の溌溂とした三野村の面影はなく、ずいぶんと顔も体もやせ衰えている。
「益田君か。忙しいだろうにこんな病人の所に足を運んでくれて申し訳ないね」
「何を仰います。今三野村さんに死なれては三井は一大事です」
「ふふ。三井は大丈夫だ。今は君がいる…」
そう言われて益田は言葉を失った。
幕末の混乱期に三井を保ち、新政府の金庫番として新たな時代の商人像を確立した豪傑は、その新たな門出となる三井銀行の開業式を前に病に倒れていた。
利左衛門の役職である三井銀行総長代理副長は、養嗣子の三野村利助が務めていた。
「益田君。どうか三井を頼む。
この国は御一新によって新たな物をたくさん得た。だが、それと同時に失った物もたくさんある。御一新となって良かったかどうかは、これからの我々の働きにかかっているんだ。
どうか日本が後悔するような事の無いよう、この国の豊かな未来を描いて欲しい」
「……しかし、私のような新参者には…」
「何、私も三井へは途中で入ったんだ」
「そうなのですか?」
「ああ、今の八郎右衛門様に三井を建て直して欲しいと請われてな。非才の身で何ほどの事が成せたとも思わないが、ともかくも三井は新たな日本に商業の旗を立てる事ができた。
それだけで、私が三井に居た意味はあったと思う」
「……」
「次は君達の時代だ。日本を、世界一豊かな国にする為に精一杯働いてほしい」
益田はやや苦しそうに話し続ける三野村に、ただ頷くしかできなかった。
翌明治十年二月 幕末から明治初年の三井を支えた大番頭はこの世を去った。
死因はガンだったと伝わる。
大隈重信は三野村を評して「学者的議論の無い無学な男だったが、あれほど要領を得る人も居ない」と言い、益田孝自身が後に三野村を評して「大体の事はすぐに理解されるが、細かい事は一向に分からない。そして、商売は好きで好きでたまらない人だった」と回想している。
三井の大番頭と呼ばれた三野村利左衛門は、無学でひらがなしか読めなかったと伝わる。
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