第21話 近江の轍



 1602年(慶長7年) 春  能登国鳳至郡鹿磯




 関ヶ原の合戦が終わり、二年が経った

 武士の世界では戦後処理やその後の領地替えなどで色々あったようだが、仁右衛門は相変わらず能登への行商を続けていた

 順調に販路を開拓し、今では手代を雇って五人の隊商となっていた


 それでも運ぶ荷が不足しつつあり、鹿磯の地に新たに店を開こうかと思案していた

 長男市左衛門と能登の海辺に立って話していた




「市左衛門よ。この地に常駐の番頭を置いて敦賀より船で荷を運ぼうかと思うのだが、どうだ?」

「良いご思案ですな。鹿磯の先へもまだまだ行商の道が開けましょう」

「うむ。敦賀からここ鹿磯まで船で運び、そこからさらに先へ広げたいな」


「…父上。その店の番頭、私にお任せいただけませんか?」

「市左衛門がか?しかし、お前がここに居残っては八幡の本店は誰が継ぐ?」

「甚五郎が居りましょう。あいつは商才・器量共に優れた弟です。父上の後は甚五郎が継ぐべきです」

「市左衛門…」



「それに…」

 市左衛門がやや言いにくそうに口ごもる

 市左衛門が目配せすると、鹿磯の漁師三郎兵衛の娘のがやって来て、顔を赤らめながら隣に立った


「たえ殿…?」

 たえは仁右衛門たちが訪れるたびに、何くれとなく世話をしてくれていた

 市左衛門ともよく話しているのを見かけた



「父上、実は仕儀でして…」

「…? どういう仕儀だ?」

 相変わらずである


「つまり、そのぅ、たえ殿とこの地で夫婦となりたいと…」

「!!!」

「北への販路開拓。どうか私にお任せいただけませんか?」



 ようやく仁右衛門にも事情がわかった


(こいつ…いつの間に…)

 仁右衛門は長男の手の早さに驚いた

 人の懐に飛び込むのが上手いとは思っていたが…




 1602年(慶長7年) 夏  渡島国松前郡福山湊




「よ~し!船に木材を積み込んでくれ!」

 建部七郎右衛門は越前の敦賀で建造した自分の船の上り便を用意していた


 蠣崎慶広は、苗字を松前と改め、居城の大舘も改築して松前城としていた

 松前藩初代藩主 松前慶広まつまえよしひろである



 藩主慶広の相談役として、政商としての確固たる地位を築いていた七郎右衛門は、自前の船で北前船の就航を行い、この前の秋には上方の米や味噌・麻呉服・木綿呉服などを運び、巨額の利を得ていた



「俺は蝦夷からは翌檜あすなろ、トド松、エゾ松などの木材を敦賀に運ぶ!夏の間に上らんと海流をうまく捕まえられんそうだ!」

 風の中で大声で隣の田付新助に話す


「俺の船も来年就航させる!こっちはニシンや乾し鮭などを運ぶ!」

「近江からも続々と商人がやって来るから、取りまとめを頼むぞ!」

「おう!志摩守様へは我らの両浜組の承認をもらってくれ!」



 建部七郎右衛門は『材木屋』 田付新助は『福島屋』を屋号とし、自前の北前船を敦賀との往復で就航させることで松前の豪商の地位を確立していた








「志摩守様にお願いがございます」

「願い?申してみよ。七郎右衛門」

「はっ!先年よりの近江からの誘致により、武士と共に商人達もこちらへの移住を希望する者が出始めておりまする。

 つきましては、手前と福島屋で『両浜組』を組織し、商人達の取りまとめを行いたいと思います。

 お許しいただけましょうか?」



 松前慶広が顔を綻ばせる


「なんだ、その事か。願ってもない事だ。

 松前城下で交易を一手に引き受けるのだ。そなたたちの運ぶ米や味噌が必要になるし、商人達を一手に取り仕切る者も必要だ。

 しっかりと頼むぞ」

「はっ!ありがとうございまする!」





 米が取れない松前藩は、『無高の大名』と言われ、アイヌとの交易を独占することで藩の財源を確保していた

 慶広が秀吉の朱印状の元、松前城下での交易を強制するまでは、アイヌの各民族は独自に津軽半島各地へ交易に出かけ、各商人と個別に取引をしていた

 それが、松前慶広の登場でアイヌ側からも和人側からも松前藩としか交易を行えなくなった


 松前藩はアイヌからは朝貢を受けて、商人達の運ぶ米・味噌・衣服・鉄製品などを下賜する

 商人達は松前藩に入船税を納めることで、北の産物を松前藩から買い求めることが出来る



 藩として、支配者としての存在理由レゾンデートルの問題から、座商人達と同じ独占交易体制が再び姿を現していた



 独占交易の体制が整えられたのは北の大地だけではなく、二年後の慶長九年には外国商人の言い値で買わされていた生糸が、糸割符仲間による独占輸入と国内の独占販売に切り替わった

 これによって生糸の価格は一定の水準を保つことになった


 また、国内の各種物産も、品質を保つために一部の豪商たちが買占めを行い、実質的な独占体制が敷かれていく



 支配者の都合・価格の安定・品質の向上 と


 理由は様々だが、楽市楽座によって保証された『自由商業』は、戦乱が治まるに従って有名無実のものとなっていった

 若い世代の商人では、『楽市』という言葉自体を知らない者も出てきていた


 元々、戦国期の市において第一に希求されたのは『市の平和』だったことを思えば、その第一条件は必然的に達成されたと言える

 松前藩においても、松前氏に独占交易を許可する一方で、アイヌ諸族に対しては『夷仁に対し非分申し懸る者、堅く停止の事』と、不当な扱いを禁じている





 楽市楽座とは一体何だったのか



 戦国期の特殊な事情によって制定された極めて時限的な措置だったのか

 しかし、慶長のこの当時においても八幡町や岐阜の加納は市場法としては変わらず『楽市楽座令』が施行され続けている

 それがどれほどの人間に認識されていたかは別として…


 楽市楽座については、もう少し商人達の歴史を追いかける中で、その真の姿を見つけていきたいと思う




 1603年(慶長8年) 春  近江国蒲生郡八幡町




 仁右衛門は長男市左衛門を伴って鹿磯まで赴くと、新築成った鹿磯店を市左衛門に任せて一人で八幡町へ戻った

 市左衛門は分家させ、近江屋を屋号にした



 妻のふくには勝手に息子の縁談を決めたと文句を言われた


 しかしなぁ… 好き合っている者を引き離すのもなぁ…



「父上、鹿磯の兄上との間のやり取りですが…」


 甚五郎が鹿磯近江屋との商品流通について相談してきた

 甚五郎はそういう事を考えることが得意なようだ

 商いの現場よりも商いのやり方を考えて楽しむ所があるように思う

 その点は頼もしいが、行商もできるように徹底的に仕込まねばならん


「…父上、聞いておられますか?」

「…ん? ああ、すまん」

「もう一度最初から言いますね」



「敦賀から鹿磯まで、船で毎月荷を運びます。敦賀までは八幡で馬喰を借りて荷駄五駄を毎月行かせましょう。

 荷駄の帰りには鹿磯の兄上から荷を乗せてもらいたいと思います。

 登せ荷は塩魚・干物・塩・スルメ・昆布などになるかと思いますが、これも近郷だけでなく、売捌き人に持たせて京・大坂へ持ち下りましょう


 それと、売捌き人は本店からは敦賀までとし、敦賀以北は近江屋から売捌き人を出してもらうようにします」

「うむ、それでいい」


 山形屋の売捌き人とは、里売りに出て訪問の販売を行う手代のことだ

 売捌く場所などはある程度自由にやらせていた



「甚五郎。北は市左衛門に任せて、我らは美濃や尾張、三河方面へ向かうぞ」

「はい。私も同行してよろしいのですね?」

「ああ、お前と私で売捌き人の一隊となろう」

「わかりました」


 思ったよりもすんなりと売捌きを受け入れたな

 ひょっとすると商いが嫌いなのではなく、他にやる者がいないから商いのやり方を考えているのかもしれない



 1605年(慶長10年) 春  伊勢国飯高郡松坂日野町



 慶長十年のある春の日

 仁右衛門は松坂の三井宗兵衛を訪ねていた


「久しぶりだな。宗兵衛」

「ああ、ずいぶん久しぶりだ…」

「商いはまだ続けているのか?」

「はは… もはや開店休業だ。氏郷公が亡くなって、おれはすっかり老け込んでしまった」


 店の中もずいぶん寂しくなってしまっていた



「息子はどうなのだ?」

「則兵衛か… あれはダメだ。珠が武士の子として育ててしまった。

 毎日毎日遊び暮らす道楽息子よ…

 まあ、俺がこのザマだから、あいつを責めることはできんがな」


 宗兵衛はすっかり老け込んで、頭も黒より白が目立つようになっていた

 お互い五十六歳 年を取ったものだ…



 宗兵衛の一子・則兵衛高俊は、商いを苦手にしており、それから逃げるように遊び暮らしていた

 遊びと言っても博打や女遊びではなく、連歌や句会・うたいに篠笛・鼓に能と『武士のたしなみ』というべきものだった


 しかし、宗兵衛は蒲生家を致仕して既に町人となっている

 町人の身で『武士のたしなみ』が何の役に立つのか…



 宗兵衛自身にかつての活力がない

 後継者がこの様子では宗兵衛の酒屋は間もなく傾く… いや、既に大部分が傾いていた

 以前は誼を通じた商人達も滅多に寄り付かなくなっていた



「西川様、ようこそいらっしゃいました」

「ああ、これはありがとうございます」


 一昨年則兵衛に嫁いできた角屋家の娘の春が煎茶を出してくれた

 宗兵衛の妻、珠は関ケ原合戦の翌年に亡くなっていた



 春は角屋七郎次郎の実娘ではなく親戚筋の子だったが、七郎次郎の養女として嫁いできていた

 気の強そうな娘だが、言動の端々に勘働きのよさを伺わせていた



「若き日の夢はどうした。民の暮らしを豊かにするんじゃなかったのか?」

「俺の夢は氏郷公と共に死んだのだ。今は抜け殻があるだけさ…」

「…」



「なあ、宗六よ。俺たちの夢、伝次郎さんの夢は、俺たちだけで完成するものではないとは思わんか?

 俺は最近とみにそう思うようになってきた。

 俺やお前が伝次郎さんの想いを引き継いだように、俺たちも次の世代に引き継いでいくものじゃないか とな。


 …そして、夢はいつしか叶うようにと願って託していく。俺たちの歩いたわだちの跡を、次に続く者たちが歩いていく。

 それでいいのではないか …とな。


 今ならわかる。伝次郎さんは急ぎすぎたんだ。

 戦乱の終わりが見えて、性急に自分一代で事を為そうと焦ってしまった。

 そして、狂気に取り憑かれた。



 もっとゆっくりと、一歩づつ、地道に歩を重ねて目指していくべきものなんじゃないか、とな。


 …行商と同じだな」


 仁右衛門がははっと笑った




 宗兵衛の心にも、今までの事が様々に巡ってきた


 若き頃、始末ができずにわがままを言っていた事

 氏郷に出会って、この人のために全てを賭けると誓った日

 本能寺の変の時、具足姿で駆け付けて似合わぬと氏郷に笑われた

 松坂に出て、商人司としてそれなりの商いを主催するに至った

 仁右衛門に力を借りたいと頭を下げ、お互いに生きる道が違うのだと諭された事

 東奔西走する氏郷に従って、兵糧や軍馬を送り続けた

 会津に引っ越して、勝手の判らぬ土地で悪戦苦闘した日々

 伏見の蒲生屋敷で、氏郷に後を追うなと釘を刺されたこと


 どれもこれもが、宝石のように輝いた懐かしき日々だった






「跡を継ぐもの …か。お主は良い息子がいてうらやましいな。

 は商いには向いていないようだ。寂しい事だが、おれの夢はここまでのようだ」

「息子でなくとも、受け継ぐものは居るだろう。お前の全てを託しても良いと思える者だ。

 俺たちの夢は、そんな簡単に亡くしていいものじゃないはずだ」


「そうだな… 忠三郎様にもそう言われた」



「おれはまだ止まらぬ。跡を受け継ぐものがより遠くへ行けるように、より先へと轍を伸ばしていく。

 お前もまだ立ち止まるには早いんじゃないのか?」


「…」










 しばらく話して、仁右衛門は宗兵衛の店を辞した

 宗兵衛は通りまで出て、いつまでも仁右衛門を見送っていた



 一台の荷車が宗兵衛の前を通り過ぎる

 しばらく見ていた宗兵衛は、ふと下を見ておもむろに笑い出した


「はっははははは」

 道行く人が怪訝そうに宗兵衛を見ていく



(轍か… 俺と甚左はこの轍だ。二本の轍は決して交わることはない。だが、向かう先は常に同じ方を向いている)


 荷車の轍を見ながら宗兵衛はすとんと心が落ち着いた

 また久々に気力が湧いてくる思いだった



「春!春!少しいいか!」

 帳場に戻りながら、宗兵衛は息子の嫁の春を呼んだ






 五年後の慶長十五年 三井越後守高安はこの世を去った


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る