第20話 誰がために



 1596年(文禄5年) 秋  越前国丹生郡三国湊



「感じたか?」

「ええ、父上も?」

「また地震かもしれぬ…」

「あの時は恐ろしかったですね」


 仁右衛門と市左衛門は鹿磯からの行商の帰り、泊まっていた宿で揺れを感じていた

 雑魚寝している周りの者も揺れを感じたらしく、暗闇の中でざわざわとした人の空気が満ちていた


「八幡は無事だといいが… 帰りの足を速めよう」

「はい」




 帰る道々は地震の噂で持ち切りだった

 どうやら近江に近付くにつれて揺れが大きくなっていたようだ

 たびたび襲い来る余震を感じながら、仁右衛門と市左衛門は帰り道を急いだ




「ふく!無事か!?」

 八幡町の店に駆け込むなり仁右衛門は家の様子を見回した

 家の中の物がまだ乱雑になっているが、とりあえず怪我人・死人は出ていないようだった


「あなた。よくご無事で…

 八幡はだいぶ揺れましたが、ご覧の通り皆無事です。扇屋さんが京に行っていた手代が帰って来ないと…」

「そうか。京がひどいのか…」




 旅装を解くと荘右衛門の扇屋を訪ねた


「八幡はどうやら無事なようですが、京の様子はわかりますか?」

「いえ、それが地震の日に京へ行っていた手代が戻らないのです。今人を遣って探させていますが…」


 話している内に探しに行った下男の帰りが告げられた


「すぐにこっちへ!」

 荘右衛門がすぐに通すと、共に被害状況を聞いた



「京はここらと違い、大きな被害が出ておりました。伏見のお城は建物が崩れ、圧死する者数百名との噂です」

「そうか… 復興にはまた時間がかかるかもしれませんな」

「災害は恐ろしい。備えて備えられるものではありませんが、何とか考えられるだけの手を打たねばなりません」

「取り急ぎ、八幡町でも壁が崩れた店や、流民たちの処置を行わねばなりますまい。

 綿屋さんに諮りましょう」




 綿屋西村嘉右衛門はこの頃、八幡町の肝煎り役を務めていた


「幸い八幡町で死者は出ていません。崩れた建物の手直し普請と、炊き出しを行いませんか?」

「そうですな。我らにて費えを賄っていきましょう」

「これも利を得た者の責務ですからな」




 八幡町では富裕商が率先して復興や炊き出し等を行った


 この後の時代においても八幡の豪商たちは、災害や飢饉、不況による飢民への施しや寺社仏閣の普請による公共事業での雇用創出など、私財を投じて公益事業を行う者が多く現れた


 扇屋伴家は特にこの家風が強く、『利を得て、世の中に返す』ことを信条としていた




 1598年(慶長3年) 冬  能登国鳳至郡鹿磯




「あんた、この雪の中を来なすったのかね!?」

「ええ、軍勢と違って身軽な行商ですからな」

「ささ、早く上がりなさい。今湯を沸かしてやろう」

「これはありがとうございます」


 傍らでは三男の久右衛門が歯をガチガチと震わせている

 三郎兵衛の娘のたえが温かい湯を持ってきてくれた

 足を漬けさせてもらって、ようやく人心地ついた



「しかしまあ、こんな雪の中を大したもんだ。行商人さんとはそこまでするものかね」

「手前だけかもしれませんが、夏でも冬でも荷を必要として下さる方がいる限り通いますよ」

「大変なもんだなぁ」


 鹿磯の漁村の名主 三郎兵衛が感心したような声を出す

 仁右衛門は夏でも冬でも関係なく行商を続けていた

 しかし、冬に蚊帳は売れないので、麻と木綿の服とふすまを持ってきていた

 衾は服の中に綿を詰めた『どてら』のようなもので、掛布団が一般的になる明治までは庶民は衾を着込んで、板間に莚を敷いて寝ていた

 農村では藁に潜り込んで眠る


「しかし、今年の冬は良く冷えますな」

「なんの。昔よりはずいぶん暖かくなってきているように感じますぞ」

「そうなのですか?昔の寒さは厳しかったのですなぁ…」



 小氷河期と言われる戦国時代も、慶長のこの頃になると寒さが和らぎ、作物の実りも少しづつ改善していった



「今年は漁のほうはいかがでした?」

「なかなか大漁とはいかんですな。取れるのはイワシばかりじゃ。わしらが食うても食いきれんので、畑の肥やしになっとりますわ」


「畑の肥やしですか?」

「左様。なんせ網を投げたらイワシばかり掛かりますでな。わしらが食う分には良いが、お殿様へ差し上げるわけにもいきませぬ。

 結局干して畑に撒いております」

「作物はよく育つので?」

「ええ。草肥よりも育ちが良いと百姓たちも喜んでおりますよ」


「三郎兵衛殿、夏にはその干したイワシをもらって帰っても良うございますか?」

「ああ、かまわんよ。網で掬えば山盛りになるくらいじゃで、あんたならタダで持って行ってもらってもかまわん」

「いえ、きちんとお代はお出ししたい。実は手前の住む八幡周辺では草肥が不足し始めておりましてな。

 持って帰ってやれば百姓たちも喜びます」


(良いことを聞いた。次の夏は馬を引いて来ることにしよう)




 この当時、畑作の肥料は刈った草を燃やした草木灰や人糞などを主に使っていた

 江戸時代も中ごろになると、麻や綿の栽培で干したイワシを肥料として使うことが主流になってくる

 特にイワシが腐るほど取れた北陸では、戦国時代から一部漁村の兼業漁師は、自分の畑に干鰯ほしかを使っていた



 この年の夏に太閤秀吉が亡くなり、朝鮮へ派遣されていた諸将は続々と引き上げていたが、引き上げの中で五奉行を中心とした文治派と戦働きを主とする武断派の間で深刻な対立が起こり始めていた




 1600年(慶長5年) 夏  近江国坂田郡佐和山城




 内大臣徳川家康が先月に上杉討伐に発ち、その空隙を狙って石田三成が事を起こすという風聞が出るなど、世の中は俄かにキナ臭い空気を孕んできていた

 そんな中、綿屋西村嘉右衛門が佐和山城主石田三成に呼ばれた

 要件を察した仁右衛門達は、主だった者全員で佐和山城を訪れていた



「面をあげよ。石田治部少輔である」


 仁右衛門は三成の顔を見た

 カンの強そうな苛立った顔をしていた

 義に厚いという噂だが、これでは人は心を許すまいと改めて思った



「よう来てくれた。実はそなたら八幡の者たちに頼みがあるのだ」


 せっかちだが、機嫌は悪くなかった

 代表者である嘉右衛門だけでなく、主だった商家が全員で来たのだ

 積極的に協力する心づもりと受け取っているのだろう



 商家を代表して嘉右衛門が口を開く


「頼み、と申されますと?」

「うむ。兵糧を二百石、都合してもらいたい」

「二百石… 」


 嘉右衛門が言葉を失った

 仁右衛門が横から口を挟んだ


「畏れながら、二百石もの米を軽々に右から左へと動かすのはいささか難しゅうございまする」

「そなたは?」

「八幡堀の出入調査を命じられておった、西川仁右衛門と申します」

「左様か。すぐに動かせぬのならば八幡堀から佐和山へ送るが良い。十日の間ならば待とう」

「お待ち下され」

「何事も豊家の御為である」

「…」


 有無を言わせぬ物言いにむかっ腹が立った



「 …知ったことではありませんな」


 仁右衛門の言葉に三成が青筋を立てる

 今にも斬りかからんばかりの目をしていた



「 …もう一度言うてみよ」


「『豊家の御為』などと、知ったことではない と申し上げたのです!」

「貴様ぁっ!」


「お手討ちになされるのであれば、どうぞこの首差し上げまする!

 八幡町を開き、良く領民を撫育し、今の我らを作ろうと尽力下さった前関白さきのかんぱく様を、自分の息子かわいさの余り、あらぬ疑いをかけて腹切らせるようなお方の為など、知ったことではない!」


 三成は青筋を立てて睨みつけていたが、仁右衛門はキッと睨み返していた

 仁右衛門だけではなく、集まった全員が同じように三成を睨み返していた

 こうなれば一蓮托生だった



「貴様ら…覚悟はできているらしいな」

「お手討ちになされるのならばどうぞと申し上げている!ただし、我らがここで討たれれば以後八幡町は豊臣家の御為に働くことはございませぬ!」


 ピクッと三成が震え、改めて集まった面々を見回した



 綿屋  西村嘉右衛門

 山形屋 西川仁右衛門

 扇屋  伴荘右衛門

 最上屋 西谷源左衛門

 麻屋  市田庄兵衛

 米屋  内池宗十郎

 灰屋  中村九兵衛



 八幡山城が廃城となった後、実質的に八幡町を支配していると言っていい面々だった


 三成は彼らが打ち揃って来た事のもう一つの意味を理解した



 今ここで彼らを手討ちにすれば、八幡町は安土と同じく農村に逆戻りする

 京・大坂にはまだ及ばないが、今後貴重な財源となる町である

 豊臣家の御為に、失うわけにはいかない町だった



「例え嘘であっても、天下万民の為、民の安寧の為に協力せよ と申されたのならば、喜んで協力いたしました。

 我らとて豊臣のお家を憎んでいるわけではございませぬ。


 が、『豊家の御為』と武士の都合でこれ以上振り回されるは、真っ平でござる!


 失礼いたしまする!!」



 言うや、全員で頭を下げて広間を後にした


 三成はギリギリと歯を噛みしめながら商人達を見送った







「とうとう言ってしまいましたな」

 佐和山城からの帰り道、荘右衛門が言葉とは裏腹にせいせいした口調で話す


「あまりに身勝手な武士の都合に、ついカッとなってしまいました。

 皆様を巻き込んでしまって、申し訳もございません…」

「いや、ああ言って下さって私もせいせいしました」

 荘右衛門だけでなく、全員が同意の顔で仁右衛門を見た



「しかし、これでいよいよ徳川様に勝っていただく他はなくなりましたな」

 荘右衛門が遠く東の空を見上げながら言った



 戦の事はわからんが、なんとか徳川が勝ってくれねば、我ら全員の首が飛ぶな…




 1600年(慶長5年) 秋  近江国坂田郡佐和山




 仁右衛門達は、佐和山の軍勢に攻められるかと恐れていたが、三成はどうやらそれどころではなかったらしい

 あの後、十日ほどして三成が挙兵し、伏見城を攻め、その後に続く関ケ原の合戦で敗れていた



「徳川様に、ご挨拶に伺いますか」

 その一言で、先の面子が集まり、佐和山城を攻める徳川家康の陣を訪れていた




「この度の戦勝おめでとうございまする」

「うむ、よう来てくれた。兵糧を届け、陣中に茶を振る舞ってくれたそうだな。礼を言うぞ」

「礼などと、とんでもございません」


「ふふ。以前に治部とだいぶやり合ったらしいな」

「恐れ入りまする」


「佐和山攻めが終われば八幡町へ赴く。日牟禮八幡宮を詣でよう。やっかいになるぞ」

「はっ。喜んで。


 ………内府様、一つお願いの儀がございますが、よろしゅうございましょうか?」

「申してみよ」


「我が八幡町では、信長公の安土より引き継いだ楽市の朱印状がございます。また、秀次公・京極様からも楽市を保証する判物を頂いておりまする。

 内府様よりもお墨付きを頂戴できれば、これに勝る喜びはございませぬ」


「…ふむ。では八幡町へ赴いた時に手渡そう。それで良いな?」

「ははっ!ありがとうございまする!」





 佐和山城は九月十八日に落城し、家康はその日の夜に八幡町に入って一泊した



 八幡町の商家はお世話として陣中将兵に食事の饗応をし、家康は鮎の塩焼きに舌鼓を打った


「ああ、そうそう。先に願いのあった判物をつかわそう」

「ありがとうございまする」


 代表して受け取った西村嘉右衛門は朱印状をまじまじと見た


「願い通りを認めておろう」

「…」

「心配いたすな。諸役免除は保証する」


「…ありがとうございまする」



 嘉右衛門は朱印状を押し戴いて懐にしまった

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