第6話 仏敵



 1571年(元亀2年)秋 近江国神崎郡志村城




 金森への援軍として出立した南津田村の兵は、七月に本願寺に同調した神崎郡の志村・小川の両氏への援軍として途中で進路を北に転じ、今は志村城に籠っていた

 八月に岐阜を発した織田信長は、余呉・木之本を焼き払った後、九月一日志村城に対して柴田勝家・丹羽長秀・中川重政・佐久間信盛へ攻撃命令を出した



「大手門が破られれば槍衾を立てよ!」

 大声で正面防衛の将が喚く

 甚左衛門の父と兄は大手門内側で正面からの敵を突く槍衾の一兵となっていた


 ドン!


 ドン!


 ドン!


 門に槌が叩きつけられる音が響いた

 間もなく門が破れるだろう

 外からは織田勢の喚声がうるさく響いていた


 メキッ!


 嫌な音を立ててカンヌキが悲鳴を上げる

 次の一撃で破られるだろう


 ゴンッ!

 ワァァァァァァ


 敵兵が槍を突き出して突進してくる

 甚左衛門の父は夢中で槍を突き出した


 ドス!


 何かに刺さった手ごたえがある

 槍を引き戻してもう一度


 ガンッ!


 突然頭上から槍が振り下ろされ、甚左衛門の父は目の前が真っ白になった


 ドスッ

 正面から槍を受けた

 もういかんようだ

(倅は…木右衛門は逃げられるか)

 赤くなった視界を左に回す

 長男木右衛門が首に槍を受けているのが見えた

(甚左…ちえを頼むぞ…)

 甚左衛門の父 木兵衛はそのまま視界が暗くなり意識を失った




 1571年(元亀2年)秋 近江国栗太郡矢橋




「なんという…」

 伝次郎は絶句した

 比叡山を囲む織田軍へ兵糧を届けるため矢橋の湊へ来ていた

 甲賀が従属を決意したことで最早孤立無援となった伝次郎は、信長へ伝馬の協力を申し出るため兵糧を供出し、以後は従属を誓うつもりであった



 元亀二年の九月に志村城で皆殺しに近い殺戮を行った織田軍に対し、小川城・金森は降伏

 織田軍はそのまま比叡山を囲み、全山に火を放った

 伝次郎が矢橋へ到着した時は堅田・坂本・比叡山など矢橋対岸の視界の正面が全て炎に包まれていた


(ここまでするのか…)

 伝次郎は戦慄した

(確かに比叡山は浅井・朝倉に協力したが…敵対する者は仏すらも焼き払うとは…)

 積極的に協力することで自らの意見を取り上げてもらおうと考えていた伝次郎にとって、今見た光景が終生忘れられぬものとなった



 この当時の比叡山は仏教の府というよりも金貸しの府といった方が正確なほど、銭儲けにうつつを抜かしていた

 信長が『財貨欲得に耽る売僧』といったのもあながち間違いではない

 伝次郎達保内商人の献上する公事銭も金貸しの原資となっていることを承知しており、伝次郎自身それを嫌悪していた


 しかし、中世の慣習の中で培われた比叡山という権威に対する不可侵の観念は伝次郎にもあり、まさか信長が比叡山を攻撃するとは思っていなかった

 せいぜい武力を背景に得珍保の権益を織田に引き渡すように話を付けるぐらいだと思っていた


(兄の配下を借りよう。信義に悖る商いをしている者共をあぶり出すのだ)

 炎に照らされた伝次郎の眼には狂気の光が宿っていた

(自分の意見が用いられぬ時は、実力で不逞の輩を処断するほかない)

 市から暴力を排除し、常に話し合いによって商人間の争論を収めてきた今までの伝次郎からは考えられぬことではあったが、もはやそのような余裕はなかった


 今の伝次郎は自らの理想に狂信的に支配されつつあった





「面をあげよ」

「ハッ!」

 伝次郎は坂本に残る諸将の陣へ兵糧を運び入れ、そのまま京へ上って信長に拝謁を願った

「兵糧を届けたそうだな。山門への義理は捨てたか?」

「はい。改めて伝馬の任、お任せいただければ幸いにございます」

「ふふ。山門が焼けるのを見て気が変わったか」

「…」

 冷たい汗が伝次郎の背中一面に噴出していた

 信長は思っていたよりも上機嫌だったが、それを額面通りに受け取ることは到底できなかった

 何せ一度断っているのだ

 やっぱりやりたいと言ったところで許される保証はない


「まあいい。まずは中山道を岐阜までやれ。そして横山城の藤吉郎へ兵糧を二百石届けよ」

「ハハッ!有難き幸せにございまする!」


 伝次郎はすぐさま野々川に戻ると、周辺の人足を駆り集め、まずは草津・守山・愛知川・鳥居本の各宿駅へ拠点を整備し、各宿へそれぞれ馬五十頭・兵糧五百石を集めた

 その後、鳥居本から横山城へ二百石の兵糧の列を自ら率いた




 1571年(元亀2年)秋 近江国蒲生郡南津田村




「そんな…それじゃあ父さんと兄さんは…」

 報せを受けて甚左衛門の妹のは声を上げて泣き崩れた

 甚左衛門は瞑目していた

 新八はそんな二人を心配そうな顔で見つめていた


「志村城はひどい戦だった。南津田村からは二十人が兵として出て行ったが、帰ったのはわしと権左の二人だけだ」

 甚左衛門は隣の田兵衛が志村城から逃げ帰ってきたと聞いて話を聞きに訪ねていた

 田兵衛の腕の傷は生々しく、起きているのが辛そうだった


 近江金森の一向一揆で唯一の激戦となった志村城

 よりにもよってそこへ南津田村衆が配置されていたとは…

 田兵衛は左腕が使い物にならず、権左は右足に深手を負っていた

 二人とももう農作業は難しくなるだろう



 妹のちえは十二の時から日野城へ女中として奉公に上がっていたが、この八月に宿下がりをして実家へ戻ってきていた

 この時代の女性は十五~六で嫁に行かなければ行き遅れと言われるが、それは『子を産むこと』が主な仕事となる大名や重臣級の武士の子女の話だった

 西川家のような農民の娘は近郷の武家や名主の家へ女中奉公をし、家事仕事を覚える

 というのは建前で、実質は体のいい口減らしだった

 家に居ても小さいうちはできる仕事も限られるし、運よくお殿様や城勤めの武士の眼にかかれば側室としてそのまま奉公が叶う可能性もある

 また、他家へ嫁ぐ姫の付け人としてそのまま姫様の側近く仕えることもあった

 しかし、大半の娘は二十歳を過ぎると宿下がりをして、近郷の者の所へと嫁ぐ

 そのくらいになれば家事仕事もそれなりにこなせるようになるし、農作業の労働力として数えることもできるからだ

 従って一般庶民の娘はおおよそ二十二歳頃、遅ければ二十代後半でようやく嫁に行くということも少なくなかった


 甚左衛門の妹のちえも、武運拙くお殿様のお眼鏡にかなうことが出来なかった

(見た目の器量は決して悪くはないと思うのだが…)

 これは甚左衛門の身内びいきだろう

 ちえは鼻筋は通っていたが甚左衛門と同じくやや下膨れ気味のたれ目で、見目麗しいという感じではない

 だがほんわかとした雰囲気が優しく、側にいて心が安らぐといった娘であった

 現代で言えば癒し系と言われる部類だろうか

 どうやら下膨れの顔は西川家の家系のようだ



「田兵衛さん。よくぞご無事で戻られました。そして、父と兄の最期を伝えて下さったこと、心より感謝します」

 甚左衛門は深々と頭を下げた

 床には涙の跡が点々と残っていた




 1572年(元亀3年) 春  伊勢国安濃郡街道




 越後守となった宗兵衛は伊勢の販路開拓の為伊勢の海岸の湊町を訪れていた

 桑名は一向一揆の籠る長島に近すぎるため避けようと思った

 南の大湊はそれなりに名のある湊町でもあり、湊があれば良い市や商人宿があるはずと視察がてらの旅路であった

 百年ほど前まではこの安濃津が有名な津であったらしいが、明応の大地震による津波で今は荒れ地となっていた


(伊勢は船を使った商いを手掛けている。今は酒の製造は始まったばかりだが、これから生産が増えることを見込めば今のうちにここらでの商いの拠点を作っておきたい)


 賦秀の期待に応えるためにも、日野の産物を積極的に売り出したいと思っていた

 京への販路ももちろん必要だが、音に聞く堺の町へ船で荷を運べれば大きな商いになる

 堺から入ってくる荷もあれば、日野の町も大いににぎわうだろう

 その為には、何よりもまず伊勢の海賊衆を抱える湊町で拠点を作ることだった


 甚左衛門から蚊帳の卸も頼まれていた

 以前は大和蚊帳が手に入らなくなり途方に暮れていたが、偶然にも生家で生産が可能になったという

 甚左衛門自身は越前方面に乗り出したいとのことで、伊勢の拠点はその分も含めて宗兵衛へ委託された

 相変わらず目端が利くというか小賢しいというか…


 まあ、その代り日野の酒や椀も越前方面へ商ってくれるとなれば文句は言えない

 むしろ二人で同じ方向へ行って競合するよりも良いかと考えるようにした


(親父さんのことは残念だったな…ちえ殿も宿下がりで帰るのと入れ違いに父と兄を亡くしたのだ。気落ちしていないはずはない…)


 宗兵衛は甚左衛門の妹のちえが気に入っていた

 城に行く機会が増えて、甚左衛門の妹ということを知って何かと話し相手になることがあった

 甚左衛門は良い友だったし、何よりちえと話すと不思議と心が安らぐのだった


(おれもそろそろ所帯を持っても良いかもしれん)

 宗兵衛も二十四歳になっていた

 武士としてはもうそろそろ身を固める年齢になっていた


 賦秀は

「宗兵衛は好いた女子はおらぬのか?いればわしが世話をしてやるぞ」

 とニヤニヤしながら聞いてくることがしばしばあった

 あれは明らかにちえへの想いを解っていてからかわれているのだ

 思い出すだけで顔が赤くなった

 しかし、なんというか主君の威をかさに着て自らの想いを遂げることに一抹の後ろめたさがあり、中々世話をして欲しいと言い出せぬまま南津田村に帰ってしまった

 内心忸怩たる思いだった。今度行く時は簪でも買っていこうか


(おや?あれは大助ではないか?)

 遠くの方に大助が見えた気がしたが、少ししてすぐに見えなくなった

(気のせいかな…大助は五日前に岐阜へ戻ると言って別れたばかりだ…)

 大助は中肉中背で、遠目には似た人間がごまんといる

 おそらく気のせいだろう


 そう思いながら宗兵衛は大湊への道を歩いて行った




 1572年(元亀3年) 夏  近江国野洲郡守山宿




 三好義継・松永久秀らの裏切りにより東奔西走を余儀なくされていた信長だが、この頃は浅井・朝倉との小競り合いが多く、南近江の通行の安全を確保するため金森に籠る一向一揆を囲んでいたが、七月のこの頃には金森は落城間近となっていた

 伝次郎は守山宿にて陣を張る信長へ兵糧を届けると、そのまま信長に陣内へ留められ何故か共に湯漬けを食う羽目になっていた


「ズズッ 金森がもうすぐケリがつくが、あすこは百姓どもの逃散がひどい。それに戻ったところでまた一揆の拠点になられても面白くない

 我が方の町として再生させる手立てはないか?」

「ズルズルッ では織田方の物資集積拠点と為されてはいかがでしょう?」

「ポリポリ ふむ。馬・兵糧をあそこへ集めるか」

「ズルズルッ いえ、市を立てるのでございます。そして京と岐阜の往還の者は全員金森で宿を取ることとされれば、金森は『織田の市』としての印象を強くしましょう」

「チッチッチッ 良し。ではここを楽市として我が方の手で復興させよう。拠点の整備と伝馬の宿駅は守山宿の者共にも一枚噛ませろ」

「ははっ!」

 信長は東奔西走を可ならしめた伝次郎の手腕を評価していた

 何せ、急ぎ出立すると伝令を出し、それから一刻ほどで出陣しても行く先々へ兵糧・飼葉・替馬・武器・弾薬などの補給が用意万端整えられている

 少数の供回りだけを連れての急な出立でもそれは変わらなかった

 今では宿駅の整備について相談を持ち掛けるほどには信頼していた


 主君と飯を食いながら話すなど伝次郎にすれば信じられなかったが、食わずに話そうとすると斬りかからんばかりの眼で『食え』といわれるので最初は恐る恐るであったが、この頃ではそれが信長なりの信頼の表明なのだと理解していた



 当初は恐ろしさばかりが際立っていたが、話をするうちに当代では稀にみる合理性の持ち主であることがわかり、今では積極的に協力をする気になっていた

 だが、楽市だけはどうにも受け入れられずにいた

 信長の実施する楽市楽座がもとより伝次郎が理想に描いた楽市と差があるのはやむを得ないが、どのような者でも無条件に受け入れるということがどうしても引っかかっていた

 もちろん、伝次郎はそんなことはおくびにも出さなかったが…




 九月に入ると信長にとって二例目となる金森楽市楽座が正式に制定された


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