五代 利助の章

第50話 デフレーション


 


 1717年(享保2年) 夏  上野国片岡郡高崎 麻屋




 市田清兵衛は日野椀の行商人中井市左衛門の使用人である彦四郎の訪問を受けていた


 清兵衛は関口又右衛門の借宅で営業していたが、二年前の正徳五年に柏屋理左衛門の借家を買い取り、自家店舗として麻屋上州店を移転していた



「日野の行商人さんですか。この辺りを行商していかれるのですかな?」

「ええ、中山道を東へ東へと商圏を広げております。ここ上州でも日野椀を始めあらゆる諸色を行商しておりますが、麻屋さんでもお取り扱いいただければと思いまして」


「まあ、小間物も扱っておりますし、こちらとしては構いません。

 噂のお薬もご一緒によろしいですかな?」



 彦四郎の顔がぱあっと明るくなる


「ええ、神農感応丸も持ち込ませていただきます。あれは各地ですこぶる良い評判を頂いておりますので、麻屋さんでも扱って頂ければ我ら日野商人にとっても本望です」

「それはよかった。このような鄙びた所ではなかなか村医者が居る村も少ないですからな」



「村医者と言えば、信濃の山中の村でも最近では読み書きの師匠を招いたり、大きな村では村医者を村人で世話して治療に当たってもらったりと、鄙びた所だからと馬鹿に出来ないほどより良い生活を営んでおられますな」

「こちらの上州の村でも心利いた庄屋さんなどは講で子供達の教育や医者を招いて定住してもらうといったことを行っておられます

 少しづつですが、日ノ本が豊かになっていくのは良いことですな」



「豊かになるのは良い事なのですがね…」


 彦四郎が少し顔を曇らせる


「何か気になる事でも?」

「ええ、先年来元禄小判が廃止され、正徳小判を使うように触れが出されております

 どうにもあの改鋳以後は産物に対してカネが少なくなっているようで…

 最近作った商品も買うカネがなくて売れない、あるいは値下げせざるを得ないという事が起きて来ておりまして…」


「ああ、それは手前も感じております

 何やら世の中にカネが少なくなっておるような…」


「我ら行商はカネを持ち歩くのは危ないので、掛売で農村に売りまわっておるのですが、集金に支障をきたす事も出てきておりまして…

 なにやら世の中は不景気な話が多くなってきておりますなぁ…」


 清兵衛も顔を曇らせた

 八幡町の蚊帳仲間達も価格を統制しているが、新規商人の中には売れ行きが悪い事をなんとかしようと仲間の目を盗んで安売りをしている者も居ると聞く

 物の値が安くなる事自体は悪い事ではないが、織賃を稼ぐ者にとっては死活問題となる難しい問題だ



 ―――なんだか最近、不景気な話ばかりだな


 清兵衛は心の中で嘆息した




 1718年(享保3年) 夏  駿河国駿東郡御厨郷御殿場村 日野屋




 日野商人・山中やまなか兵右衛門ひょうえもんは宝永年間から駿河方面へ日野椀を行商していたが、近頃の不景気で行商が不調となり、思い切って御殿場村に店を構えていた

 店と言っても八幡商人の大店には比べるべくもなく、桁行五間(奥行約9m)張三間(間口約5.5m)という小規模なものだった



「兵右衛門殿、御殿場村とはなかなか良い所に目を付けられましたな」


 兵右衛門は祝いに来ていた谷田庄兵衛と奥の一間で茶を飲んでいた


「ありがとうございます。この辺りは前から農閑期の行商が活発な所ですからな

 関東各地では最近日野の行商を出入り禁止にするご領主様も増えておりますれば、ここを拠点に彼らの販売網を使わせてもらおうかと…」

「我ら大当番仲間も色々と運動しておるのですが、中々領内のカネを外に持ち出す不埒者という評判を覆せません

 当地の商人として領内の産物を扱われれば、お上の評判も違ってきましょう」



『近江泥棒』のもう一つの解釈は、日野商人達が掛売で農村に行商したため領内の財産を近江に持ち去っているという風聞からきたという説がある


 掛売は今でいうクレジットカードによる買い物で、買えば当然に後日の支払が発生する

 充分にカネを稼ぐ力のない純農村では掛けの支払に苦慮し、借金を背負う者まで出る始末で、上州や奥羽山形領などでは『日野商人に一夜の宿や一時の休息所も貸してはならない』という触れが享保年間に出されてる

 

 とはいえ、聖書の言葉を借りれば『人は米のみにて生きるものにあらず』というべきで、豊かな暮らしを求める民は次々と行商達から都市部の小間物や絹・木綿の呉服、珍しい食品などを買い求めた



 日野商人達はこれに対応するため、当地に自らの出店を構え、当地の産物を商うことで農村の『カネを稼ぐ力』を強化した

 享保の改革では米や野菜以外の商品作物の栽培は原則禁止されていたが、副業の裏作として商品作物の生産は盛んに行われていた

 農業は生きる為の食糧を作る行為からカネを稼ぐ手段へとその姿を変えていた


 地域密着型の出店である以上、店舗は大規模である必要はなく、むしろ『村のよろず屋』として小さな店は村々からも愛される存在になっていった



 兵右衛門は茶を一口すすって話題を変えた


「上方と関東との登せ荷・持ち下り荷の整備は順調ですか?」

「ええ、大当番仲間の定宿として出店を構えた皆さまの店を使わせてもらっています

 日野屋さんにも日野の定宿に参加していただければありがたいのですが…」


「もちろん、存分に使って下され

 我が家としても日野の商いに参加するのは義務でもありますからな」

 厳めしい顔つきで兵右衛門は慇懃に頷く


「間で良い荷を抜けば、ここを拠点に大きな行商網が敷けますからなぁ」

 庄兵衛がニヤリと笑って兵右衛門の目を見た


「はっはっは。バレましたか」

 兵右衛門が笑いながら頭を掻く


 大当番仲間の定宿網に参加すれば、常陸国や下総国、上野国や奥羽諸国などの産物が日野屋を通ることになる

 良い産物があれば自分で買い取って、地元の行商人に卸せば、駿東郡一帯に全国の産物を流すことができるだろう

 小規模店舗とはいえ、見た目に似合わぬ巨大な商いになることは兵右衛門の目には見えていた


 御殿場村は箱根の麓にある街道沿いという好立地を生かして、延宝年間から農閑期には馬継や行商などで小遣い稼ぎをする者が多く、貨幣経済が比較的浸透している地域だった



 景気の悪化は古い商売を圧迫するが、その中でもアイデアを工夫して商売を拡大する者が出始めるのも人の営みの面白い所だ


 日野商人達にとっては享保の不景気は、小規模店舗を多数開くきっかけとなった


 後に『日野の千両店』と呼ばれる小型店舗を多数開くスタイルは、百貨店の大店舗立地に対して日常生活に密着する小規模スーパーやコンビニといった多店舗展開の先駆けとなるビジネスモデルだった




 1720年(享保5年) 秋  近江国八幡町 扇屋




 蚊帳株仲間の寄合で、今回は『扇屋』伴伝兵衛家に集まっていた

『山形屋』五代目利助も最近では寄合も慣れたものだが、今回は少し重い議題になることが判っていたので、向かう足取りも重かった



「皆さん、今回は我が家から不始末を仕出かしまして、誠に申し訳ございません」

『扇屋』本家 伴荘右衛門が開口一番頭を下げる


「お顔を上げて下され

 これは一人扇屋さんの問題ではありません。他にも新規商人によって同じことが出ているのはここに居る全員が承知していることでしょう」

『大文字屋』本家 西川利右衛門がなだめる

 利助も同じ思いだった



 ―――新規商人か…


 利助はここの所の話を思い出してた




 事の始まりは京の蚊帳卸問屋三家が、八幡町の蚊帳株仲間に『京での直接販売の規制』を申し入れた事から起きた

 正徳金銀とそれよりも品位の高い享保金銀の流通はデフレ圧力を強くし、従来の八幡町の直売が継続すれば京の卸問屋の経営が立ち行かなる事態となる

 そのため、京での価格統制の一貫として蚊帳を三家への卸売りのみに限定してほしいという事だった


 価格を守ることは買占め等による相場の高騰を防ぐのが主眼だが、安くなりすぎればそれはそれで株仲間にとっても困った事態となる

 そのため、販売価格を一定に保つという約束の元に京の卸売問屋の申し入れを承諾した



 しかし、デフレによって世の中が不景気になると、当然ながら蚊帳の売れ行きも悪くなる

 京への行商販売を行っていた扇屋の分家、伴太郎兵衛は困窮し、独自に蚊帳を八幡町近郊で製造し、こっそりと直販を行った

 元来株仲間によって買い占められていた織屋も、不景気の影響でちょっとでも多く売れるのならばと太郎兵衛に協力した


 そして、掟破りの直販が発覚し、今回の会合となったわけである

 問題は、同様の事をするのは太郎兵衛だけでなく数人の新規商人が居たということだった



「扇屋さんに締め付けをお願いしたとしても根本的な解決にはなりますまい

 問題は蚊帳が我らの目の届かぬところで作られていることでございます

 ここは、越前の綛問屋に申し入れて、原材料を我ら株仲間で抑えるようにしてはどうでしょう?」

『大文字屋』分家の西川庄六が発言する


「そうですな…

 織屋や染屋などにも手を回して、新規商人達が我ら以外から蚊帳を手に入れられないようにしなければこのままズルズルと統制が取れなくなります

 そのうちに安かろう悪かろうの粗悪品を平気で扱う者が出れば、蚊帳商い自体が手ひどい傷を被ります」

『嶋屋』弥兵衛が庄六の提案に賛成する



「あの…彼らを仲間に加えることは検討されませんか?」

 利助は思い切って発言した

 株仲間の重鎮『山形屋』の当主とはいえ、この面子の中では新参者だから遠慮がある


「彼ら新規商人も加えていけば、株仲間の統制は無理をせずとも継続できるのではないでしょうか?」



「それはいささか難しゅうございますなぁ…

 彼らが大人しく服してくれるならそもそもこのような問題も起きないわけですし…」

「左様左様。我らとて望んで力づくで排斥しているわけではございません

 しかし値段と品質を守る事は蚊帳という商品そのものを守る事です

 彼らは今は値下げしてでも売捌きたいと考えておりますが、次に景気が回復した時に値上げをするのは至難の業

 結局儲からなくなった蚊帳はいずれ織屋も染屋も撤退し、最終的には蚊帳そのものが衰退するでしょう」

「利助殿の言いたいことは分かりますが、ここはなんとか価格を守るということを第一に考えていかねばなりません」


 周りの老人おとな達から集中砲火に遭って利助は俯いた



 ―――あまり排斥や争いを身内同士でやっていたくはないのだがなぁ…

 日野や五箇荘からは新たな商人達も台頭してきている

 これからは八幡の豪商といえども難しい舵取りをせねばならんようになるだろうに…




 結局はこの日の会合は織屋と染屋に株仲間以外に卸さない事を徹底させるということで跳ねた

 新井白石のもたらしたデフレ景気は、元禄期の商人達を逆風に置き、生き残る体力のない者は徐々に淘汰されていった



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