第69話 楽市の御朱印状


 


 1823年(文政6年) 春  伊勢国松坂 越後屋松坂本店




 越後屋の出身地である伊勢の松坂本店を預かる彦三郎は、紀州徳川家から呼び出され、代官所へ伺候していた。


「越後屋松坂店支配人、彦三郎にございます」

「うむ。呼び立ててすまぬな」

 紀州藩家老の渡辺登綱が鷹揚に頷く。一体何用かと彦三郎は戦々恐々としていた。


「実はな、越後屋始め伊勢の商人達に一つ銀札の発行を頼みたいと思っての」

「銀札を… ということは、我らにその発行元になれということですかな?」

「うむ。その通りだ」


 ―――悪い話ではないな


 彦三郎は素早くカネ勘定を始めた。

 てっきり御用金の命令かと思っていた。紀州藩ではこの頃『こぶち騒動』などの百姓一揆に悩まされ、財政は豊かとは言えなかった。


 折角安永の持ち分けで処理した貸金も再び御用を申し付けられ、越後屋にも負担になっていた。

 江戸を中心とする大量消費型経済は国富の増大をもたらしたが、未だに生産設備の開発までは考えが至っておらず、旺盛な内需に対して生産される商品が不足し、徐々に物価の高騰を招いていた。



 銀札の発行を引き受けるということは、現代風に言えば紀州国の中央銀行を務めるということで、越後屋が発行する銀札は越後屋が銀貨に交換する兌換紙幣として発行される。

 未だ全国的に行われてはいないとはいえ、日本の貨幣経済は新たなステージを迎えていた。


 兌換紙幣の発行は、それを裏付ける本位貨幣の保有が必須であるとはいえ、一度に全ての紙幣が兌換されることは滅多にない。

 例えば、発行される紙幣の内二割ほどが他国との商取引に使われて銀貨に交換されると仮定すれば、越後屋が二百両分の正貨を用意しておけば一千両分の紙幣を発行することが可能になる。


 未だ幕府では改鋳差益の出目を得るための改鋳を繰り返していたが、通貨発行当局ではない地方政府では、それに代わる独自紙幣として銀札や金札を発行していた。

 物価の高騰に対応して領内の通貨供給量を増やして商取引を活発化させ、通貨不足によるデフレを解消するために知恵を絞った結果だった。



「念の為、当主の八郎右衛門へもお伺いを立てたく思います。お返事に関してはそれからでもようございましょうか?」

「うむ。一つよろしく頼む。此度は越後屋だけではなく他の商人にも頼むことになろう。

 越後屋からも口を利いてもらえれば助かる」

「承知いたしました。その件も含めて、主と相談して参ります」


 この年の四月に越後屋は正式に紀州藩の中央銀行として銀札の発行を請け負う事になる。

 天下の越後屋の信用は絶大で、伊勢の銀札は強い信用力を持って広く流通した。

 この頃に蓄えたノウハウによって、三井は金融機関としての制度を整備していく事になった。




 1823年(文政6年) 夏  近江国八幡町 蓮照寺




 文政五年の江戸での訴えの結果改めて八幡町の諸役免除特権が確認されたが、裁きが出てからも町内の騒動は続いていた。

 今回の特権を勝ち得たのは徳川家康の御朱印状によるものであり、家康の功徳によって町が救われたとする町衆と、領主朽木氏の運動の成果があったという総年寄や御仕送り老分の者とで対立が起きていた。


 言い換えると、中産階級である町衆と上流階級である豪商達とで対立が起き、一枚岩の連帯は既に崩れてお互いがお互いの主張を譲らぬ様相となっていた。

 中産階級ブルジョワジーの台頭によって上級貴族との軋轢が生じ、ついにはフランス革命を引き起こした階層間対立と全く同じ構造だった。


 このような世相の中、九代目を継いだ甚五郎は後見人である七代目の仁右衛門と共に町衆の説得に当たっていた。


「ですから、朽木様の運動の成果もあったことは認めなければならんでしょう。これ以上領主家を軽んじれば、八幡町にとっても良い事にはなりませんぞ」

「いいや、何といっても権現様の御朱印状のおかげで特権が認められたんです。この上は、今まで以上に権現様を敬い、我らに特権を授けて下さった功徳に永代、お礼申し上げて行かねばなりません」

「しかし、それでは朽木様が汗をかいてくださった甲斐がないではないですか」


 町衆の代表者である紺屋仁兵衛との話し合いは平行線だった。

 まだ若干二十歳の甚五郎は、いつまでも続く衆愚との話し合いに辟易していた。

 よく伯父の仁右衛門はああも忍耐強く説得に当たれるものだと、感心するやら呆れるやら…


「ともかく、これ以上の騒ぎは差し控えねば、折角認められた特権がまたしてもご公儀の目に付くことになりますぞ」

「それならば、私らの要求も聞いてください。御朱印状の封印を実施するのに、町衆の代表者である町方惣代も加えて欲しいという、その一点です。難しい事ではないでしょう」

「いや、しかし…」


 御朱印状はお仕送り老分の者が順番に預かっていたが、年に一回虫干しがてら内容を確認し、総年寄とお仕送り老分の者で封印を施していた。

 今回の騒ぎの原因は、その封印に町方も携わらせろということだ。



「わかった。そこまで言うのなら、代表者として紺屋仁兵衛と弦屋徳兵衛、それに野田増兵衛と北村次郎右衛門を参加させよう」

 仁右衛門が決然と言い放った内容に、甚五郎は驚愕した。

 を知る者を一挙に四名も増やして良いのかと不安に駆られた。


「…ただし、内容に関しては他言無用ぞ。仮に漏れれば、命にかかわると思え」

 仁右衛門が久しく見せなかった鋭い眼光で一座を見回す。

 舌鋒鋭かった紺屋仁兵衛も思わずたじろいだが、ともあれ目的が達せられるのならばと承知した。


 扇屋や大文字屋などは尚も反対していたが、このままではまたぞろご公儀が介入するという仁右衛門の説得によって結局は町方惣代にも共有するという結論に至った。




 1823年(文政6年) 夏  近江国八幡町 山形屋




 今月の御朱印預番である山形屋で、虫干しを兼ねた御朱印状の再封印が行われていた。

 通常は総年寄とお仕送り老分の者だけが参加するものだったが、今回は騒動を収めるために町方の代表四名も同席していた。


 箱の封印が解かれ、信長・秀次・家康の下したそれぞれの御朱印状が場の全員に回覧される。

 内容の確認と、固く秘密を守る事を誓い合う儀式のようなものだった。


 まずは信長の朱印状から回覧される。

 仁右衛門は四枚つづりの長い御朱印状をうやうやしく受け取ると、すぐに隣の野田増兵衛へと回した。

 内容など何度も見て知っているので、別段面白い物でもなかった。


『安土山下町中

 一、当所中楽市と仰せつけたるの上は、諸座諸役諸公事悉く免許の事』

 これを受け取っていることが、紛れもなく信長の安土町の後継都市として八幡町が開かれたという根拠になった。


 続いて秀次の黒印状が回って来た。

『八幡山下町中

 一、当所中楽市と申しつけたるの上は、諸座・諸役・諸公事悉く免許の事』

 これも内容はほとんど同じで、目立った違いと言えば朱印ではなく花押が据えられている事くらいだ。


 最後に家康の朱印状が回って来る。

 さすがに家康の朱印状なので粗雑に扱うことは出来ず、仁右衛門は一層うやうやしく受け取った。

 だが、朱印状を一瞥するとこれも直ぐに野田増兵衛へ回す。

 何度も見た文面で、今更という感じが強かった。


『禁制  八幡町中

 一、軍勢甲乙人乱暴狼藉之事

 一、放火之事

 一、田畑作毛刈取之事。付竹木剪採事


 右堅令停止、若於違犯之輩者速可処厳科者也、仍下知如件


 慶長五年九月十九日 徳川内大臣家康』



 ―――ただの禁制を諸役免除の御朱印状に仕立て上げるとは、初代様達もよほどに胆の据わった事を…


 これが八幡町の神君御朱印状だった。

 文面はただの禁制であるが、信長・秀次の楽市令を追認するものとして発行された。

 つまり、武士にとっての本来の意味での楽市とは、これだけの事だった。


 戦国期において、常時敵国の略奪や野盗の侵入に悩まされた商人にとって、何よりも希求されたのは『平和』である事。

 自らの名においての平和を宣言することで、自らの縄張りとして主張し、自らの保護下に置く為の政策。

 他国領から人を呼び込み、自国の人口を増やして国力を増強し、他国の国力の源を減少させるための宣伝政策。

 諸役免除や自由商業などは、有利な条件で他国の領民を釣り出すための後付けの理由に過ぎない。

 ただの縄張り宣言。それが『戦国武将にとっての楽市楽座』の本質だった。


 戦乱の世が収まるにつれて楽市が忘れ去られたのもある意味当然だろう。

 慶長を過ぎ、豊臣家が滅亡した日本において、平和とはすでに当たり前にそこにある物だったからだ。



 しかし、商人にとって『楽市』とはもっと特別な意味を持つのだろう。

 この朱印状が八幡町において二百年以上の長きにわたって保管され、共有されてきたのはそれがただ特権を示す文書だったからだけではなく、それが座から分離した商人個々のアイデンティティだったからではないか。

 楽市は中世の座というグループから商人を分離し、独立した『個』としての商人を生み出す契機となった。


 代を経て、商人達は個が集まった『株仲間』というグループを再結成した。

 しかしそれは座とは違い、一蓮托生ではなく自己責任による共同体だ。

 明治を経て商店が企業へと変わっていき、現在の経済大国を創り上げる原動力になった。


 文書を発給した戦国武将達が全く意図しない所で楽市によって生まれた出でた商人達がこのような進化を遂げる事は、歴史の不思議としか言いようがないと思う。




 仁右衛門から『禁制』の御朱印状を受け取った野田増兵衛は、焦った様子で何度も読み返しては虚空を見つめている。

 諸役免除の文言を必死に探しているのだろう。

 自分も初めて立ち会った時は同じ反応だったなと仁右衛門は少し可笑しかった。


「あの… ここには諸役免除が…」

 縋るような顔で野田増兵衛が仁右衛門を見上げていた。

 仁右衛門はおもむろに口に人差し指を当て、他言無用と無言で念押しする。


 ―――さて、これからどうなるかな


 少なくともこの場に居る四名は大人しくなるだろう。

 二百年以上に渡ってご公儀を騙していたと知ったわけだから、これ以上騒いで武士の介入を招くような愚かな真似はするまい。

 武士の中にも真相を知っている者も居るはずだ。

 だが、素知らぬ顔で特権を認め、代わりに御用金を出させた方が役に立つという政治的判断で知らぬ顔をしているのだろう。

 八幡町がカネの力を失えば、たちまちに特権は取り上げられるはず。

 町方一統で心を一つにというのはお題目ではない。真に一つになっていなければ、町の存続が危うくなる。

 それほどの大事なのだ。





 その後、代表者を失った町方は求心力を欠き、町方騒動は尻すぼみとなって沈静化した。

 既に八幡町を取りまとめる力を失いつつあった朽木主膳家に代わり、本家の福知山藩から家老が派遣され、騒動の首謀者たちの処罰を持って文政の御朱印騒動は決着した。


 三年後の文政九年には知行替えがあり、八幡町は再び天領へ復することになった。



 天領再編入に先立つ文政八年

 七代目利助、隠居の仁右衛門はこの世を去った。


 享年七十九歳

 定法目録を整備し、当主の独裁的な『商家』から近代的な『商店』へと組織を変え、後の西川産業の基礎を創り上げた業績は、まさに山形屋の『中興の祖』というべき偉業だった。



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