第11話 本能寺よりの文



 1582年(天正10年) 夏  近江国蒲生郡安土



「毛利の征伐に向かう。道中四国や中国の情勢も集めねばならぬ。その方は兄・太郎左衛門尉と共に随行し、道々の報告をあげよ」

「はっ」

 安土城の茶室で伝次郎は信長と対面していた


 信長は先年よりの伝次郎の活動を知ってはいたが、その多くは治安を乱す賊徒と他国の間者の成敗であると理解していた

 そのため、出入りの商人として堂々と茶室などで密談が可能な伝次郎をむしろ重宝するようになってきていた

(今は商人というよりも忍びの頭領か)

 伝次郎は自分の運命の皮肉を笑った

 元々は諜報活動の為の商売だった

 いつしか商売の理想に燃え、忍びの自分よりも商人としての自分を誇るようになっていった

 だが、結局は忍びとして生きることになってしまった

(甚左ならば我が願いを叶えてくれるかもしれぬ)

 甚左衛門と対面したあの日から、伝次郎の狂気は見る影もなく収まっていた

 良き商人となってくれた

 そのことを誇ると共に、一度夢に挫折した自分に一抹の寂しさも感じた



 天正十年は日本史上でも指折りの大事件である本能寺の変の年である

 この年の三月に長年の宿敵武田を滅ぼし、越後の龍上杉謙信も先年の天正五年に病死していた

 本願寺は和睦と言う名の事実上の降伏をし、日本全国にはまだ群雄が割拠しているとはいえ天下は織田に定まったかに見えた

 四月に甲斐より安土へ凱旋したが、翌五月中国攻めの羽柴秀吉より『上様御出馬』の要請があり、中国への出陣を控えていた


 天正十年五月二十九日

 一代の英雄織田信長はその最期の地となる本能寺へと向けて出立した

 従う者は小姓数十名のみという小勢であった

 兄太郎左衛門尉と京で合流することを確認すると、伝次郎は信長に従って本能寺へ向かった



 1582年(天正10年) 夏  京 本能寺



「明智勢が京を取り囲んでおります!間もなくこちらへ攻め寄せる構えでございます!」

「なにぃ!?」

 太郎左衛門尉は配下の報告に忍びらしからぬ声を出して立ち上がった

 六月一日夜に伝次郎と合流し、各地の配下の報告を共に吟味しているところだった

「周囲は完全に包囲されています。ここへ辿り着けたのは某だけです」

 配下の一人仁助がそう言うと頭を垂れた

「いかん!上様へ至急お知らせせねば!」

 そういうと兄は慌ただしく部屋を後にした


「ご苦労だった。お主一人ならば包囲を抜けることはできるか?」

「はっ!逃げ延びるだけであれば…」

「それでいい。今文を書く。それを安土にいる荘右衛門へ届けてくれ」

「承りました」

 伝次郎は優し気な顔で頷いた


 急いで文を二通したためた

 一通は息子の荘右衛門宛てだ

 荘右衛門はもう二十歳になっていた

 忍びの訓練はさせず、商いの事だけを叩き込んできていた


「これを」

「伝次郎さまは…」

「私はここらが潮時だろう…」

 寂しそうな、それでいて清々しい笑顔だった

 仁助は胸を締め付けられた

「そろそろ良かろう。これ以上長居をしては逃げるのも難しくなる」

 本能寺の中は俄かに騒がしくなっていた

 まだ明智勢は侵入してはいないようだが、先ほどから小姓たちがバタバタと弓・槍・薙刀などを用意していた

「御免!」

「達者でな」

 仁助は一瞬うつむくと、音もなく走り出していた


(悔いがないと言えば嘘になる。だが…)

 伝次郎はニヤリと笑みを浮かべて刀を抜き払うと、塀を乗り越えつつある雑兵達の方へ駆けて行った



 1582年(天正10年) 夏  近江国蒲生郡日野城下



「今…何と?」

「先ほど安土へ知らせがあり、上様が本能寺で明智に弑されたとの由。左兵衛太夫様は安土よりお方様やお側の方々を日野へお連れするとのことにございます」

「忠三郎様はどうなされている!?」

「左兵衛太夫様をお迎えに安土まで急ぎ立たれました」

「わかった。すぐに日野城へ参る」

 五井宗兵衛は使者の言葉を受けると急ぎ登城の支度をした


「何事がありましたか?」

「上様が京にて弑された。忠三郎様と左兵衛太夫様はお側の方々をこの日野へお連れするようだ。私もすぐに城へ行く」

「では、急ぎお支度を」

「頼む」


 五井宗兵衛は登城の準備を急いだ

 ちえが新八と結婚し失意のどん底にいた宗兵衛だが、六年前の天正四年に主君忠三郎賦秀の勧めで六角家旧臣・三井氏の娘のたまを娶っていた

「この先俺の基盤を支える宗兵衛にいつまでも子がいないでは心許ない」

 そう言われては何とも言い返せなかった


 珠は武家の娘らしく、折り目正しく美しい女性であったが、宗兵衛は何とも言えぬ堅苦しさを感じていた

 珠は珠で夫は武家とはいえ、実質的に商家の妻として奥向きを切り盛りしなければいけない

 どのようにすれば良いのか戸惑いを隠せない様子であった


 宗兵衛は久々の具足姿に戸惑いつつも日野城へと急いだ



 1582年(天正10年) 夏  近江国蒲生郡南津田村



 伝次郎の息子ばん荘右衛門しょうえもんが甚左衛門の家を訪ねていた

 明智光秀が本能寺で織田信長を自害に追い込み、その後山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れていた

 明智勢や羽柴勢の間隙を縫って野盗共が侵入するなど安土山下町も大混乱に陥っていた

 荘右衛門は安土の混乱を避けて甲賀の伴谷に身を隠していたが、この程尾張清洲城で織田家の後継が信忠の息三法師に決まり、織田領内の混乱も収まりつつあるのを見て甚左衛門の居る南津田村を目指したのであった


「では、やはり伝次郎さんは…」

「ここにいる仁助のみを落とし、伯父・太郎左衛門尉と共に上様に殉じました」

 甚左衛門は瞑目した

 あの日別れて以来、会えていなかった

 今更後悔しても遅いのだが…

「甚左衛門様。こちらを」

 荘右衛門が一通の文を取り出す

「…私に?」

 荘右衛門が頷く

「父からです」

 甚左衛門は文を受け取ると中身を改めた

 ひどく乱れた文字だ

 混乱の中で急いで認めたのだろう




 西川甚左衛門殿


 楽市がこと、安土がこと、心より頼み入り申し候


 伴伝次郎資忠



 甚左衛門は文を握りしめていた

 涙が溢れて止まらなかった


 伝次郎は心より尊敬する師であった

 幼き頃や足子として共に過ごした日々が脳裏を駆け巡った

「馬鹿な…お人だ……このような不肖の弟子如きに………」

 そのあとは声にならなかった









「甚左衛門様。後ろに控えるは父の配下、並びに父が足子として雇い入れていた者たちです

 どうか私と共に甚左衛門様の足子衆として働かせてはいただけませんでしょうか」

 荘右衛門は深々と平伏した

「されど、私はしがない一行商人でございます。とてもこれだけの人数を養うほどには…」

「父の遺言にございます」

「…」

「今まで扱っていた荷は私へも多少の宰領がございました。これ以後は甚左衛門様に全ての宰領をお任せいたしたく」

 甚左衛門は控える面々の顔を見ていった


 荘右衛門を筆頭に、

 西村にしむら嘉右衛門かえもん 市田いちだ庄兵衛しょうべえ 仁助にすけ の四人が頭を下げていた


「お顔をお上げ下さい」

「では」

「足子ではなく、共に行商を行う仲間として行を共に致しましょう」

「ありがとうございます」



 甚左衛門は新八を呼んだ

「失礼いたします」

「新八。こちらは伴荘右衛門殿、西村嘉右衛門殿、市田庄兵衛殿 仁助殿だ」

「新八でございます」

 お互いに名乗りあった


「新八。南津田村の蚊帳生産は最大でどのくらいだな?」

「田兵衛さん、権左さんを中心に一月に五十反ほどは。あとは畳表の生産も一月十反は出せます」

「よし、ではあとは敦賀の塩と海産物。それと野々川周辺の麻織物を持って商いを致しましょう」

「「「「  はい!  」」」」



 一挙に五人に増えた隊商を持って、甚左衛門は近江国内を改めてくまなく里売りを行おうかと考えていた

 新八が広めてくれたおかげで南津田村周辺は蚊帳の一大生産地となっていた

 これだけの産量があればもう少し値を下げて売れる

 まずは一部の高級品から庶民の為の寝具として浸透させていこう

 近江で広まれば周辺の伊勢・美濃・尾張・越前などでも市場を作っていけるだろう

(相手が軍事物資で圧倒的な資金力を出してくるのなら、こちらは庶民の生活に密着していってやろう)



 1582年(天正10年) 冬   近江国蒲生郡南津田村



「おぎゃっ おぎゃっ おぎゃっ」

「おお、よしよし」

 ふくがこの秋生まれたばかりの次男をあやしていた

「はっはっはっ 元気の良い子だな」

 舅の藤木宗右衛門が満面の笑顔で見守っている


 この秋

 甚左衛門に次男が誕生した

 名前を甚五郎と名付けた

 後年、萌黄の蚊帳を着想し、全国津々浦々にまで蚊帳商いを押し広げ、

『蚊帳は近江の萌黄蚊帳』と言わしめた二代目


 西川にしかわ甚五郎じんごろうである



 清須会議による織田家の領土配分は、完全に織田旧臣たちをまとめ上げることはできず

 翌年の天正十一年に羽柴と柴田の天下取りを口火として新たな戦乱を形成していく

 時代のうねりは戦乱の終息へと向かう中で、燃え尽きる前の蝋燭のように一段と激しい戦の気配を濃厚に残していた


 この年、天正十年は戦国の一大転換点となった

 画期的な軍制と商業重視の政策で領国の税収入を飛躍的に向上させた稀代の英雄 織田信長の死は、次に続く豊臣秀吉の時代へと歩を進めた

 関の廃止による物流の活性化は時に中世期とは比べ物にならぬほどの産業を作り出す契機となった

 中世から駘蕩と湧き上がってきた商人達の『平和』と『自由商業』の機運はますます高まり、それに伴って玉石混交の商人たちが鎬を削り、覇を競い合っていく

 武士の戦は間もなく終わりを告げる

 しかし、商人の戦はこれからが本番を迎えるのであった


 刀槍ではなく算盤を武器として、時に利を分け合い、時に利を奪い合いながら淘汰・統合されていく『商業戦国時代』の幕開けであった


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