第73話 尾張藩調達講


 


 1845年(弘化2年) 冬  近江国八幡町 尾張藩陣屋




 八幡町が尾張領となって三年

 先代の跡を継いで総年寄職にあった七代目市田清兵衛は、船町の尾張藩代官所へと召し出されていた。


「面をあげよ」


 代官所では尾張藩の大代官である馬場九八郎が、傲然と胸を逸らして座していた。

 新築したばかりの代官所は新しい木の匂いが心地よく、尾張藩の陣屋としての威容を備えていた。

 もっとも、その新築代金も八幡町から差し出させているのだから、礼の一つも無いのかと腹立ちの元になっていた。


「呼び出したのは他でもない。我が尾張藩では藩主様が交代されたことは知っていよう」

「はっ。聞き及んでおります」

 同行した伴伝兵衛が答える。

 尾張藩主徳川斉荘がこの七月に亡くなり、十三代藩主として慶臧よしつぐが継いでいた。


「藩主様の交代により、江戸へ御下す資金が必要になった。ついては、二千両を講で用立てよ」


 ―――なんと…


 清兵衛は言葉を失った。

 三年前に命令された米切手の引替御用金三万一千両を二年前の年末にようやく完納したところだ。

 その上、この年の三月には追加で一万四千両を納めている。

 町方からも差し出させよという命令で『講』を組んで対応している。

 その上さらに二千両とは…


 言えばカネがどこかから湧いてくるとでも思っているのだろうかと、驚きを通り越して呆気に取られてしまった。


「お待ち下され」

 隣に座る伝兵衛が思わず反駁する。


「先年の米切手引替御用金を昨年にようやく納め終わった所です。その上春先には新たな御用も申し付けられ、さらに追加で二千両とは…

 我らも無尽蔵に金を持って居るわけではありませぬ。此度はご辞退申し上げさせて頂けませぬか」

 そう言って伝兵衛が平伏する。清兵衛も慌てて同じように平伏の姿勢に移るが、頭上から降って来る馬場の声は非情だった。


「減免は認められぬ。何のために講を組ませたと思っている。

 ガタガタ言わずに早々に金を用意せよ」

「しかし!」

「話は以上だ。下がれ」

「…」


 言い捨てると、馬場はさっさと席を立って奥へ引っ込んでしまった。

 伝兵衛と清兵衛は唇を噛みしめながら代官所を下がった。


 この頃の講は戦国期の講から発展し、金融組合のような組織に変化していた。

 頼母子講たのもしこうは講員から一定額の掛け金を集め、まとまった資金を入札やくじ引きによって分配していく。

 例えば講員の中で災害で家屋が破損した場合や、講中で新たな農具や家財道具を購入しようと言う場合に活用された。


 尾張藩の調達講は、その名の通り尾張藩の御用金を集めるために講を組んで掛け金を差し出させようという組織だった。

 御用金は名目上は貸金であり、尾張藩から利子を付けて返済されるという約束になっている。

 しかし、前回の御用金から二年も経たずにすぐに次の貸金を要求されれば、商人の蔵からは次々に金が目減りしていく。

 三井越後屋や鴻池屋が散々に苦しめられた大名貸しと同じ、貸金の返済資金も次の貸金から用意しようというものだった。




 1845年(弘化2年) 冬  近江国八幡町 総年寄会所




「困りましたな…」

 山形屋西川仁右衛門がため息を吐く。


 山形屋の九代目甚五郎は、この年の夏に中野村の小島弥左衛門の八男甚三郎を娘のと娶せ、婿養子として十代目甚五郎を継がせていた。

 自身は隠居となって尾張藩への対応に専念していた。


「先年の御用金の返済もされぬうちに、さらに今年は一万四千両を申し付けられたばかりだというのに…」

「尾州様はカネが天から降って来るとでも思っておられるのではないか?」

 西川利右衛門が憤然と吐き出す。

 確かにそう言われても仕方のない部分はあった。


 尾張藩にとって八幡町は飛び地であり、領有の目的はあくまでカネである。

 その態度からは領民を慈しむという感情は感じ取れなかった。

 最初の御用金と同じように、八幡町人達からは減免の願いが出されるが、減免は一切認められず此度も大人しく御用金に応じるしかなかった。




 1846年(弘化3年) 秋  江戸城本丸




 水野忠邦に代わって老中首座となった阿部正弘は、老中牧野忠雅と今後の方針について相談していた。


「さて、日本としてはどこの国と交渉すべきか… いよいよ肚を括らねばならぬかもしれんな…」

「左様ですな。イギリスとの交渉は清国の二の舞になりましょう」

「うむ。なんとか清の二の舞は防がねば… 江戸湾に入る廻船を封鎖されれば、江戸はすぐさま物不足に陥る。大型軍艦を持たぬ我が国には交渉による条約の道しか残っておらぬ」

「阿蘭陀風説書によればアメリカは後進国であるとの由。与しやすいかもしれませぬ」

「アメリカか…」


 この年の五月にアメリカ東インド艦隊司令のジェームズ・ビドルが浦賀沖に来航し、日本政府と最初の接触を行っていた。

 阿片戦争に敗北した清はイギリスと南京条約を結び、関税自主権の喪失と治外法権を認めるという不平等条約だった。

 二年前の1844年にはアメリカも望厦条約によってイギリスと同じ条約を結び、大清国は西洋列強の植民地としての道を進んでいた。


「確かにアメリカはイギリスほど強欲ではなさそうではあったな。ビドルとやらは清と同じ条約をと言ってきたが、戦に訴える気配は見えなかった」


 当時のアメリカは建国からわずか五十年ほどの若い国で、対外政策もイギリスほどに軍事力に物を言わせるものではなかった。

 浦賀沖に来航したジェームズ・ビドルは、大統領から『アメリカへの敵愾心や不信感を煽ることなく』交渉するように求められており、当初に示したアメリカの態度は日本の国法を遵守しようとする態度だった。


 アジアにて軍事力による棍棒外交を展開する当時のイギリスよりも余程に『紳士の国』と言えた。


 ビドルは、通商はオランダ一国とのみ行っているという幕府の返事を受け取ると、それ以上の交渉を一旦中止して帰国の途に就く。

 この態度を見て、幕閣はアメリカに対して好感を持った。


 また、幕府は阿蘭陀風説書によってこの当時の国際情勢や国際法の論理をほぼ正確に理解していた。



 国際条約は、最初に批准した条約に基づいてその後の国とも同じ条約を結ぶのが国際慣例となっている。

 最初に結んだ条約が有利なものであれば、後続条約にも有利性が継承され、不利なものならばその不利性も継承される。

 いわゆる『最恵国待遇』の論理だった。


 アメリカが清と結んだ望厦条約もこの論理に従い、イギリスの南京条約とほぼ同じ内容だった。


 つまり、最初にどこの国とどういう条約を結ぶかによってその後の世界の中での日本の立ち位置が決まる。

 世界の覇権を担い強欲に植民地を広げようと画策するイギリスか、今は落ち着いたとは言え寛政期に蝦夷を略奪して回ったロシアか、表面上は武力に訴える事無く日本の立場を尊重してくれたアメリカか。


 阿部の目線は太平洋の向こうを見据えていた。




 1849年(嘉永2年) 春  近江国八幡町  蓮照寺




 八幡町では、領主尾張藩より第二回目の調達講の組織を組むことを命じられていた。

 今回は二万両の御用であるという。

 天保十四年以来の御用金の利息も満足に支払われていない中での、新たな貸金の命令だった。


「また調達講を組めということですか…」

 住吉屋西川傳右衛門家の分家、肥料問屋の西川善六がため息を吐く。

 善六は干鰯仲間の一員として重きを為していた豪商であり、かつ国学者の平田鉄胤かねたねの門人で、漢書や国学に秀でた学者でもあった。

 もっとも、平田の方も活動資金を善六から受け取っており、単純な教え子というよりも門人兼パトロンといった関係だった。


「ええ。ですが今町中は難渋を極め、強行すれば今度こそ町方で一揆が起きかねない状況です。

 そこで、名古屋の奉行所へ減免を訴えに行きたく思います。

 善六さんは学問に詳しいとか。訴えの書面作成や交渉に一役買って頂けないかと思いまして」


 仁右衛門がペコリと頭を下げる。


「しかし、私はまだまだ若輩故商談などは諸先輩方にはとても…

 それに、名古屋へ訴え出て代官所から目を付けられれば、闕所けっしょのお沙汰が下るかもしれませんし…」

 闕所とはいわゆる蟄居閉門の事で、商人が闕所になるということは商売差し止めの上資産没収という事だった。


「闕所などには決してさせません。我らが責任持って請け負わせて頂きます」

「訴えの席には私も同行いたします。どうか一つ頼まれてはいただけませんか?」

 御用達の一人である恵比須屋岡田小八郎が仁右衛門の言葉を補足する。

 難しい顔をしていた善六だったが、意を決したように顔を上げると大きく頷いた。


「しかし、この訴えが上手くいくとも限りません。力は尽くしますが、不首尾に終わる事もあり得ます」

「その点は、我らで援護して参ります」


 そう言うと、豪商達は再び各所へ運動に出向いた。




 1849年(嘉永2年) 春 尾張国名古屋 尾張藩勘定奉行所




 尾張藩勘定方の村瀬新十郎と高橋彦重郎は、西川善六を先頭にした多数の商人達の訪問を受けていた。

 それぞれが天下でも名の知られた豪商で、幕府や諸藩で苗字帯刀を許されている大店の旦那衆である為、町人としてお白州に座らせるわけにもいかずに奉行所の一室で対面していた。


「この度は尾州様にお願いの儀があって参りました」

 善六が口火を切ると、途端に高橋の顔が曇った。

「願いの儀は訴状にて承っておる。しかし、今我が尾張藩の財政は窮乏の極みにある。御用を減免する事はかなわぬぞ」

「何のために八幡だけでなく周辺郷方でも講を組ませたと思っておる。早く在所に戻って御用の口数を集めるが良かろう」


 高橋が穏やかに話す横で、村瀬がいきり立って威圧する。

 尾張藩としては二万両をビタ一文負ける気はなかった。


「しかし、天保十四年の最初の御用金の利息すらまともにお支払いいただいておりませぬ。町方としても、これ以上尾州様にお貸しして本当にご返済頂けるものかと心配になっております」

「貴様!我が藩を愚弄する気か!この場で闕所を申し付けても良いのだぞ!」


 村瀬の怒鳴り声をの後、降りた沈黙を破るように低い笑い声が室内に響く。

 神崎郡金堂村に本拠を置く五箇荘商人の重鎮、外村与左衛門だった。


「闕所ですか。さしずめ私は名古屋の支店が闕所となりますかな。

 さて、困りましたな…」

「…何が言いたい?」

「いえ、闕所となればこれ以上名古屋に荷を運ぶ事が出来なくなるかと思いましてな」


 村瀬がはたと声を失くす。

 闕所にして資産を没収すれば、確かにカネは手に入る。

 しかし、カネがあっても物がなければ名古屋城下は飢饉以上の騒動になるだろう。

 町方で打ち壊しでも起きれば、尾張藩は領内を治める資格なしとして減封、悪くすれば改易も考えられる。


「日野からもお届けするのは難しくなりまする」

 日野町を拠点に全国四十四店舗を展開する中井源左衛門が与左衛門と歩調を合わせる。


「ふ、ふん!荷を運ぶ商人など日ノ本中に居るわ!」

「さて、そう上手くいきますかな?」

 尚も強がる村瀬に対し、仁右衛門が懐から書状を取り出した。


 差し出された書状を見て、今度こそ村瀬と高橋は顔を真っ青にして書面を食い入るように見つめる。

 額には玉のような汗が浮いている。


「京の白木屋、伊勢の越後屋、大坂の鴻池屋、廻船の北風家、角屋、その他にも多くの商人が我らに賛同してくれております。

 もちろん、八幡町からも荷をお届けする事は難しくなります」

「蝦夷からの廻船も回ってきませぬぞ。肥料も無しに年貢だけ寄越せと言われて、村方は納得してくれましょうか」


 二百五十年に渡って取引を重ね、信用を積み上げて来た八幡商人達の矜持だった。

 名古屋に限らず、既に日本は商人達の物流網無しには生活そのものが成り立たないほどに成熟している。

 荷を止められればまさに死活問題だった。


「荷留めをすると申すか」

「それは尾州様次第でございます。どうか、良いご沙汰をお待ちしておりまする」

 そう言って一座が平伏する。

 こうとなれば尾張藩としても無体は言えない。


 結局嘉永二年の講は一万六千両で決着するが、それ以後尾張藩は町方と交渉の上で借りる形となった。

 その後も話し合いにより御用金の賦課は続くが、嘉永七年には再び八幡町は天領に戻る。

 尾張藩に対する多額の貸金は、返済が滞ったままだった。



 四年後の嘉永六年

 仁右衛門の婿養子である十代目甚五郎は三十二歳で早世し、山形屋の家督は十代目の息子の伊三郎が継ぐ。

 十一代目甚五郎は相続時わずか五歳で、しばらくは九代目である仁右衛門が後見する事となった。


 時を同じくして、浦賀沖にアメリカ東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーが来航する。

 日本は幕末の動乱期を迎える事となった。


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