第24話 十両木綿



 1616年(元和2年) 冬  近江国蒲生郡武佐宿




 八幡町からほど近い、中山道の武佐宿では農閑期の間に旅籠の整備を行っていた


「西国から江戸へ上る客がひっきりなしだ。早く旅籠を相当数確保せんと商機を失うぞ」

「わかっとるけんど、百姓仕事の傍らではなかなか思うようにいかんわ」

「百姓仕事なぞより、武佐へ住んで旅籠とたばこや酒なんぞを売った方がよほど銭になるんじゃねえか?」

「そうかもしれんなぁ。伝馬役っちゅう役得があるうちに、早い事馬と飛脚を雇って商いに変えた方がいいかもしれんな」



 町の肝煎り(町長)の五兵衛は近郷の百姓を積極的に旅籠主に勧誘していた


 伝馬役は次の宿駅まで馬喰(運送)と飛脚(手紙輸送)を有料で請け負う特権があった

 旅籠も合わせて経営すると、前の宿駅から来た荷と共に宿泊客を取り、たばこや酒・飯を売って、次の宿駅までの馬喰を請け負うという流通サービス業を経営することができた


 この時期、徳川幕府のお膝元を目指して、大名・武士・浪人・商人が大勢中山道を旅している

 商売は早い者勝ちという雰囲気があった

 この伝馬役は、徳川家の御用の時には無償で馬を貸し出さねばならない

 しかし、それを差し引いてもなお余りあるほどのメリットが宿駅に落ちることとなった


 少なくとも、江戸時代中期までは…




「おおーい!大変だ!」

 この夏に旅籠を開いた田吾作があわてて駆けてくる


「どうした?田吾作」

「大変だ!年が明けたら朝鮮から御使者の一団が江戸へ旅するようだ。

 なんでも六百人くらいの使者の列になるらしい。将軍様御用となれば、我らはすべて無償で饗応せねばならんようになるぞ!」

「何!?それはキツいなぁ…。六百人の宿と飯など、どれほどの費えがかかるかわからん。

 ちとお代官様に事情を聞いてくる」





 五兵衛は代官所に伺い、御使者の接待について問い合わせた


「面をあげよ」

「ははっ」

「今日は何用で参ったのだ?」

「はあ。来年に朝鮮からの御使者がここを通られると聞きました。どのようにご接待すればよいかと思いまして」

「ああ、その事なら心配要らん。朝鮮からの使者は京までとなっておる。ここまでは来ることはない」

「左様ですか!ああ、よかった」


 五兵衛はほっとした

 代官はお役目を嫌がるとはけしからんという風情だったが、気持ちはわからなくもなかった


 銭にならない客は迷惑でしかないのだ




 1617年(元和3年) 春  伊勢国飯高郡松坂越後屋




 三井春は松坂の『越後殿酒屋えちごどののさかや』を『越後屋えちごや』という屋号に変えていた


 悪代官からワル呼ばわりされ、桜吹雪を背負ったお奉行様や身分を隠したご老公様から成敗される、時代劇の影のヒロインである越後屋だ



「では母上、行って参ります」

 そう言って、宗兵衛の孫 三井みつい三郎左衛門さぶろうざえもん俊次としつぐは江戸へ向けて出発した

 江戸に店を出している、伊勢の呉服商『射和蔵いざわぐら』小野田家の元で奉公をするためだ


 元々宗兵衛の組下として日野から松坂に出てきた小野田家には、春の長女が嫁いでおり、射和蔵はいわば親戚筋だった

 名も知らぬ先にやるよりも、真っ当に育ててくれるだろうとの春の見立てだった

 小野田には厳しく仕込んでくれと文を書いてある



「気を付けてね。しっかり学んで江戸で店を持てるようにがんばりな」

「母上、やはり江戸で店を持たねばなりませんか?」

「もちろん。これからは江戸で商いを成功させなけりゃ、大きな商いはできないよ」

「…わかりました」


「これを持ってお行き」

「…これは?」

「十両分の木綿の反物だ。餞別だよ」


「…わかりました。この十両分を元手にせよということですね?」

「察しがいいいじゃないか。十両を現金で渡せば、十両でしかない。

 これを何両に変えられるかが、アンタの商才だよ」




 春の教育法は独特だった


 仮にも武士の子であるという意識は春の中にはカケラもなかった

 子供達は全員が商家の子として育てたし、武士のたしなみをするヒマがあったら算盤の練習をさせた

 義父・宗兵衛の志を継ぐ子供達に仕立てたいと思っていた





 慶長から元禄期(1700年頃)にかけて、日本は長期の景気拡大期に入る

 天下が定まって商人の活動領域が広がったこともあるが、何よりも大きな原因は、人口の増加と米の増産、そして豊富な金銀だった


 関ケ原合戦当時(1600年)には日本の総人口は1500~1600万人、耕作面積は163.5万町と推計されている

 これが、享保六年(1721年)には総人口3128万人、耕作面積は297万町に急拡大する

 平和な世の中で人口が増加したことと、新田開発が活発化した成果だろう

 それに合わせて、各地の金・銀山からは続々と金・銀が産出された


 つまり、資本の元となる米を始めとした『物』が倍増し、それを必要とする『人』も倍増し、その取引を媒介する『金』も順調に増え続けていた

 例えるなら、団塊の世代が世に出る高度経済成長期の状況だ



 人が安定して増え、物が作っても作っても足りない状況となり、沢山の金が市場に存在する

 経済は新たな首都江戸を中心に爆発的な広がりを見せていた


 端的に言えば、産物を江戸に持って行きさえすれば、どんな下手くそでも商売が成り立つ世の中になっていた




 十両分の木綿を江戸への道々で売りながら、俊次は最終的に五十両ほどの現金を手にしていた




 1617年(元和3年) 夏  武蔵国豊島郡江戸




 西川甚五郎は龍ノ口にある細川家の江戸屋敷を訪れていた


「ごめんください」

「どちら様かな?」

「手前、江州八幡町の商人で山形屋と申します。畳表を商っておりまする。

 本日作事方の加賀山様へご挨拶に伺いました。お取次ぎをお願いいたします」

「む。しばし待たれよ」

 そう言って門番が屋敷内へ入って行った



 しばらくして、先ほどの門番が呼びに来る

「お待たせした。加賀山様がお待ちです。ご案内いたす故ついて参られよ」


 甚五郎は付いていく道すがら、お屋敷の様子を伺った

 一昨年の江戸・小田原の地震で多少お屋敷にも被害が出たようで、あちこちの武家屋敷で手直し普請が発生していた

 普請が出れば畳が必要になるのではないかと、片っ端から営業を掛けていた

 細川屋敷ではほぼ普請が終わっており、作業の音は聞かれなかった


(これはかもなぁ…)

 既に畳を新しくしていれば、取り急ぎの需要はない

 だが、誼を通じておけば畳替えの時にはまた声を掛けてもらえるかもしれない

 そう思えば、まるっきり無駄にもならないと思いなおした




「加賀山大膳である」

「西川甚五郎にございます。山形屋の日本橋店を任されております。

 これはつまらない物ですが…」

 そういって甚五郎は持参した羊羹を差し出した

「ああ、これは気遣いかたじけない」



 一頻り雑談をして空気を解した後、本題を切り出す


「―――時に細川様のお屋敷では一昨年の地震の影響はいかがでした?」

「当屋敷にも手直し普請が発生しましてな。まあ、普請は昨年中に終わり、今では常のように落ち着きを取り戻しております」

「左様ですか。手前どもでは蚊帳・畳表を商っておりまして、もしお役に立てるならばと思ったのですが…」

「残念ながら当家では既に畳を新しく変えてしまいました。せっかくに来ていただいたのに申し訳ないことですが」

「いえいえ、今日はご挨拶だけと思い参りましたので、どうぞお気遣いなく。

 また表替えなどの際にはお声がけいただければ幸いでございます」

「うむ。その時にはそこもとへ依頼を回すようにしましょう」

「ありがとうございます」


 その後も一刻ほど雑談をして細川屋敷を辞した



(最初の挨拶としては首尾は上々か。次は年末前に一度訪問してみよう。

 表替えだけでなく、増築などのお話もあるかもしれない)


 江戸市中の売捌きは番頭に昇格させた善助に采配を執らせ、甚五郎は大名屋敷を中心に畳表の販売に注力していた




 五日後、日本橋店に一人の客が来た


「御免。某は江州彦根藩の作事方、小宮山平右衛門と申す。店主はおられるかな?」

「手前がこの店の支配人、西川甚五郎にございまする」

 折よく店に居た甚五郎がそそくさと応対に出る


 名乗りから商売の匂いがプンプンしていた

 甚五郎は客間へ案内すると、濃茶と羊羹でもてなした



「実は彦根藩で新たに江戸に下屋敷を新築することと相成った。ついては、畳を百畳ほど注文したいのだが」

「ありがとうございます。ご普請はいつごろに仕上がりましょうか?」

「来年の春ごろまではかかろうかと思う。内装はご普請が成ってからとなるが、今のうちに物を押さえておきたいと思ってな」


「では、来年の春先には我が蔵に取り寄せるようにいたしましょう。表は備後表がよろしゅうございますか?」

「いや、せっかくなので近江表で頼みたい」


 甚五郎は内心でガッツポーズした



 当時畳表の最高級品は備後表で、信長も足利義昭に二条御所を建てた際、わざわざ備後表を指定している

 備前・備中表が続いて品質の『上の中』とされ、近江表はそれに続く『上の下』くらいの位置づけだった

 そこから品質がぐっと落ちて、庶民向けの琉球表が『中の下』くらいだった


 山形屋日本橋店では、品揃えの観点から備後表・近江表・琉球表を揃えていた

 当然ながら、山形屋にとっては近江表が一番利幅が大きい

 甚五郎の快哉も無理からぬことだった



 山形屋では蚊帳・畳表の他にも


 畳縁・畳糸・高宮嶋織・晒類・青花などを扱っていた


 高宮嶋織は近江の高宮周辺で織られる嶋模様の麻布で、仁右衛門の兄弟弟子の外村小助を中心に広まった織物だった

 青花はツユクサの栽培種で、その花から取れる青い染料は水溶性の為、友禅染の下絵を描くのに利用された




「ご注文ありがとうございます。注文請け状を認めて参りました」

「うむ。よろしく頼む。しかし、そこもとらはさすがに商魂たくましいの」


「…?どういうことでしょうか?」

「ここの店は細川家の加賀山殿から聞いたのよ。近江の商人は頼まれもせんのに挨拶と称して贈り物をしてくる。まことに殊勝であるとな。

 我らもまだ江戸でどこにどの物を商う商人が居るのか今一つわかっておらぬ。畳表の手配をせねばならん事を思い出して、こちらに参った次第じゃ」


「そうだったのですか。お恥ずかしいお話をお耳に入れまして…」

「いやいや、生業に精出すことは良い事だ。これからも励まれよ」

「ありがとうございます」


 甚五郎は再び頭を下げた

 やはりお大名方へ営業をかけたのは無駄ではなかったと嬉しかった



 言うまでもなく、江戸はこの当時空前の建築ラッシュの只中にあった

 各地の大名が続々と江戸屋敷を構え、正室や世子を江戸に住まわせた

 後の参勤交代は未だ制度化されてはいなかったが、大名の自発的な行動として江戸へ伺候し、人質を江戸へ置くという事は当然のように行われていた


 それらが諸大名の経済的負担になっていったことは当然であり、領国から吸い上げた米は金に変わり、最終的に江戸で商いをする商家の金蔵に続々と納まっていくのだった


 また、この頃には陸続と商人や職人も江戸の町を目指し、江戸の町人町を形成していく

 彼らもある程度の財ある者は徐々に室内に畳を敷き始め、畳表は初期の山形屋の主力商品に成長していた



 一方、仁右衛門がこだわった蚊帳は、麻の茶色の生地そのままの色合いで野暮ったく、庶民の間では紙帳かみとばりを使うのが普通だった


 紙帳は、その名の通り紙製の蚊帳で、耐久性は極端に低いが、紙に絵や模様を描きつけるなどして見栄えを良くするには便利だった

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る