第47話 物価高騰


 


 1701年(元禄14年) 秋  近江国蒲生郡日野町 正野家




『和泉屋』西川伝兵衛は評判の医師である正野玄三の元を訪れていた


「先日は診て頂いてありがとうございました

 おかげさまで腹の痛みも治まり、今はすっかり元通りに商いに精を出せております」

「それはよかった

 私も以前は行商を行っていましたが、商人は何よりも体が資本ですからな」

「いかにも。その意味でも、体を治して下さる先生は我ら近江の宝ですな」



 四十三歳になった正野玄三は、京の診療所を畳んで日野町へ戻り、近隣の患者の治療に当たっていた

 すでに京の名医と評判を取っていた玄三の元には近隣の患者が引きも切らずで、日野に戻ってもひたすら医師としての活動に明け暮れていた

 しかし、玄三にはまだ気になることがあった



「時に、和泉屋さんでは蝦夷からの廻船を行っておられるとか」

「いえ、兄の傳右衛門が松前に店を開き、漁場の経営を行っておりまする

 廻船も実は兄の持ち船でして、私はちゃっかりと兄からの荷を扱って利を得ているにすぎません」


 伝兵衛は笑って謙遜したが、住吉屋が越前の港へ持ち込む荷を売捌く販売網無しには蝦夷の産物はカネに変わらない

 また、和泉屋が上方の産物を廻船に乗せなければ交易も完結しないのだから、住吉屋と和泉屋は車の両輪というべきもので、決して兄弟の情で商売させてもらっているというような軽い関係ではなかった



「私も以前行商を行っている時は、越後や信濃などの医の届かぬ地域へ医を届けたいと念じて医師の道を進みましたが、医師となっても救えるのはせいぜい近隣の方々だけで、信濃や奥羽、蝦夷などへ医を届けるという初志はなかなか実行できていません


 そこで相談なのですが、実はこういったものを調剤いたしましてな…」


 玄三がおもむろにいくつかの包みを取り出した

 包みの表には薬品名が書かれてあった


「これは?…『正野合薬しょうのごうやく』ですか…

 どういったお薬ですかな?」

「熱、腹下し、せき、嘔吐などに効果のある薬をそれぞれ調合しております

 これならば、医の届かぬ地域へも気軽に届けていただけるのではないかと思案しましてな…

 和泉屋さんにもできれば蝦夷へ持ち下る荷に加えていただけないかと思いまして」


「ほう!それらの症状に対応する薬品が常備できるとなれば医者にかからずとも手当てができますな」

「あくまで初期症状を和らげるものですので、重篤な患者は医者にかかってもらわねばなりませんが…」

「それでも、今までなすすべがなかった事に比べればはるかに病が改善できましょう」




 正野玄三の調合した『正野合薬』はたちまち八幡町の卸問屋に広まり、江戸や関東各地・奥羽や蝦夷などの各商家の店舗に販売網を作った

 まだ気軽に医者にかかることのできない時代にあって、初期症状を和らげ、治ろうとする体の働きを助ける丸薬は命を繋ぐ薬として広まった

 もちろん、重篤な者はすぐに医師にかかるように言い添えたが、常備薬として特に船乗りや行商などから重宝された


 西川伝兵衛はすぐさま松前藩との一手販売の契約を結び、住吉屋を通じて蝦夷に常備薬として広めた

 


 医を持って世の中の役に立つという正野玄三の志は薬品製造卸売業としての正野家の礎を築き、以後日野の名産品の一つに医薬品が加わることになった




 1702年(元禄15年) 春  蝦夷国松前城下 材木屋




『住吉屋』二代目傳右衛門は『材木屋』四代目建部七郎右衛門に正野合薬の取り扱いを持ちかけていた

 材木屋建部家は、天正年間に秀吉の奥州仕置の際に松前慶広の政治顧問として献策して以来松前藩の政商として活躍していた



「ほう、これが噂の日野の丸薬ですか。住吉屋さんが松前に一手に運ばれているとか」

「いや、正確には叔父の和泉屋が取りまとめを行っております。なんでも、諸症状にとりあえず飲めば良いという『医者要らず』の名薬の数々だとか

 材木屋さんでも扱って頂ければと思いまして…」


「それはもう、喜んで。実のところ、扱う商品をあれこれ思案しているところでしてな」

「扱う商品を?」

「ええ… 以前から志摩守様へは木材の伐採に運上金を差し上げておりましたが、どうやら江戸や上方でも木材が品薄になってきているようでして…」

「では、材木屋さんにとっては商売繁盛ではありませんか」


 七郎右衛門が少しうつむいて手元の茶に目線を落とす

「ところが、こちらも材をこれ以上伐り出すには差し上げる運上金が不足してしまっておりましてな。それで先日『飛騨屋』とかいう材木商にも材木伐り出しをお認めになるとのお沙汰がありました

 やむを得ぬところではありますが、我ら両浜組の支配も少しづつ及ばぬようになってきまして…」



 ―――材木屋さんまでもが権益を食われてきているとは…

 漁場の経営でも他郷の商人が大勢操業している

 松前を牛耳った両浜組も今は昔というわけか…



「材木屋さんも漁場の経営に乗り出されてはいかがです?」

「考えぬではないですが、材木と漁場では畑違いもいい所ですし…

 それに、住吉屋さんほど上手に産物を扱える自信もありませんからな…

 なんとか上方からの荷を松前で売る方向で商売を強化していけぬかと思案しているところです」

 七郎右衛門が力なく笑う



 蝦夷に限らず、八幡町においても江戸初期を彩った八幡商人達もある者は同業者との競争で力を失い、ある者は後継者に恵まれず身代を持ち崩すなど、徐々に『追われる立場』へと変わってきていた




 1703年(元禄16年) 春  江戸勘定奉行所




「お奉行様。近江国栗太郡の金森村から助郷免除の訴えが届いております」

「ほう?見せてみよ」


 元禄九年から勘定奉行に任ぜられ、あわせて従五位下近江守に叙せられた萩原重秀は、勘定奉行の加役として道中奉行を兼任していた

 道中奉行は、街道の監督・整備と助郷役の選定などを行う奉行職だった



「どれどれ…古来信長公より諸役御免給の御朱印頂戴仕りか…

 

 馬鹿馬鹿しい。今は織田の世ではないというのに信長の朱印状が何の意味がある

 八幡町に倣ったのだろうが、あすこは権現様の御朱印状があるからこそ認めざるを得んのだ」


「それだけ、助郷負担が重いという証でございましょう。

 金森村では元亀二年の叡山焼き討ちの際に信長公が立ち寄られ、諸役免除の朱印状を下されたと由緒書が添えられております」


「ふむ…


 諸役免除特権は認められぬ。それを認めては古の院宣や帝の律令にまで対応せねばいかぬようになるからな

 だが、金森村の窮状に鑑み、今後五年間は助郷役を免除する


 その旨、文書に書き起こすが良い」


「ハッ!」



 金森にて織田信長の実施した楽市楽座の名残だった

 当の楽市楽座令の発給文書は農家の屋根藁の中から発見され、雨水などでボロボロの状態だったという

 判読も困難だったのだろう。実際に金森に楽市楽座が施行されたのは元亀三年の事だ

 しかも、奉行所への訴えは一貫して『諸役免除の朱印状』と主張され、楽市のの字もなかった

 

 既に楽市楽座は、当時の人たちにとって忘れ去られた遠い過去の物語になってしまっていた




 1706年(宝永3年) 夏  江戸駿河町 越後屋江戸本店




「次郎右衛門様!本町の大黒屋が『現金掛値無し』の大安売りを行っています!

 越後屋よりも安くすると評判で客が大勢詰めかけているとか!」

 越後屋江戸本店の支配人高富は手代から引札(チラシ)を受け取って内容を確認した


「いよいよこういう競争になってきたか。嫌がらせなどよりもこちらの方がよほど手ごわいというものだ」

「ええ、真に。こちらもふんどしを締めてかからねばなりませんな!」

 高富の下で江戸の各店を取り仕切る脇田藤右衛門が笑いながら返してくる

 

 物価上昇に合わせて呉服の価格も上昇していたが、だからこそ一発逆転を狙って大安売りを仕掛けてくるのも商売人の勘所というものだった



 既に元禄七年に高利は亡くなっており、越後屋の経営は長男高平が京の別家重役たちと行っていた

 越後屋では、経験を積んだ番頭格は『出勤別家』と呼ばれる通いの重役として引き続き越後屋へ勤めた

 


「差し当って、京の兄上に文を書こう!

 格安で反物を仕入れてもらうようにな!」


 ―――かかってこい


 そんな気概で高富は大黒屋の引札を睨みつけていた




 1707年(宝永4年) 春  上野国片岡郡高崎 関口又右衛門宅




「申し訳ありませんなぁ。屋敷を買い求めるまでは軒先をお借りさせていただきまする」

「なんのなんの。こちらもどうせ余っておった家じゃ

 存分に使ってくだされ」


『麻屋』市田清兵衛は安中宿の商人宿を行商の定宿としていたが、この年上州高崎に出店を構えることとした

 もっとも、出店当初は土地の庄屋の関口又右衛門宅を借りての借家営業だった



「父上、本当に高崎で商いが成り立ちましょうか?

 本通りであっても軒先に莚を敷き、米や麦を干しておるような所ですが…」

「なに、八幡町も昔はそういう寒村だったと聞く

 ここは信濃と奥州を繋ぐ要地で厩橋も近い。それに、江戸も近いし中山道沿いで上方への通行も便利だ

 必ずや発展する要地となるだろう」


 ―――今は寒村でもここは必ず発展する

 我らの運ぶ荷でまずは高崎の地を豊かにし、周辺各村にも波及していこう



 清兵衛は麻や木綿の太物、繰綿、真綿、絹、蚊帳、米、大豆、桶、金物などを商った

 特に周辺農家の副業だった養蚕業は積極的に推進し、上州産の絹を江戸や名古屋を商圏として広げていった

 もっとも、絹織物の名産地は京の西陣であり、まだ上州絹は二級品という扱いだったが、産量が上がれば必然的に品質も上がってくると楽観視していた




 関東での消費の中心地は相変わらず江戸だったが、灰屋や麻屋・山形屋のように北関東や房総方面へ進出する商家が出てきたことで徐々に江戸近郊にも消費の輪が広がっていった

 また、最上屋のように奥羽に進出した商人達との物流の中継地点としても発展が期待された


 需要が増えれば需要を満たすためにより効率的な生産方式が考案される

 家内制手工業から問屋制家内工業、そして工場制手工業へと


 しかし、今の北関東周辺はまだ家内制手工業の段階であり、商人達の活動で掘り起こされた旺盛な内需はインフレと共に物不足による二重の物価高を招いていた


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