第63話 寛政の改革


 


 1791年(寛政3年) 春  近江国八幡町 山形屋




 利助は帳簿を前に難しい顔をして座っていた。

 ここの所売り上げの伸びが思わしくなく、山形屋の経営は停滞期を迎えていた。


 ―――五年前から進めていない…


 五年前に年間売上が銀一千貫に迫る伸びを見せてから、そのまま数年間一千貫を超える事無く周辺をウロウロしていた。

 最初は天明の飢饉による一時的な物かと思ったが、飢饉が落ち着きを見せてもなお、伸びは鈍化したままだった。



「失礼いたします」

 番頭の利右衛門が声を掛けて入って来る。深刻な顔をしていた。


「利右衛門か… 何かあったのか?」

「江戸の嘉兵衛から文が参りました。また手代が二人辞めたと…」

 利助はため息を吐いた。業歴二百年を数え、数々の別家を輩出してきた名門商家も今や人材不足という波に飲み込まれていた

 別家まで勤め上げる事無く途中で退役していく者が後を絶たない。

 このままでは江戸店を維持することすら覚束なくなるかもしれない。


「やはり、給金を渡さねば収まらぬかな…」

「左様ですな。昔は給金などは気にせず働いたものですが、今はあらゆる仕事に銭の対価があります

 先々の商売資金よりも、目先の遊び金に目がくらむのもやむを得ぬかと」


 利助はもう一度ため息を吐いた。

 近頃江戸では老中松平定信による倹約令が敷かれ、贅沢は禁止とされている。

 しかし、すでに十分すぎるほどに浸透した貨幣経済は、一般庶民にもカネを稼ぐことの利をまざまざと見せつけた。


 カネがあれば大概の事は出来る。そう思えば、例え目先だけであってもカネを稼ごうという者が後を絶たないのは道理だった。

 まして、江戸は誘惑が多い町だ。

 カネさえあれば… と奉公人達が思う事もやむを得ない事ではあった。



「しかし、給金を渡してしまって、無駄遣いをする者が出ては困る事になる。いかがしたものか…」

「差し出がましいようですが、給金とは別に奉公人に渡すようにしてはいかがでしょう?

 例えば、貸地の運用金の中から一部を渡してやるとか」

「ふむ…」


 利助はしばし考え込んだ。

 頻発する江戸の火事に対応するため、利益の一部を江戸で貸店舗や貸地として運用している。

 決して派手な利を生むものではないが、本業の利益とは別に着実に資金を積み立てつつあった。

 もっとも、火事による店舗の焼失を再建するための費用であるので、これも無闇に使う事は出来ない。


「どちらかと言えば、毎年の利益金から渡すようにしていきたいな。

 自分たちの働きが自分たちの収入に繋がると思えば、皆も精を出して働くだろう」

「しかし、毎年の利益は除け銀(積立)と仏事に使う分も多うございます」


 七代目利助は仏事に篤い篤信家で、奉公中に病を得て亡くなった奉公人たちの過去帳を作り、冥福を祈った。

 しかし、ただ仏事に篤いだけではなく経済感覚にも優れていた。


「まあ、この件はもう少し考えなければなるまい。江戸の事は当面は嘉兵衛に任せよう」




 寛政の改革と呼ばれたこの時期、一般に田沼時代の重商主義が見直されたとされるが、実態は決してそのような事はなかった。

 経済政策において行き過ぎた運営を行う蝦夷の場所請負人や江戸の株仲間の一部を解散させたりはしているが、全てを根こそぎ解体したわけではない。

 事実、十組問屋の一つに数えられる表店(畳表)組などはそのまま存続させている。


 また、緊縮財政をその特徴に上げることも多いが、緊縮財政は田沼時代後期の天明三年ごろから他ならぬ田沼意次によって実施されていたものを踏襲しただけだ。

 定信はあくまで、治安の悪化を招くほどの一部商人の行き過ぎた独占を廃し、適度な競争を促したに過ぎない。


 定信の目の多くは海外政策に向けられていたように思う。

 蝦夷地の警備体制を整備し、北方の前進基地として扱い、後に北海道を日本領土に組み込む橋頭保を築いた。

 寛政期までの蝦夷地は、日本にとって紛れもなく国外であり植民地だった。


 また、外国との対応を行う上で国内の治安維持をまず行う必要があり、七分積金と囲い米によって民衆の腹を満たすように努め、異学の禁によって思想統制を行って諸外国に『かぶれる』者を減らそうとした。

 その反面、通常時には非常時に向けての備蓄を行う為年貢の取り立ては厳しくなった。

 倹約令は庶民の支出を減らして納税原資(米や金)を準備させることが目的だ。



 とはいえ、天明の飢饉をきっかけとして食糧備蓄に主眼を置いて消費を抑制する政策は、経済的にはマイナス要因となり、多くの商家はこの時期に停滞期に入る。

 一方、賃金を受け取る労働者階級を中心に、より有利に稼げる商売に替えて行こうという機運が生まれるのもこの頃だ。


 寛政期は平成中期と同じく、飢饉によって人口が流入した都市部では失業率が上昇し、反面で優秀な人材を確保するため雇う側もより有利な条件を提示するように組織が変更されていく。

 山形屋においても、今までの店預かりだけでなく、現金を従業員に支給する制度を整備する必要に迫られていた。




 1792年(寛政4年) 秋  蝦夷国松前城下 恵比須屋




『住吉屋』四代目の西川傳右衛門昌福は、近江でのニシン粕販売の目途を付け、再び松前へ戻ってきていた。

「何とか八幡で干鰯株仲間がお上に承認されました。これで、近江近郷や上方での売捌きは干鰯仲間が中心となって行えましょう」

 出迎えたのは『恵比須屋』の八代目、岡田弥三治だった。


「ご苦労様でございました。これで販売の目途は付いたところで、次は船便ですな」

「はい。荷所船主も独自に買付船に変わっております。今更ですが、両浜組が支配力を失った事の代償が大きい。なんとか盛り返さねば…」


 飛騨屋や栖原屋などの台頭による両浜組の支配力の低下は、蝦夷と敦賀を繋ぐ船便にも影響をもたらしていた。

 従来は廻船としてあくまで運送業に従事していた北陸の廻船業者は、両浜組からの船便の減少に対応するために自分達で独自に産物を買付け、荷主となって自ら商売を行っていた。

 いわゆる北前船業者へと変貌していた。


「既に北前船は荷主によって買い付けが行われている。ここの売り渡しの価格をなんとか交渉していかねば…」

 頭を悩ませる岡田弥三治に対し、傳右衛門の答えは単純明快なものだった。

「それですが、我らも北前船を増やしませんか?」

「え…? 自前の船を増やすのですか?」

「左様。今でも我が住吉屋では五隻の船を回しておりますが、雇船も多く、これが販売価格に上乗せになっております。雇船の比率を少なくすれば、今までよりも価格を抑えられるのではないかと」


 弥三治はしばし考え込んだ。

 傳右衛門の言う事は分かる。今までもあったのだから、それを増やせばいいというのは単純な話だ。

 しかし…


「北前船とて沈む船は少なくはないと聞きます。まして我らは廻船だけをやっているわけではない。自前で航路を増やすのはいささか危険では…」

「危険は承知の上です。が、今お上は物価の引き下げの為様々に値段の調査を行っています。

 八幡の干鰯株仲間設立に当たっても、様々に値段の調査を行われました。今後はニシン粕においても値段を引き下げる工夫を行わねば、お上から認可を取り消されるという事も考えられます」


 弥三治は再び考え込む。

 寛政の改革により物価の引き下げを狙った幕府は、今までの売買の中心地だった江戸・大坂・京の三都だけでなく、そこに産物を供給する後背地にも目を向け始めた。

 八幡町は蚊帳・畳表なども供給する産物の基地であり、特に農業に使用される干鰯は株仲間設立の前段階として京都奉行所から干鰯価格の高騰について厳しい詮議を受けていた。

 要するに、株仲間を認める代わりに農業資材である魚肥を安く供給せよということだ。


「例え単独でも、私は独自の航路を持ちます」

 傳右衛門の決然とした物言いに、弥三治は未だ沈没というリスクを頭から捨てきれなかった。

 幕府の政策によって東蝦夷地の開発は一旦中断されている。西蝦夷地の小樽地方を中心に請負場所を持つ近江商人達にとってはチャンスの時でもあった。


 今この時に確かな物流を敷く事は、先々の商いでも有利に運ぶ。

 例え産物を生産しても、売れなければ意味がないからだ。


 蝦夷の漁業開発を巡る商人達の戦いも、幕府の国防政策と無関係でいる事は出来ない時代になりつつあった。




「ところで、松前城下は騒がしいですな。なんでも根室にまたぞろロシアの船が来たとか…」

「ええ、今回は漂流民を送り返しに来たとか…。なんでも十年前に紀州藩の御蔵米を積んだ船の乗組員たちだとか」

「ははあ。それを口実に、またぞろ交易を求めて交渉に来たというわけですな」

「そのようで。ですが、お上は認めぬでしょうな…」


 ――ロシアとの交易か。


 傳右衛門にはもったいないなという意識があった。

 商人としては、交易路が拡大することはそれだけ商機が増える事に繋がる。歓迎すべき事だった。

 しかし、松平定信は海外諸国との交易は長崎だけで行うという既定路線を維持する方針を崩さない。


 この時に来航した遣日使節がアダム・ラクスマンであり、ラクスマンが伴って来た漂流民が大黒屋光太夫だった。

 言うまでもなく大黒屋光太夫の送還はロシアの純粋な好意であり、それだけロシアでは日本との交易を熱望していた。

 ラクスマンはエカテリーナ号に乗ってこの年の九月に厚岸に到着。一路松前を目指していた。



 キリシタン禁令に端を発した鎖国令は、当初は諸外国との交渉を拒否するものではなかった。

 しかし、松平定信の国防に対する危機意識によって、鎖国令は日本国の防衛の為の国法へと変わる。


 封建制によって日本は小規模国家群を徳川家が統括するある種の連邦国家のような制度を敷いて来たが、『外国』を強く意識することで同時に『日本国・日本民族』という意識を強く持ち始める。

 そして、本居宣長などの国学者がその思想を後押しした。


 この時期、ヨーロッパではフランス革命によって近世的王政が否定され、近代的な民族国家・民主国家を生む契機となる。

 それらの思想の進展は、国民が経済的自由を求める資本主義の進展によってもたらされたものだった。






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