第80話 動乱


 


 1863年(文久三年) 六月  大坂




「何故です!このまま攘夷派の者をのさばらせておけば、大老様が命を賭して守られた国民の命すらも危険にさらす事になるのですぞ!」

 水野忠徳は老中の小笠原長行に噛みついていた。


 十四代将軍家茂が上洛し、京で人質同然となっていることに憤慨した水野ら一行は、西洋式の軍備を備えた幕府陸軍一千五百を率いて海路大坂に上陸し、武力によって攘夷派を一掃しようと目論んでいた。


「京におわす上様からも上京差し止めの命が届いた。上意であればやむを得ぬ」

「くっ!」

 小笠原の言葉に水野は血が出るほどに唇を噛みしめた。


 ―――何故奴らはいつも邪魔をする!この国を一体どうしたいというのだ!


 京に集まった維新の志士たちは、スタグフレーションによって政情が不安定になるに従って民衆の不満を代弁するような形で、徐々に武力による攘夷を行い始める。

 朝廷内でも積極的開国論を支持する姉小路公知を暗殺し、尊王攘夷に反対する者は力でねじ伏せるという態度を明確にしていた。


 そして、五月には恐れていた戦端がついに開かれる。

 長州藩が関門海峡を航行する外国籍の船に砲撃を加え、本格的に日本と諸外国との戦争が始まろうとしていた。

 大老井伊直弼が苦悩の果てに選んだ『国民の生命』が危険に晒されようとしている情勢下において、水野の心には尊攘派に対する怒りが充満していた。


 ―――そもそも奴らが最初からご公儀の決定に従っておれば、このような事にはならなかったのだ!


 ハリスとオールコックが抗議してきたあの時、日本国が一致団結して軍備を整えていれば諸外国の無法な要求を突っぱねる事もできたかもしれない。

 そう思うと水野の怒りはなお一層激しい物となった。



 しかし、水野はこの後将軍家茂によって謹慎させられ、そのまま隠居となって政治の表舞台から退場させられた。


 そして、七月には生麦事件に端を発する薩英戦争が勃発し、馬関戦争と合わせて日本は二度局地戦に敗北する。

 もとより日本国が総力戦を行って負けたわけではないが、『日本が戦争に負けた』という事実を創り出してしまった。

 後の明治政府は不平等条約を結んだ幕府を糾弾したが、元はと言えば薩長が幕府に逆らって行動したことが原因だし、余計な戦争をして本来しなくてもいい譲歩をせざるを得なくなったことが不平等条約に原因と言える。


 当初水野の描いた策略通りであれば開国と言っても出島のような限定的な開国であり、領事裁判権などはそもそも有名無実の物になるはずだった。

 外国人と日本人の交流が限定的であれば日本人と外国人の揉め事は避けられるし、外国人の裁判のような面倒事はそっちで対処してくれという意味合いだった。

 その為に諸外国が驚くような為替譲歩をして見せ、それと引き換えに外国人の国内移動を制限している。


 また、関税は元々貿易金額にかけていた。それを貿易数量に変更し、インフレによって貿易額が増加することに対応しない関税制度に譲歩せざるを得なくなったのは、薩長が勝手に戦争をして勝手に負けたからだ。


 つまり、幕府が不平等条約を結んだのではなく、幕府が結んだほぼ対等となるはずだった条約を薩長が足を引っ張って不平等条約に変えてしまった。

 いわば自業自得の事を幕府の責任として押し付けた格好だ。

 まさに勝てば官軍であり、歴史を作る権利を得た事による暴挙としか言いようがない。



 水野は悔しさを噛みしめながら、崩壊してゆく幕府をひっそりと見守る事しかできなかった。




 1864年(元治元年) 四月  京 大丸屋京都本店




「この度の御用金は会津公の御用である」

「………」


 京の名門呉服商『大丸屋』の当主・下村彦右衛門は、壬生浪士組を束ねる近藤勇から御用金の命令を出されていた。

 大丸屋は八代将軍吉宗の治める享保の頃に開業した名門で、当代彦右衛門は八代目に当たる。

 令和元年現在の社名は『株式会社大丸松坂屋百貨店』である。


「しかし、納入させていただいた浅黄色のだんだら羽織の代金もまだ頂いてはおりませんが…」

「ふむ……そうだったか。では、羽織の代金も今回の御用金に込みということで理解せよ」

「それでは手前どもも商いを続けていく事ができません。お上からも安政以来何万両も御用金を命じられております。これ以上負担しては今度は手前どもが倒産の憂き目に…」


「全てはご公儀のご恩に報いるためだ。その方らは幸せ者よな。このような天下国家の大事にお上の役に立てるのだからな」

 大口を開けて馬鹿笑いをする近藤を前に、彦右衛門は俯いて唇を噛む事しかできなかった。


 昨年の八月には同じく壬生浪士組からの金の無心を断った生糸問屋の大和屋庄兵衛が、芹沢鴨らによって店を焼かれている。

 芹沢は消火の為に動こうとした者を刀を抜いて脅し、きれいに焼け落ちるまで見守ると呆然とする大和屋を尻目に高笑いで引き上げていった。


 その様子をこの目で見ていた彦右衛門にとって、近藤からの『依頼』は脅迫に等しい。

 結局は黙って受け入れるしかなかった。



 近藤勇は同じく京都守護の松平容保の名を使って大丸のみならず大坂の鴻池屋や加島屋などの豪商二十名から七万両あまりの金を供出させている。

 翌年の十一月までに返済するという誓約書を書いたが、当然の如くビタ一文返済されなかった。


 後に新選組と改名し、『誠』の旗を掲げて義の為に戦う侍たちは、出自はともかく確かに最も武士らしい武士だったと言える。

『武士はカネの上での約束は平気で破る』という事を地で行っていたのだから…


 もっとも、それは新選組に限らない。

 薩長を中心とした倒幕派も返す気のない借金を次々と商人達に強要する。

 商人の目から見れば、倒幕派も佐幕派も同じ穴のムジナでしかなった。倒幕派は危険なテロリストであり、佐幕派は市民の生活まで取り締まる秘密警察と変わらない。

 どちらにせよ、なんのかんのと理由を付けてカネを奪い取っていく存在に変わりはなかった。



 ―――我らは一体どうなってしまうのか…


 戦国期と同じく、世の動乱の中では商人はか細く儚い存在でしかなかった。


『カネを持っている』


 ただそれだけの理由で、略奪に近い状態で財産を奪い尽くされる。まるで金を稼ぐ事が罪であるかのように…


 横浜を中心とした貿易で儲けているのは養蚕農家と生糸問屋であり、大丸屋や越後屋のような昔ながらの呉服屋は原料高と売上の減少で多くの商人が倒産している。

 江戸の三大呉服商の一角と謳われた大丸屋も、いつ倒産してもおかしくないほどの経営状況だった。


 大丸屋は最終的に近藤勇の御用金を受諾せざるを得なかった。

 引き換えに得たものは、蛤御門の変によって京都全店舗焼失という悲劇だけだった。




 1865年(慶応元年) 十二月  近江国八幡町 山形屋




「長州征伐の御用金を我が山形屋に…?」

「はい。山形屋に限らず、江戸に店を構える大店には悉く御用金の命が下っているそうです」

 山形屋の十一代目西川甚五郎は、江戸支配人の田川平助から年末の営業成績の報告を受けていた。


 父の早世によって五歳で家督を継いだ甚五郎は、この年十七歳になっていた。

 幕末の動乱は絶頂期を迎え、若い甚五郎は混乱する世相の中で難しい舵取りを迫られていた。


「いくらだ?」

「当家には千八百両、八幡商人全体では六千両に上ります」


 甚五郎はため息を吐いた。長く後見役を務めてくれていた九代目は三年前の文久二年に亡くなっている。

 家族や従業員、取引先を守るためにも決して潰れるわけにはいかないという重圧は、若い甚五郎の双肩に重く圧し掛かった。


 甚五郎は本店の帳簿を取り出すと、先ほど受け取った営業報告書をもう一度見直す。

 このご時世に御用金が返済されると思う方が愚かだ。損失として計上して問題ないかどうかを検討するため、頭の中で必死に算盤を弾いた。


「……今回は何とかなるな。よし、応じよう」

「しかし、今回で終わるという保証は…」

「それは分かっている。だが、断れば江戸の従業員たちの身が危うい。近頃では御用に応じぬ商人は南町奉行に拘束され、お白州で厳しい取り調べを受けると聞く」

「………」


 平助には返す言葉がない。事実だったからだ。

 第二次長州征伐の軍資金として徴収された今回の御用金を巡っては、幕府の御用金取り立ても厳しい物だった。

 南町奉行の与力たちは、町人の身上を考慮に入れずに御用金割り当てを増額し、命令に従わない町人は番所へ呼び出し、お白州で強談判し、家財を差し押さえて刀を突きつけるといった脅迫まで行った。


 国民の生命と財産を守るという大義は失われ、内乱に対応する軍資金として徹底的に国民の財産を奪い取った。

 もはや末法の世の様相を呈し、八幡町でも住吉神社の御札が突然降って来ては、御札の落ちた家に大勢で推参して踊りあかすという『ええじゃないか騒動』が巻き起こる。

 国民全員が苦しみ、現実逃避を行わざるを得ないほどに武士の戦いに疲れていた。




 1866年(慶応二年) 二月  江戸 三井越後屋




 越後屋三井家の家祖・三井高利の次男高富を祖とする『伊皿子三井家』の九代目、三井元之助もとのすけ高生たかしげは、紀ノ国屋・美野川利八を招いていた。


「この度の長州征伐の軍資金として、我が越後屋に百五十万両の御用金の命が下ったが、とてもの事受けられる額ではない。

 紀ノ国屋さんは勘定奉行の小栗上野介様と御懇意にされていると聞く。どうか三井の窮状をお上に訴え、御用を減免してもらえるように働いてはもらえないだろうか?」


 元之助が深々と頭を下げる。難しい顔をしてた利八は、一つ頷くと明るい顔で応じた。


「越後屋さんにそこまで見込んで頂けたとは、この紀ノ国屋にとってもありがたい事でございます。

 どこまでできるかは分かりませんが、精一杯働かせて頂きます」


「おお!ありがたい!何卒よろしくお願いいたします」


 喜色を満面に表した元之助が押し戴かんばかりにして利八の手を握った。

 今回の御用金は正に三井越後屋の死命を制すると言えるほどの巨額だった。



 美野川利八は出羽国庄内藩の藩士の次男として生まれたが、父が出奔して浪人になったために七歳から京・大坂で過ごした。

 利八自身も十四歳から諸国を放浪し、色々な商家で奉公をしたが、神田三丁目で油や砂糖を商う紀ノ国屋の先代美野川利八に見込まれて婿養子となり、紀ノ国屋を継いで利八を襲名していた。


 放浪中に一時小栗忠順の家に雇い仲間として奉公していた時期があり、その縁で諸外国の圧力で万延改鋳が行われるという情報をいち早くつかみ、天保小判を仕入れて改鋳の大幅増歩で一財産を築いた。

 天保小判の両替を三井越後屋に持ち込んだ縁で三井元之助の知遇を得、今回はその縁で三井と小栗の間を取り持つ仲介役を依頼された。


 元之助から依頼を受けた利八は、小栗を始め様々な伝手を使って運動し、ついに百五十万両一括納付という御用金の条件を五十万両三ヵ年納付という条件にまで減免させる。

 幕末の動乱を経て、商業界においても力のある者が続々と頭角を現し始めていた。



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