第13話 八幡山城築城
1583年(天正11年) 秋 近江国蒲生郡南津田村
「婿殿は居るかな?」
唐突に父 藤木宗右衛門の訪問を受けてふくはあわてて玄関に出た
「まだ出かけております。明日には戻ると思いますが」
「左様か。では戻ったら我が家へ来るように伝えてくれぬか」
「わかりました」
父が夫を呼び出すなど珍しいこともあるものと思った
二人の仲は決して険悪なものではないが、さりとて二人で語らうほどに親密なものとは思えない
何かよほどのことが
翌日
甚左衛門が宗右衛門を訪ねた
「
ふくに話を聞いて甚左衛門も不審に思ったが、ともかく話を聞いてみなければわからんと思い、旅装を解くとすぐに藤木家を訪ねた
「うむ。羽柴筑前守様の命で八幡山に城を築くことになったそうじゃ。ついては、そなたに築城の
すまぬがそなたすぐにでも田中様を訪ねてくれぬか。あと五日の間は八幡山で縄張りを行うとのことだ」
「わっわたくしがですか!?」
思わず声が裏返った
「そうじゃ。なんでも筑前守様直々のご指名だとのことでな。ともかくすぐに田中様にお会いして参れ」
「はぁ」
甚左衛門にはさっぱり事情がわからなかった
なぜ築城の現場監督を命じられるのか
羽柴様直々のご指名というが、今まで御意を得たことなど一度もないはずだ
しきりに頭をひねりながらも八幡山へ急いだ
南津田村は八幡山の西側の麓にあたる
現在の近江八幡の町からはゆっくり歩いても30分はかからない
甚左衛門は急いで八幡山の田中吉政の元を訪ねた
「失礼します。南津田村の商人、西川甚左衛門でございます」
「おお、そなたが西川殿か。よく参られた。わしは田中九兵衛と申す」
「よろしくお願いいたしまする」
八幡山の麓で縄張りをする田中吉政一行を見つけ、甚左衛門は
「宗右衛門殿から聞いてもらっているとは思うが、今縄張りをしておるこの城並びに城下町と掘割の大工頭を頼みたい。これが筑前守様からの絵図面じゃ」
「あの…そのことですが、何故手前に命が下されたのでしょう?」
「筑前守様からのご指名だ。八幡山の麓の南津田村で伴伝次郎の弟子が商いをしているはずだと。算勘に強い者ゆえうってつけであろうとな」
「筑前守様は伝次郎さんをご存じだったのですか!?」
「そのようだな。わしも知らなんだがな」
なるほど…そういう
「しかし大工組などとやったことがありませぬが…」
「わしの配下の者を補佐に付ける故心配はいらぬ。材料の読みと日数の見込を立てて、番匠や人足たちの仕事を監督してもらえれば良い」
(ずいぶん簡単に言うな…)
甚左衛門は途方に暮れたが、やらぬと言えば伝次郎の名を汚すことになる
それに、絵図面を見た時に俄然やる気になっていた
八幡山の頂上の城を頂点に、東側の広大な湿地を埋め立てて縦12筋・横4筋の碁盤状の町割りだ
現代でも、建築現場の工事監督と言えば主な仕事は材料の拾い出しと各工程・工期の管理だ
その意味では算勘に明るい者の方が向いていると言えなくもない
ただ、素人に務まるものではないという事も現代と共通している
秀吉の指名は無茶ぶりにもほどがあった
しかし、甚左衛門は伝次郎から託された『楽市』の夢を実現するのにはこの場所は最適だと思った
安土に近く、安土の都市機能も取り込めるし、街道も整備されつつある
合わせて琵琶湖の水運が使えるので、安土よりも諸国の物産を集めやすく、諸国へも産物を届けやすい
その場所を自分が作れると思うとやる気が漲ってくる想いだった
月が変わって天正十一年十月
田中吉政の家臣5名を補佐に借り、八幡山城の築城が始まった
1583年(天正11年) 冬 近江国蒲生郡日野城下
「一息いれてくださいな」
五井珠はそう言って買い入れた米を倉に運ぶ丁稚達に茶を振る舞った
「これは奥方様。ありがとうございまする」
倉の中で采配を振るっていた手代の勘治がそういって珠に頭を下げると、米俵を運んでいた丁稚達に”一息入れよう”と声をかけた
冬の寒さに温かいお茶がありがたかった
お茶請けに干し柿が添えられていて五人の丁稚は喜んで頬張る
それをみて珠は眩しそうな顔をした
(最近奥方様の機嫌がいいな…旦那様とうまくいってるんだろうか)
五井家手代の勘治はそっと珠を伺い見た
(相変わらずお綺麗な方だ。それに最近は朗らかに笑っておられて天女のようだ。旦那様がうらやましい)
蒲生家商人司を務める五井宗兵衛高秀は、市での自分の店の販売は勘治にある程度の宰領を任せ、自身は各種の仕入れと蒲生様の御用に走り回っていた
蒲生家の商人司の地位に座ると麻呉服の商いも始めた宗兵衛は、日野の住民の為の商いと日野へ仕入れにやって来る伊勢の商人との商いで中心的な役割を果たしていた
特に酒と日野椀はそれを目当てに楽市へとやって来る行商人も多く、今までにないほど日野の市は盛り上がりを見せていた
「商いとは大変なものなのですね…」
奥方様が嘆息する
「武士ならば夫の戦の為に日々のお世話を行うのみですが、商人の妻であれば周囲の商家の奥方様とのお付き合いもあります。正直こんなに大変だとは思っていませんでした」
「商人は横のつながりが大事だと常々旦那様がおっしゃっておられますから…」
「ええ、『そういうお付き合いも商人にとっての戦と心得よ』と諭されました」
「戦ですか…確かに銭を武器に戦っておるようなものですな」
勘治があいまいにうなずく
(旦那様が贈られた小袖の効果があったのか、最近では嬉々としてお付き合いも熟しておられる)
勘治がぼんやり考えていると主人宗兵衛の帰宅が告げられた
あわてて休憩を切り上げ、玄関まで迎えに行った
「おかえりなさいませ」
「うむ。只今戻った」
珠が声を掛け、腰の刀を預かる
女中が温かい湯を持って
「ふぅ~あたたかいな」
宗兵衛が足を漬けて心地よさそうな顔をすると、珠がふふふと笑った
「ようございました。年の瀬はごゆっくりなされるのでしょう?」
「うむ。ひとまず戦は収まっておるからな。春になればまたぞろ動き出すかもしれんが…」
「まあ…」
珠が眉根を寄せる
「心配いたすな。飛騨守様がそうそうに遅れをとることはあるまい。私も兵糧や軍馬などできる限りの協力をする故な」
「左様でございますね」
(戦か…我らは後方だから良いが、同輩の武士の中間は辛かろうな)
勘治は自分たちが戦わざるを得ないような事にならないことを祈った
1584年(天正12年) 夏 近江国蒲生郡南津田村
新治郎と市兵衛があぜ道で相撲を取って遊んでいる
ちえとふくは少し離れた川で洗濯物を洗いながら話し込んでいた
「新治郎は大人びてきたねぇ。ちえさん」
「そうかな?まだまだ子供だよ。義姉さんこそ甚五郎を抱えてやんちゃな市兵衛の相手は大変じゃない?」
「う~ん。慣れかな?最近は市兵衛も忙しい時は気を使ってくれてるみたいだし」
「やっぱ兄弟がいるとそこらへんが違うのかなぁ。新治郎は何も気にせず泥だらけで帰ってきてしまうし」
「あはは。それは市兵衛も一緒よ。一緒に遊んでいるんだもの」
「それもそうか」
二人で声を上げて笑った
この頃ではちえとふくもすっかり打ち解け、夫の愚痴や家事仕事のやり方など二人で寄っては他愛もない話をするのが常だった
新治郎と市兵衛はよほどに元気が有り余っているのか、二人とも肩で息をしながらも”まだまだ!”と声が聞こえた
「ちえさん。蚊帳織りって難しい?」
「蚊帳?簡単そうには見えないよ。私も糸繰くらいしか手伝えないし」
「そっか…」
「どうしたの?」
「
「ふ~ん。そういえば
「一度私たちでも手伝えるかやってみない?」
「そうねぇ。帰ったらうちのひとに言ってみる。あ、こら~!二人ともあぶないって!あ~~~!!」
ちえが立ち上がって声を張り上げるのと、足をもつれさせた新治郎と市兵衛が二人仲良く田に突っ込むのがほぼ同時だった
まだ田には水を張っただけで、種籾を撒いてないからよかったものの…
「まったく、洗い物ばっか増やして」
ちえが腰に手をやって憤る
ふくもため息を付いていた
江戸時代初期の頃から、八幡町周辺の百姓家が副業として蚊帳を始めとした織物を織ることが常となっていったが、農閑期の織物は主に女房の仕事だった
男衆は二毛作用の麦作や藁を使ったわらじ・俵・縄などを結った
ちなみに、江戸中期の享保二十一年や明和七年に作成された村明細帳によると、作付けの稲は種が芽吹きやすく、実が充実しやすい
冬の間に麦を撒き、麦秋の頃に麦の収穫を終え、晩稲の稲を植える
米の収穫は現在の十月下旬から十一月初旬にかけてとなる
合間の夏には草を刈って草肥を作るのだ
事情はこの頃もあまり変わらないと考えられるので、百姓が副業に織物をするとなれば実際の生産は女房達に任されたのであろう
現在でも近江八幡町周辺の旧家には玄関から門までの間に5~6mほどのスペースが設けられているのは、こうした副業の名残だろうか
天正12年は春から冬にかけて小牧・長久手の戦いが起こり、尾張で徳川家康と対陣中の羽柴秀吉に対して四国では長宗我部が、紀州では雑賀衆が、北陸では佐々が、伊勢では織田信雄が、と包囲網を形成しつつあり、情勢は極めて秀吉にとって危険だった
その上、羽柴秀次らが家康にいいように手玉に取られて徳川に一敗地にまみれた状態となっていた
対陣中に度々小牧山を抜け出して大坂へと走り、紀州や四国方面の手当てをして、また小牧山に戻るという信長包囲網を彷彿とさせるような東奔西走ぶりだった
だが、徳川に援軍を請い、戦の名目上の総大将を務める織田信雄が十一月に秀吉と単独で講和すると、家康も五日後に秀吉と講和
梯子を外された四国・紀州・北陸の面々は秀吉に各個撃破されていく
この時に信雄が断固として徹底抗戦を行っていれば、この時点で秀吉の天下は崩れていたかもしれない
いずれにせよ、秀吉は家康に『戦術で負けて戦略で勝った』状態となった
以後、徳川の臣従を勝ち取るために秀吉はありとあらゆる手段を講じてゆくことになる
一方、長久手の戦いで大失態を犯した秀次だったが、その後の紀州征伐・四国征伐にて汚名を返上する活躍を見せ、天正十三年八月に南近江四十三万石を与えられる事になる
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