第4話 嵐の前


 1570年(永禄13年)春 近江国蒲生郡常楽寺 木村城




 伝次郎は織田信長の呼び出しを受け、常楽寺湊付近の木村高重の居城に来ていた

 近々ちかぢか常楽寺の浜で相撲大会が催されるとのことで、近郷の筋骨たくましい若衆が続々と集っている


 常楽寺の沖合には遠く荷船が見えた

 豊かさの象徴だと伝次郎は思った

(願わくば飢えたる人々の全てに行き渡ってほしいものだ)

 それが叶わぬものと知りながらも…



「保内商人 伴伝次郎にございまする!先年の観音寺城の戦のおりは我が願いをお聞き届け下さり、改めて御礼もうしあげまする」

「面をあげよ」

「ハッ!」

 伝次郎は信長を見た

 型破りなお方とは聞いていたが、これは予想以上に…


 信長は縁側の淵に腰かけ、立てた右膝の上に右腕を乗せ、頬杖をついている

 伝次郎は信長が座る縁側の傍らの土間で片膝をついている


「保内では牛馬の専売をしているそうだな」

「仰せの通りにございまする」


 伝次郎は内心不安だった

 何故1年以上放っておいたものを今になって呼び出されたのか…

 軍馬の徴発だろうか、あるいは矢銭か兵糧か…

 いずれにしても協力せざるを得ないと覚悟はしていた

 六角様からも度々徴発されたのだ。多少のものはどうということもない

 今や織田家は南近江・伊勢を制圧していた

 織田家の庇護なしに保内商人の通商は不可能だ


 信長がぐっと顔を寄せてきた

「牛馬の権を安堵いたす故、京から伊勢・尾張を経て岐阜まで伝馬を整備せよ」





(……!!!)

 一瞬思考が停止した


 なんということだ

 このお方は保内衆の力を、その力の源泉を正確に理解されている

 商いに理解のあるお方とは思っていたがこれほどとは…

 伝次郎は言葉が出なかった


 信長は伝次郎の眼を覗き込んでくる

「悪い話ではあるまい?」


 その通りだった


 保内商人の力の源泉は伊勢との通商ではない

 牛馬、ことに馬の専売権にあった

 これは牛馬の売買益だけの問題に留まらない


 四方を山に囲まれ、外海に出る術のない近江にとって、大規模な通商には荷駄が欠かせない

 近江において大規模な隊商を催すとなれば、保内商人から馬を買うあるいは有償で借りざるを得ない

 つまりは、大規模に近江に入ってくる荷あるいは近江から出ていく荷はすべて保内商人の統制下にある

 人が担げる程度の荷では近江全体の市場規模からすれば微々たるものだった

 そして、他郷の商人が持ち込んだ荷も必要ならば市を通じて買い取れば良い

 実質的に、保内商人は牛馬の専売を得ることによって近江に出入りする全ての産物の統制を行うことが可能だった



 京・近江・伊勢・尾張・美濃へ伝馬を整備するということは、街道の各宿駅を自由に商人宿にできるということだ

 各宿駅から里売りへ出ることもできる

 商圏が爆発的に広がることになる

 商いとしては、信長の言う通り決して悪い話ではない

 しかし…


「畏れながら、我ら保内衆は山門(比叡山)を本所とし、山門の安堵を受けることで諸関の通行を保証されておりまする

 折角のお話なれど、山法師の威がある以上伝馬などという大それたことはお受けできかねまする」


 できるだけ柔らかな口調で話した

 苦しい言い訳だが、半分は本当の事だ

 織田家の伝馬役となるということは山門へ納めていた公事銭(税)を今後織田家へ納めることになる

 僧兵どもがだまっているはずはなかった


 もう半分は、伝馬により保内衆の自立が奪い去られる事を恐れていた

 伝馬を出すということは即ち、戦時には保内のがすべて軍事用の物資となることを意味している

 莫大な利を得る代わりに、もはや織田家と離れて存続することはできなくなる

 商いの利も、荷馬による統制も、米などの物資も

 全ては織田に勝たせるため、織田の支配領域を広げるために使わなければならない

 万一織田が近江を逐われれば、それまで作り上げた宿駅の利はそっくりそのまま他国・他郷の商人のものへと変わるだろう



 伝次郎は信長の怒りを覚悟した

 だが、


「であるか」


 感情のない声だった

 思わず信長の顔を見た


(………何もない)


 冷たい怒りも、激しい憎しみも、失望も

 何もなく完全に無表情だった

最初はなからそう言うと思っていた)

 そんな顔だった


 慌てて顔を伏せるとドスドスドスと足音を立てて信長は行ってしまった

(我らの商いは民の為のものではなくなってしまうのか…)

 伝次郎は放心の中でそう思った

 最初からそう思っていたのならば、次は山門へ話を付けてから再度呼び出されよう

 そうなればもはや抗うことができない




 1570年(永禄13年)春 近江国蒲生郡日野木地師の里




「某は蒲生家家臣、町野左近将監である!五井宗六はおるか!」

 木地師の工房の入口でお城方の武士が大声で呼ばわった

 宗六は椀を見る手を止めてぎょっと振り返った

「はっ!某でございます」

 あわてて椀を置き、武士の前まで行って膝を付く

「そちが宗六か。忠三郎様がお召しである。急ぎ日野城へ参れ」

「はっ!ただいま!」

 慌てて家に戻って準備をした

 お城に呼ばれるなど父でも滅多にあることではない

 一体何事なのか…



「五井宗六にございまする!」

「うむ、面をあげよ」

「ハッ!」

 鶴千代様…いや、元服して名を改められた蒲生忠三郎賦秀ますひで様だ

 昨年織田弾正忠様より許されて岐阜よりお戻りになられたと聞いたが


 今年十五になられるはずだ

 面長だが少し下膨れのお顔にダンゴ鼻が乗っている

 甚左と少し似ているなと思った

 とはいえ、目が全然違う。忠三郎様は切れ長だが闊達な雰囲気を湛えていた

 甚左は目が大きく、印象がある


「そちの噂は聞いている。なんでも京の酒を日野へ持ち帰り、日野の塗杯と共に売っておるとか」

「恐れ入りまする」

「宗六、近う寄れ」

「はっ」

「もっと近う」

「はっ…あの…」

「遠慮はいらぬ、これへ」

 忠三郎様の前三尺ほどの場所を手で差された

 …

「失礼いたしまする!」

 思い切って目の前に座った

 蒲生家のお世継ぎ様が目の前に居る

 これは現実かと思った


「宗六、俺はな、弾正忠様のお傍でお小姓としてお仕えさせていただいておった

 弾正忠様は商いの利を良く御存じだ。商人という者は何も作らず、右から左へ物を動かすだけで銭を生む

 なんとも奇妙な術を使う者よと仰せであった」

「はっ!ありがたきお言葉」

「俺は弾正忠様のなさり様を間近で見てきた。そのやり様をこの日野で真似たいと思うておる

 そんな折、そなたの噂を耳にした。保内の伝次郎の元でおおいに学び、独り立ちして商いをしている者が家中に居ると

 俺は日野を岐阜にも負けぬ大きな市へと変えたい。その為にそなたの力を貸してほしい」

「もったいなきお言葉…恐悦至極にございまする」

 宗六は思わず涙ぐんでいた


 今まで商いをする事にここまで理解を示してくれるお方はいなかった

 仮にも武士のが市で大声で呼ばわるなどとは と陰口も叩かれていた



「差しあたって、市を賑わせるため俺にできることがないか?」

「畏れながら申し上げます。しからば京より酒造りの杜氏を呼び寄せて頂きたく、お願い仕りまする」

「ふむ。心当たりは居るか?」

「されば、伏見の仁兵衛を日野に招き、近郷の百姓に酒造りを学ばせとうございまする」

「日野を酒蔵の町にすると申すか」

「日野塗の器と京の酒。上質な物同士なればこそ高めあいましょう」

「良く言った!ならば仁兵衛とやらに当たりをつけよ。扶持は十石を取らすように父上へ俺がかけあおう」

「はっ!」

「宗六に俺の秀の名を与えよう。これよりは五井宗兵衛いついそうべえ高秀たかひでと名乗り、越後守を称するが良い」

「ははっ!」

 俺はこのお方の為に商いの全てを賭けよう


 宗六改め越後守高秀はそう心に誓った




 1570年(元亀元年)春 美濃国厚見郡岐阜城下




 ルイスフロイスが『日本史』に記した賑わいの中で外村小助は見世みせを出していた

 扱う荷は鍋・釜・木椀・箸などの日用品、木曾のマタギから仕入れた鹿・熊・猪などの肉の塩漬けと炭、近郷の百姓の赤米・味噌・菜・大根・ネギ・里芋などなど

 木曾は山深く岐阜から通う商人は稀であった


 人が行きたがらない場所ならばこそ、行く価値があると大助は言っていた

 兄弟の強みを活かして、大助は木曾や日野などの遠方の仕入れを担当し、小助は見世番と近郷の百姓から赤米・味噌・野菜を仕入れていた


「いらっしゃい!」

「鹿肉をくださいな。それと木椀を二つ」

「まいど!五十文です!」

 近郷の御新造さんだろうか、はしや鍋・釜などを以前からちょくちょく買いにきている

 今やお得意さんだ



 それにしても…岐阜の加納は大変な賑わいだ

 近郷からも尾張からも沢山の行商がひしめき合って来ていた

 近江の横関や馬淵の行商、京からの者もちらほら見かけた

 桑名の津にも勝るとも劣らない


 行商が扱う荷も食品・呉服・日用品・武具・装飾品

 産地も西国から東海、果ては唐物までありとあらゆるものが揃った

 しかも諸役免除という

 商人にとっては極楽のようだった

 まさに楽市だ



「戻ったぞ~」

「おかえりなさい」

「信濃は今年は少し物成が悪いようだな。いつもより多くの肉と交換できた」

 荷を下ろし、菅笠を解きながら兄が陽気に話しかけてきた

「それはよかった。こちらも箸や鍋釜が良く売れます。多分新たに居を構える人が多いんでしょうね」

「うむ。織田様は上洛して武威も天下に轟き、民も豊かになって喜んでいる。大したものだ」

「甚左さんや宗六さんは元気にしてるでしょうか」

「わからん。宗六とももう別れて一年にもなるか。早いものだ」

「皆も岐阜へ来ればいいんですがね」

「そうもいくまい。甚左は大和との往復だし、宗六も日野の市を盛り上げようとがんばっているのだ」

「日野かぁ。久しぶりに日野菜漬ひのなづけが食べたいですね」

「次は日野に椀や箸を仕入れにいくから、ついでに求めて来ようか」

「ええ、きっと岐阜でも売れますよ」

「だな」

 二人で笑いあった



 岐阜に来た時、兄が言った

 二人で商える量などたかが知れている

 なら、品数をずんと増やしてどんな相手にも求める物があるようにしよう と

 兄のその狙いは当たったと思う

 持ち込む品の量は多くないが、その分『なんでも揃う万事屋よろずやよ』と

 岐阜の楽市内でも存在感を出す見世になりつつある



「大変だ!義弟の浅井備前守様が弾正様を裏切ったらしい!」

 隣の見世へ駈け込んできた者が見世の主と話している

「弾正様はどうなさったんだ!?」

「これはまずいと京にお戻りなさったそうだ。あわや討死かというきわどいものだったそうだ」

「これから岐阜城にお戻りになるのかな」

「おそらくな、またが焼き払われるのかもしれん」

「二年でここまで賑わったのに…少し手じまいをし始めるか」



 思わず兄と顔を見合わせた

 この極楽のような市が焼き払われる!?

 考えたくもなかった



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