第95話 日本国民の雄飛


 


 1905年(明治38年) 九月  滋賀県蒲生郡八幡町




「ようこそお越しくださいました」

 先代の西川甚五郎である西川重威は、国鉄八幡駅に降り立った一人の牧師を出迎えていた。

 重威の後ろには滋賀県の県議員や八幡町の有力者たちが居並んでいる。


「お出迎えに感謝いたします」


 金色の髪と青い眼をした青年牧師は、帽子を取ると深々とお辞儀した。

 日本の習慣では握手よりもお辞儀が好まれるという事は事前に承知していた。



 ポーツマス条約を締結し、多大な犠牲と莫大な軍事費を消費した日露戦争が終結したころ、八幡町にも新たな息吹が吹き込んでいた。


 滋賀県の産業育成に力を尽くした中井弘が県知事にあった明治十八年。滋賀県議会では県立の商業学校を設立する法案が可決され、明治十九年から開校していた。

 当初大津市にあった商業学校は、日清戦争後の殖産興業で優秀な人材を欲した実業界から重宝され、企業内定率の増加に伴って生徒数が激増し、大津の校舎で収容しきれなくなったために明治三十四年に八幡町に移転していた。


 当時文部省の商業学校規則では英語の授業は必修となっていなかったが、行商から身を興して諸国に雄飛した先人達の祖業を受け継ぎ、積極的に海外へ打って出ることが出来る人材を育成するため、商業学校では毎週六時間づつの正科授業として英語の授業を導入していた。

 その英語教師としてこの時に招かれたのが、プロテスタントの牧師だったウィリアム・メレル・ヴォーリズだった。



「ご覧頂いた通り、日本は貧しい島国です。どうか、我が町の子供達を世界に飛び立てる子らに育ててやってください」

 重威の言葉にヴォーリズはニコリとほほ笑む。鼻の高い美男子であるヴォーリズが微笑むと、男色の気のない重威でさえもドキリとしてしまう。


「貧しい島国だなんてとんでもない。日本はわずか三十年ほどの間に大国ロシアすらも打ち負かす力を付けました。そのような国の若き力を育てる事ができるのは無上の喜びです。

 これも主の思し召しでありましょう。子供らに祝福の有らん事を」



 ヴォーリズの赴任した滋賀県立商業学校は、明治四十一年に滋賀県立八幡商業学校と改名する。

 伝統的に近江商人は、丁稚を雇用して行儀を修得させた後、自分の店の各支店で勤務させることで新たな商人達を育ててきたが、八幡商業学校の成立によって全ての近江商人達の事績を均等に学ぶ事が出来るようになった。

 授業内容は累代積み重ねて来た簿記技術や会計術から農・工・商・水産業の実業教育までが施され、数々の企業に人材を供給し、数々の著名な経営者を輩出した。


 司馬遼太郎は県立八幡商業を称して『近江商人の訓練所』と表現し、大宅壮一は『近江商人の士官学校』と表現した。

 日本の近代化は教育においても急速に普及していたが、それは伝統ある近江商人にとっても例外ではなかった。




 1906年(明治39年) 二月  アメリカ合衆国 カリフォルニア州サンフランシスコ




「あ~~~~着いたぁ!」

 船から降りて大きく背伸びをした市田利助は、胸いっぱいにアメリカの空気を吸い込んだ。

 港を見渡すとあたりには雑多な英語が飛び交っているが、ごくたまに日本語も聞こえる。

 日本人らしき姿もちらほらと見かけた。


「さあて、ブッシュストリートはどう行くのかな?」


 利助は愛用のトランクを持ち上げると、辺りをキョロキョロと見回しながら目的の場所を探した。



 市田利助家は八幡町で何度も総年寄を務めた市田清兵衛家の分家で、当代の利助は五代目だった。

 利助は西川商店の東京支店で修行した後、『恵比須屋』の岡田小三郎に出資して、岡田商会の取締役常務として入社した。


 岡田商会は醤油・味噌・食品問屋を営んでいたが、ハワイに日本人の移民が入植した事を受けてハワイ支店を出していた。

 市田利助はハワイからさらに西行してアメリカのサンフランシスコに出店を計画する。

 サンフランシスコにも日本人の移民が多数入植し、ブッシュストリートは日本人街となっていた。



 ブッシュストリートに到着した利助は、町の様子に驚いた。

 多くの日本語が飛び交い、商店なども日本風の作りになっている店が目立つ。


 ―――ちょいと興味本位で見に来てみたが、これは確かに醤油がよく売れるはずだ


 利助の勤務する岡田商会はキッコーマン醤油を移民向けにハワイに輸出していた。ハワイに来たのもその売掛金の整理の為だ。

 ハワイからサンフランシスコにも醤油が輸出されていると聞き、どうせなら日本から直輸入で販売する拠点を開いてはどうかと視察に回った。需要があるなら出店を検討するのは商人なら当然の行動だが、利助は実際に現地を見て出店の意志を固めた。


 視察途中の三月十八日にサンフランシスコ大震災に遭遇した利助は、市場で醤油が不足している事を見て取ってすぐさまサンフランシスコ向けに醤油五百樽を発注した。

 着荷と同時に五百樽が売り切れ、追加で一千樽を発注するもそれもすぐに売り切れた。


 利助はそのままサンフランシスコに留まり、市田商会を設立してキッコーマン醤油の輸入販売会社としてアメリカで事業を開始する。

 朱印船貿易時代同様、日本人は元来進取の気鋭に富み、海外に進出して日本人街を形成する者が後を絶たなかった。




 1907年(明治四十年) 九月  イギリス ロンドン




 益田孝は重厚なオーク材の扉をノックした。

 扉には華麗な装飾が施され、重厚でありながら華やかな意匠がただよう。世界に冠たる大財閥の本拠地に相応しい威厳と迫力を備えていた。


 ”カムイン”


 室内から声がして、益田は扉を開けて中に入る。

 机に座った老紳士は、書類をつまみ上げたまま眼鏡を上げ、入口に立つ益田に視線だけを寄越していた。


「お会いできて光栄です。日本の三井を任されております益田です」

「ナサニエルだ。こちらへ来たまえ」


 老紳士はそう言うと机の前を指す。益田は立ち話で済ませるつもりかとやや面食らった。

 近付くと老紳士がようやく書類を置き、眼鏡を外して正面から益田の顔を見た。


「で、何を聞きたいのかね?」

「財閥をどのように運営していくべきなのかをお伺いしたい。サー・ロスチャイルド」


 ロスチャイルドと呼ばれた老紳士は椅子の背もたれに体を預け、一つ息を吐く。

 益田はどのようなアドバイスを貰えるのかと興味深々で立っている。次にどのような言葉が飛び出してくるのか、それを聞き逃すまいと目と耳に全神経を集中した。



 明治三十四年に三井銀行を取り仕切る中上川彦次郎が死に、益田孝は三井財閥全体の舵取りを任されていた。

 中上川はいわゆる慶応学閥のトップで、朝吹英二をはじめ慶應義塾出身の者を多く三井に採用していた。

 中上川と仲の良くなかった益田だが、朝吹の優秀さを認めて要職に付けていく事を決めた。朝吹に限らず、出身学校に関わらず優秀な人材ならば積極的に登用していった。だが、学閥そのものは打ち壊したいと機会を伺っていた。


 他方で銀行を含めた財閥全体の舵取りという事は益田の手に余った。益田は三井物産の設立以来、一貫して商業畑を歩んできた男だ。

 中上川の極端な工業化路線を修正しつつも、やはり財閥にとって工業化は必要な事なのかという迷いを生じ、本場ヨーロッパの財閥家を訪問して教えを乞うていった。

 ロンドンで訪ねたのは、ロンドンロスチャイルド家の当主、ナサニエル・ロスチャイルド男爵だった。



「済まないが三井という家をあまり知らなくてね。どういう事業を行っているのか教えてくれないか?」

 益田は少々むかっ腹が立った。確かにロスチャイルドから見れば東洋の取るに足りない一商家かもしれない。

 だが、日露戦争で勝利した日本をあまり舐めるなよという気持ちもあった。



 ユダヤ人であるナサニエル・ロスチャイルドは、日露戦争時に高橋是清が必死になって戦費を集めていた際、ジェイコブ・シフから勧められて日本の外債募集に応じていた。

 だが、それは決して日本に興味や好意を持ったからではなく、イギリスが同盟する日本を応援するという気持ちだけのものだ。

 日本を代表する財閥である三井財閥に対しても、さほど興味を持っていなかった。


「銀行、鉱山、それと商社を柱にしております。ですが、それぞれに規模が大きくなってきております。

 この大きな物をどう管理してゆけばいいか、御意見を拝聴いたしたい。

 工業化によって益々の多角化を行ってゆくべきか、本業であるこの三つを守り育てていくべきか…」

「で、それらの事業はどれくらいの配当を出しているのかね?」

「いえ、全て三井家の合名会社で無限責任となっております」


 益田がそう言うとナサニエルは失笑を漏らした。益田はますます腹が立った。

 いくら相手が世界に冠たる大財閥といえど、一体何が可笑しいかという気持ちになる。


「それでは話にならんじゃないか」

「……何故話にならんのです?」

「事業は株式公開をして有限責任制にしなければならん。ことに鉱山のような大きな物は無限責任では話にならん。開発にかける資本が一資本家の財産だけでは自ずから限界がある。

 広く資本を集めて、腕の良い技師に積極的に開発させ、誰にでも配当を出せるほどの利益を出せば高く売れる。

 資本家は育った事業を売って、そのカネで次の事業を育てる。そうやって産業を育てていけば、日本ももっと豊かな国になるだろう。

 今の状態で私がアドバイスできる事は無いよ。有限責任に改めてからまたおいでなさい」


 ―――……!


 ナサニエルの言葉が益田の頭に染み入る。それは益田がかねてから抱えていた問題の本質を突いていた。

 益田が工業化路線に反対していたのは、事業のすそ野を拡大すればそれだけ三井家の抱える事業リスクが増えるからだ。

 だが、ナサニエルは事もあろうに三井の根幹事業すらも株式会社にしてしまえと言っている。

 三井家の外からカネを入れ、育てば売って次にかかれ、と。


 益田は今まで三井の三事業を手放すことは一切考えていなかったが、言われてみれば事業規模の大きいものほど有限責任にして他の資本を入れた方が三井家のリスクは分散される。

 他の資本家との共存共栄を考えながら、どこかで三井の事業は三井家のものという意識を捨てきれていなかった。

 翻って、日本の財閥でナサニエルの言うような事業展開をしているのは安田財閥だけだ。


 ―――戻ったら早速三井本家に提案しよう


「ありがとうございます。大変良いご助言を頂きました」

「はい。さようなら」


 そう言うと、ナサニエルは再び書類を取り上げて眼鏡を掛けた。

 一礼して退出した益田は、ふと気になって懐の時計を取り出した。


 ―――たった五分の立ち話か… だが、この五分間は黄金以上の価値のある五分間だった


 イギリスに来る前も様々な国の銀行家や財閥を見て回った。

 アメリカ人は話好きで、応接室に通されてゆっくりと話をされた。

 フランス人は権威主義で、豪華な内装の部屋にごてごてしいテーブルを挟んで重々しく対話する。会話の内容も二度三度と同じ内容の繰り返しだ。

 それに比べて、執務室のたった五分の立ち話で済ませるイギリス人の効率主義に正直面食らった。だが、その指摘の的確さといったらない。

 イギリスが世界の大帝国になったのも頷けた。



 日本に戻った益田は、三井家の了承を得て三井合名会社を株式会社化し、各事業も株式会社化して三井合名株式会社の持ち株会社とした。

 他の資本を入れるという事は実現できなかったが、少なくとも益田が懸念していた事業リスクの分散には成功した。


 五年後の大正二年に益田は後の事を団琢磨に託し、三井財閥を退いた。益田の副官的立場にあった朝吹英二は、周囲からは益田の後継者になると目されていた。

 だが、学閥を打ち壊したい益田は、慶応出身の朝吹よりもアメリカ育ちで学閥の無い団を後継者に推薦した。

 朝吹もその事を良く心得、一切の不満を言わずに団琢磨を支えていく事に同意した。


 明治を駆け抜けた実業家は、最後に実力主義と株式会社化という財産を三井に残して勇退した。


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