第49話 武士の逆襲


 


 1713年(正徳3年) 春  尾張国名古屋呉服町五丁目 近江屋




 ゴクリッ


 思わず喉が鳴る

 見本布を見る『近江屋』店主伝六の手元を食い入るように見つめていた



 外村長次郎は、父の死去に伴ってこの年の二月に『外村とのむら与左衛門よざえもん』を名乗っていた

 家を継いでも農閑期の行商を続け、今日も自家生産の近江上布二巻と布買い問屋の磯部六右衛門の紹介状を持って名古屋の近江屋に売り込みに来ていた



「ふぅむ… 悪くないね… 丁寧に織ってある」

 与左衛門の顔がぱあっと明るくなった


「こちらで扱って頂けますか?」

「値によるな… ただ、上布の中でも上級品に入るから、この出来をこの先も確保してくれるなら一反三百五十匁は出そう」

「ありがとうございます!」


 与左衛門三十二歳

 悪友の藤右衛門は家を継ぎ、すでに商を諦めて農業に専念していた



「木綿呉服が主流になりつつあるとはいえ、夏着や寝巻に上等の麻呉服ならまだ需要はある

 だが、品質が落ちればすぐに取引は打ちきりだが、それでもいいかい?」

「もちろんです!丹精込めて織らせていただきますのでよろしくお願いします!」


 その後与左衛門は農閑期の行商を積極化していき、やがて商売が拡大してくると小作農を雇って農地を耕させ、自身は行商一本を行うようになった

 初代の小助から五代を経て、外村家は再び『商人』の道を歩き始めたのだった




 1713年(正徳3年) 秋  江戸某所




「惨めな姿だな。彦次郎」

 新井白石は牢に囚われた萩原重秀を見下ろしながら満足気な笑みを浮かべていた


 将軍家宣の死の間際に重秀解任を主張し、病によって判断力を欠如した家宣が重秀解任を認めてしまった

 その後無役の旗本となった重秀を収賄の容疑で逮捕し、密かに懇意の武家の座敷牢に幽閉していた


「白石よ… お主は何故さほどにわしを憎む…」

 すでに衰弱している重秀は座しながらも弱々しい声で問う


「フン!貴様は昔から財に明るく公儀の財政を改善させる献策をすらすらと出す

 堀田様のご下問の折りもそうだった


 …目障りなのよ


 そして、王侯の神聖なる装飾である金銀の品位を貶める愚行を行った

 朝鮮には人参の代金として貴様の銀の受取を拒否されるという恥辱を味わった

 貴様のやったことは日本国の権威を傷つけ、お上の権威を貶めた愚行に他ならぬ

 殺してもなお飽き足りぬわ」


「……そんな事で …そんな事でお主はこの国の富を失わせようというのか…

 民の暮らしを… 民の豊かな暮らしを実現したいとは思わないのか…」


「日々の費えが安くなれば民も暮らしやすくなろう

 貴様の愚行のせいで今天下は諸色が高止まりしておる

 旧に復せばいずれ諸色も求めやすくなるだろうさ」


 重秀は首を振った


「それはカネを使う時しか見ておらぬ、カネを得る時の事を考えておらぬ

 物が安くなれば最初は民も喜ぶだろう。だが、すぐに気づくはずだ…


 物が安くなるということは彼ら民が作る物も高く売れぬようになるということ

 やがて彼らの手元に入るカネが目減りし、生活は苦しくなっていく…



 白石よ…商人にカネを使わせろ。武士に代わり、彼らがカネをばらまく事で世の中の富は増えていくのだ

 百姓が産み出す国の富はご公儀の認めた『通貨』によってその価値を計られる

 カネが増えることはこの国の富が増えることなのだ 


 武士は米以外にカネを得る方法を知らぬ

 しかし商人はあらゆる手段を使ってカネを産む。彼らなら武士と同じ轍は踏まぬ


 それこそが民の豊かさを招く道だ」



「黙れ!卑しい商人共に富を委ねるなど正気の沙汰とも思えぬわ!

 奴らは自らの利しか考えぬ匹夫共だ

 士大夫たる我ら武士にこそ富を集めねばならんのだ!」



 重秀は目の前が暗くなる思いだった


 白石の言うことは古の春秋の話だ

 時代はカネを産む者こそが主導権を握るべき世の中になっている

 公儀の役割は彼らの富を集約し、産み出された富を広く再分配することで彼らの富を世の中の富へと変えることなのだ…



「フン!これ以上貴様の妄言に付き合う気はない!」


 白石は懐から一包の薬を取り出した


「これ以上惨めな姿を晒すのも辛かろう

 武士の情けでくれてやる」



 ―――毒か… ほとほと嫌われたものだな


 重秀はこれ以上の問答を諦めた

 すでに白石の心は決まっているのだろう


 せめて苦しむ世の中を見ずに逝けることを幸いと思う事にした



「さらばだ彦次郎」

 言うや、白石は重秀の前から消えていった




 正徳三年九月二十六日

 萩原近江守重秀 

 享年五十六歳

 世の行く末を見通した、稀代の天才経済官僚の早すぎる死だった




 1714年(正徳4年) 春  近江国蒲生郡日野




 正野玄三は合薬の松前特約店の『和泉屋』西川伝兵衛を自宅に招いていた


「これが新しく出来上がった丸薬です

 今までの丸薬よりも携帯に便利で、かつ薬効に富む薬種を配合しました」

「ほう!これは…『神農感応丸しんのうかんのうがん』ですか」

 包みの表に書かれた薬品名を読み上げながら伝兵衛は早速手に取る


「確かに、今までの物よりも小粒で持ち運びに便利ですな

 これが何種類かあるのですかな?」

「いえ、今までの熱・風邪・腹痛・腹下し・嘔吐の諸症状に加えて気付けや息切れ・心の臓の苦しさにもこれ一丸で対応できるように調合致しました」


「なんと!まるで万病にこれ一丸で対応できる『医者要らず』の妙薬ですなぁ」

 伝兵衛が感嘆の声を上げる


「和泉屋さんから合薬の評判が良いと聞き、それならばより多くの効能を持たせたいと工夫を凝らしましてな」

「よいお薬ですな!早速取り扱わせていただけますか?」

「もちろんです。そのつもりでお見せしたのですから」



 正野合薬は八幡商人や地元日野の行商人たちによって各地へ販売されたが、この年に完成した神農感応丸は最大のヒット商品となり、後に服用した者から「確かに万病に効く」との証言が続出したため明治期に薬品名を『万病感応丸』と改めた

 万病感応丸は、現代に至っても日野薬品工業株式会社にて製造され、販売されている




 1715年(正徳5年) 秋  近江国八幡町 山形屋




「兄上、しっかりして下され」


 山形屋の下総佐原店を任されていた西川甚七は、長兄利助危篤の報を受けて弟の利左衛門共々八幡町に戻っていた


「甚七、それに利左衛門か… よく来てくれた」

「このような危急存亡の折りに悠長に商いなどしておれますか」

「ふふ。大げさだな…」


 利助は身を横たえながらかすかに笑った


「兄上を失っては山形屋の一大事にございますぞ。父上から受け継いだ事業をここまで大きくされたのは偏に兄上の力あってのものではありませんか」

「なに、私は運が良かっただけだ

 父上の遺言に従って、豊かになる庶民の尻馬に乗ったに過ぎん」

「それでも、商売の質の転換は兄上でなければ成し遂げられなかったことでございます」



 利助は体を起こすと、甚七と利左衛門をまっすぐに見据えた


「私亡き後は甚七が後を継ぐといい。利左衛門は甚七を支えてやってくれ

 これから商いは拡大する一方とは限らなくなる。やがてどこかで頭を打つはずだ…

 我が山形屋も縮小を余儀なくされるかもしれん


 だが決して焦るな


 焦って投機の商売に手を出せばたちまちに山形屋は滅びる

 例え能無しと言われても、堅実に今の商いを守る事に専念してほしい

 私の遺言と思って聞いてくれ」


「…しかと承りました」


 甚七と利左衛門が頭を下げた




 正徳五年十月十八日

 四代目利助はこの世を去った

 享年 五十三歳


 元禄景気の風に乗って山形屋の規模を先代利助の時代から倍以上に拡大させた功績は、商売の質の転換という困難を成し遂げた事によるものだった


 利助には男子が無く、遺言に従って弟の甚七が家督を継ぎ、山形屋五代目利助を襲名した




 1716年(享保元年) 秋  江戸城二の丸




「此度の征夷大将軍御就任まことにおめでとうございまする」

 御側御用取次役の有馬氏倫が新たに八代将軍に就任した吉宗に平伏していた


「うむ。これもその方らのおかげだ

 これよりは旧弊を廃し、紀州藩での経験を活かして質素倹約と新田開発にて公儀の難局を乗り切っていこう

 これからも力を貸してくれ」

「ハハッ!」


「差し当たって、間部や新井を罷免する。その方が取次役を行うこととしよう」

まつりごとを改められるのですな?」

「ああ、朝鮮通信使の接待などは旧に復す。削ってはならんものまで削ってはただの吝嗇ケチだからな

 だが、取り入れるべきは取り入れよう」



 新井白石は萩原重秀を追い落とした後、金銀の品位を慶長期に戻す改鋳を行っていたが、これは行き過ぎたインフレを抑制する緊縮財政政策だったと白石自身は言っている

 だが、実際には物価の上昇率はそれほど急激なものではなく、池田内閣の所得倍増計画時における名目成長率10%をはるかに下回る『適切な成長インフレ』程度のものだった


 事実として、この頃の庶民の生活が困窮していたという話が文献に出るが、その根拠は武士の残した日記や随筆などの記録だ

 つまり、物価上昇によって困窮していたのは庶民ではなく武士だった

 もちろんいつの時代も貧困にあえぐ貧民層は存在するが、それが社会の全てと思うのは間違いだ


 そして、ある商人の支払給金の推移を調べると元禄~宝永年間にかけて奉公人の人数はそれほど変わらないのに支払い給与が三倍近くに増加している

 普通の庶民は苦しいどころか物価上昇と賃金上昇による所得の増加によって町人文化を謳歌していた


 自らが苦しいのだから庶民もきっと苦しんでいるはずという根拠のない思い込みがこの定説の根底にあると思う




 そして、貧民層の苦しみを救うというお題目は時に情緒的に受け止められ、善政という評価を受けることになりやすい

 しかし、国家の経済とは単純に貧民を救えば上手くいくという安易なものではない


 事実、マルクスやエンゲルスが頭の中だけで考えた『さいきょうのせかい』を信じたレーニンによってソビエト連邦は『労働者プロレタリアートによる独裁国家』となり、結果は決して豊かとはいえない生活を庶民に強いることになった




 共産主義の根本にあるのは『平等』という観念であり、それそのものを否定はしないが、それは資本主義社会が『格差を生む諸悪の根源』であるという勘違いから出発している


 江戸時代初期の経済発展と資本主義社会の成立を見ると、資本主義社会の成立の前提には『資本の集中』と『格差の拡大』が先行している事実に気付く

 格差が拡大することで豊かさを求めて『より効率よくカネを儲けよう』という考えが生まれ、それを行う為に『資本を集中させて生産方式を工夫する』という行動が現れることで資本主義は進行する


 格差と言うと大げさに聞こえるが、その実体は親が子に向ける愛情だ

 我が子に辛い暮らしをさせたくないと思えば、親は子供に役立つを遺そうとする

 そして、貨幣経済下においてはカネが最も役に立つ物となる


 子は孫に同じように、あるいは親から受け継いだ以上の物を遺そうとする

 これによって初期的な格差が世代を経るに従って拡大していく



 つまり、資本主義社会が格差を生むのではなく、格差そのものが資本主義社会の本質であり、経済の、言い換えれば人の営みの本質なのだ




 真の平等とは『公平』であることだろう

 誰しも努力によって豊かさを手にできるチャンスがあり、また努力を怠ればたちまちに没落するリスクがある

 これ以後の享保期において行われた経済政策は、増税と無駄遣いの禁止、そして米価安定策だ

 それはとりもなおさず、富を産む手段を持たない武士の生活再建を主眼にしていることを意味する


 それまで商人の投資による富の拡大で旺盛になっていた国内総生産は、享保期に一気に冷や水を浴びせられ、人口の増加も止まり、また農民一揆も頻発するようになる



 歴史学上の評価とは裏腹に、徳川吉宗の『失政』によって国の富を産む投資主体である富裕商達は冬の時代を迎えることになる





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