第48話 儒者
1708年(宝永5年) 夏 近江国八幡町 山形屋
「申し訳ありません!」
山形屋では盆の定例報告の為、江戸支配人弥兵衛が本店へ出向いていた
三家共同出店の松店の支配人孫七は既に別家として独立していたが、弥兵衛と共に利助の前に座っていた
「ここに書いてある二十貫(約2000万円)が丸損とはどういうことだ!はっきりと説明せんか!弥兵衛!」
常の利助からは信じられないほどの怒声が容赦なく弥兵衛に浴びせられた
「細川越中守様へお売りした畳表の代金ですが、先だっての地震と富士山の噴火の復興のため、申し訳ないが支払をお断りさせてもらうと…
抗弁も許されぬ一方的なご沙汰でした…」
泣きながら詫びを入れる弥兵衛を孫七がかばった
「先年の地震と富士の噴火で江戸は今ひと方ならぬ混乱にあります
支払が滞るのは細川様だけではありません。その中で弥兵衛もよく気張っていると思います
ここは何とか穏便に済ませてやってはもらえませんか」
「………それで、焦げ付きは細川様だけか?他の大名家は支払いはしてもらえるのだな?」
「はい… 確約ではありませんが、来年にめどが付けば支払うと勘定方からお約束は頂きました」
「細川様か… 細川様は大名貸しも度々踏み倒していると聞く
畳表の代金など鼻にもかけておらんのだろうな」
苛立った声で利助が愚痴を言う
弥兵衛への怒りは収めても何かに文句を言わねば気が収まらなかった
宝永の地震と富士山の噴火によって受けたダメージは、幕府と諸大名の財政を直撃した
幕府は萩原重秀の改鋳によってある程度のカネを積み残せていたから復興財源に充てられたが、借金まみれになった諸大名にとっては痛恨の一撃となった
特に熊本藩細川綱利は大名貸しを度々踏み倒し、三井高利の孫の高房からは『不埒な家』と断罪されている
利助も支払『延期』ではなく支払『お断り』であることに怒りが収まらなかった
「朽木様の江戸御仕送り金も近頃は持ち出しが当たり前になってきている…
まったく!どいつもこいつも!」
「旦那様!いささか声が大きゅうございます!」
孫七に厳しくたしなめられてバツが悪そうに利助が口をつむぐ
長い付き合いの孫七は、時に利助を諫めてくれる良き相談相手になっていた
この年の閏正月から八幡町を一円支配した朽木主膳は、八幡の富裕商である山形屋、扇屋、大文字屋などを月並為替御用として指名し、領国からの年貢米を八幡町で売却させて売却代金を江戸へ送らせていた
しかし、江戸の朽木邸からは金何両を送れという指示があるだけで、米がいくらで売れたかということは考慮されずに必要な金子を要求するだけだった
つまり、朽木家の家計管理を八幡商人達に丸投げした
米が高値で売れれば黒字になるが、米価安となった時には売却代金では足りなくなる
出た赤字分は御用の商人達が補填するのだが、その赤字がこの頃から徐々に常態化してくる
新田開発の影響で『米価安の諸色高』がこの頃から現れ始めてくるのが原因だった
「ともかく、これだけの損害を出してそのままというわけにはいかん
江戸店の不足分は本店から為替を出す。その代り、弥兵衛は支配人を解任する
もう一度手代からやり直せ!いいな!」
「はいっ」
山形屋の経営はこの頃には既に大衆販売化に成功しており、年間売上も一時銀二百貫を超えるほど業績は伸びていた
二十貫の損失ならば補填は十分可能だった
とはいえ、年間売上の一割が
そうでなければ、今後の江戸支配人が責任を軽く考えてしまうことになる
責任者は責任を取らなければならないのが鉄則だ
1709年(宝永6年) 春 江戸城本丸
新井白石は江戸城の廊下で勘定奉行の萩原重秀とすれ違った
白石の眉間には深い皺が刻まれていた
―――ふん!憎い近江守めが!いずれ追い落としてくれる!
口元に力を込めながら重秀の横を通り抜ける
重秀は歯牙にもかけない様子だった
この年の正月に五代将軍綱吉が死去し、甲府徳川家の家宣が六代目として推挙された
元々家宣に仕える儒学者だった白石は、無役の一旗本に過ぎなかったが、家宣の将軍就任に伴って側用人間部詮房と共に幕政に大きな発言権を持った
白石が主導した政治は『正徳の治』と呼ばれ、後の八代将軍吉宗の享保の改革に繋がる善政と評価されているが、こと経済政策に関しては失政といっても差し支えないほどの後退だった
それは白石の来歴に由来している
新井白石の父は久留里藩主土屋利直に仕えるが、利直の後を継いだ直樹によって土屋家を追われ、白石は貧困の中で儒学を学んだ
白石自身は天和二年(1682年)に時の大老・堀田正俊に仕えるが、堀田正俊は二年後の貞享元年に若年寄・稲葉正休に刺殺され、さらに堀田家が次々と国替えされて財政が苦しくなると致仕して浪人となっている
そして、浪人となっても儒学を学び続け、師の木下順庵の紹介で甲府徳川家へ仕官し、その後甲府徳川家に将軍家のお鉢が回って来たために幕政に権威を振るうことになった
つまり、彼は人生の大半を『カネに使われる側』として過ごしてきた
そして、白石が学んだのは朱子学であり中国の古典や歴史だ
萩原重秀から始まった金融政策に関する造詣などカケラもない男だった
まして朱子学は『商は士大夫の為すものに非ず』という認識を持つ、重農主義政策を至上とする学問だ
それだけに徳川政権との親和性は高かったが、その分だけ貨幣経済に対する理解は不足していた
これまで順調に国の富を生産し続けてきた商人や労働者たちは、正徳の治以後は急激なデフレ政策によって不景気に苦しむことになる
1709年(宝永6年) 秋 京 越後屋京本店
「旦那様。一つご相談があります」
越後屋の重役・中西宗助は、同じく重役の小林善次郎と共に越後屋の総帥八郎右衛門高平の元を訪れていた
「相談?何事かな?」
「今各店の支配人は元祖八郎兵衛様の御子息たちによって運営されており、越後屋は全店一丸となっての経営を行っております
しかし、江戸店や京の仕入店などでは既に奉公人が支配人となっており、それぞれが『我がまま勝手』に営業を行っております」
「うむ…」
実質的に越後屋の営業を支えていた高利の次男高富はこの年の春に亡くなり、また六男の高好も高平の後を引き継いで京店の仕入れに奔走したが、五年前に若くして亡くなっていた
それぞれの店では別家が支配人となり、『三井家を割るな』と遺言した高利の思惑とは違った方向に進みつつあった
「そこで『お仲間会所』という役所を設け、各呉服店と両替店の営業を一括して管理していきたく思います」
高平は宗助のまとめた提案書の資料を何も言わずにじっくりと吟味した
「……なるほど。元方を設置して、その下に全店を配して一元管理するわけか
そして、我ら三井一族の小遣いも元方から貰うようにする…と
ははは。なるほど、六郎(高好)のように派手な金遣いは一族でも許さんというわけだ」
「はっ…」
宗助はいたたまれず目を伏せた
言いたいことは高平の言う通りだが、言い方があまりに身も蓋もなかった
「かまわんさ。確かに、若い世代には贅沢の気風があることもわかる。そしてそれをお前達が何とかしなければならんという危機感を持って提言してくれていることもな
これは少し預からせてくれ
他の兄弟や重役は私が説得していく。できるだけお前達の提案してくれた通りに運ぶようにするから」
「よろしくお願いいたします」
この宗助と善次郎の提案を受けて高利は『
そして、後に『三井十一家』と呼ばれる三井同苗の各家の『賄い金』つまり家計費も大元方から渡される事となり、大元方は越後屋の本社機能を担当する機関となった
言い換えれば、大元方という持株会社によるホールディングスグループとして越後屋グループの運営を行う事とした
各呉服店や各両替店からは大元方に資産と利益が集約され、決算を経て改めて各店へ営業資金が融資されるという形式を取った
そのため、当初は各店からの抵抗が根強く、この後二十年ほどを掛けて徐々に大元方に資産の集約が図られていくことになる
大元方は三井同苗と各店の重役の合議制で運営され、結成当初の宝永七年(1710年)に最初に各店の資産査定を行った際には銀八千八百六十四貫の資産額を計上した
これは当時の幕府が大坂で支出した一年間の金銀の約56%に上る
高利とその子供達による利益の蓄積は一代で八幡商人達を上回る程になっていた
これ以後も越後屋は『身上一致』を家法として、決して三井家の資産を割ることなく全ての利益は大元方に集約させていく経営方針を取る
分家や別家を用いて資産を分散し、同時倒産のリスクを避けようとした近江商人との決定的な違いはその組織の作り方にあった
1712年(正徳2年) 春 江戸城本丸
将軍家宣を前に老中たちが集まって評定を行っていた
評定の中心は新井白石と荻原重秀だった
「金銀は世の中にあふれるその他の物とは違いまする!諸色は皮膚や髪のようにまた作り直せば替えが利くものであるが、金銀は骨ともいうべき替えの利かない唯一のものにござる!
権現様もその品位よろしからずは用いるべきでないと遺訓を残されておられる
金銀の品位を落とす改鋳の如きものは即刻改めるべきでござる!」
白石が唾を飛ばしながら自説を叩きつける
それに対して重秀は悠然と答えた
「もし改鋳による出目(改鋳差益)が無ければこの十三年間は他にどんな手があったのかな?
元禄十六年には地震があり、宝永四年にも地震とそれに続く富士の噴火があった
旧来のやり様では今頃はご公儀の金蔵はスッカラカンになっておろう
ご公儀が救えなければ民も今頃は大勢死んでおったろうな
それをその方の申す仁と義で救えるのか?
仁も義もまずはご公儀にそれを行う財政が無ければ絵空事と変わらん
まずは改鋳で当面の手当てをし、後に税収が豊かになれば金銀の品位を戻せば良いことではないか」
白石がギリギリとこめかみに青筋を立てて反論する
「近江守殿(重秀)の申される事も一理あるように聞こえるが、そもそも最初に改鋳の如き天を冒涜するような行いをしなければ地震や噴火も起きなかったかもしれないではないか!」
やれやれという風情で重秀が首を振る
見かねて家宣が口を挟んだ
「もうよい。近江守が公儀の財政を立て直したのは事実だ
今天下の財政を司るに、荻原以上の者は居らぬ」
「!! しかし!」
「控えよ!余の言う事に従えぬか!」
「………失礼仕りました」
白石は頭を下げながら怒りは心頭に達していた
―――おのれ萩原!必ず追い落としてくれるわ!
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